表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

132/167

第9章 第7話:王の血を持ち込むな


 王の血を、ここより先へ持ち込むな。


 その文字は、石の裏側に残っていた。


 表には、灰銀突破点。


 王国軍の戦功名。


 まっすぐで、強くて、勝った側の文字。


 裏には、旧文字。


 削れ、苔に隠れ、転用された石材の奥で、かろうじて残っていた警告。


 王の血を、ここより先へ持ち込むな。


 アルト・レインフォードは、宿場の食堂でその写しを見ていた。


 昨夜、エレオノーラ・ヴィンスフェルトが石碑裏の文字を丁寧に写し取ったものだ。


 紙の上では、文字は静かだった。


 だが、アルトの左手首は、それを見るたびに少しだけ熱を持つ。


 痛みはない。


 声もない。


 けれど、熱はある。


「痛みなし。熱少し。声なし。現在地、北西宿場の食堂」


 アルトが言うと、隣のリゼ・グレイスが頷いた。


「確認しました」


 リゼは写しではなく、その横に置かれた二枚の地図を見ている。


 王国軍地図。


 旧ヴェルグラント地図。


 灰銀突破点。


 白鐘北礼拝堂跡前方参道。


 その二つを重ねた場所に、昨日確認した石碑が立っていた。


 表に戦功名。


 裏に禁忌文。


 リゼはその事実を、昨日から何度も記録している。


 だが、記録しても軽くならないものがある。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、写しの文字をじっと見ていた。


 淡い亜麻色の髪を低くまとめ、薄紫の瞳はいつもより暗い。


 彼女の手は、鞄の内側の香草袋に触れている。


 母の香草ではない。


 母を思い出す香草。


 それでも、この文字の前では、母の言葉がどうしても近づいてくる。


 王の血だけで開く扉は、王を滅ぼす。


 扉は、血を試すためにあるのではない。


 帰る音を見失わないためにある。


 アルトは、その言葉を何度も聞いた。


 エリアナの母が残した言葉。


 白鐘の封に関わるかもしれない言葉。


 それが、石碑裏の警告と重なった。


 王の血を持ち込むな。


 王の血だけで開く扉は、王を滅ぼす。


 血。


 王家。


 銀環。


 扉。


 それらが、ひとつの不安になって胸に沈む。


 ミリア・ファルネーゼが、エリアナの斜め横から静かに声をかけた。


「状態は」


 エリアナは一度、息を吸った。


「身体異常なし。感情、怖さ。怒り。血という言葉への嫌悪があります」


 エレオノーラが記録する。


 ミリアは頷いた。


「続けられる?」


「はい。続けたいです」


 ユリウス・エインズワースは、写しの横に今日の確認予定を置いた。


「本日の目的。石碑裏旧文字の再確認。禁忌文の意味整理。白鐘北礼拝堂跡前方までの再調査。ただし、礼拝堂跡内部および地下構造物へは入らない。王の血という語を、アルト君やエリアナさんの危険判定に用いない」


 アルトの左手首が少し熱を持った。


「痛みなし。熱少し。声なし。危険判定に用いない、で少し落ち着きました」


 リゼが頷く。


「確認しました」


 カイ・ロックハートは、保存食袋を膝の上で握っていた。


「血って、便利な言葉なんですよね」


 ロウ教師が壁際で腕を組んだまま見る。


 カイは少し緊張しながら続けた。


「前に先生が言ってました。血は便利な説明だって」


 ロウは頷いた。


「言った」


「今日は、それを使わないようにする日ですか」


「使わないのではない。血という条件が書かれている以上、無視はできん。だが、人を血だけにしない日だ」


 カイは真剣に頷いた。


「はい」


 クラウス・ヴァイゼルが写しを見ながら言った。


「旧文字の読みは、ほぼ確定してよい。“王の血を、ここより先へ持ち込むな”。ただし、この“王の血”が具体的に何を指すかは未確定だ。王家血統者本人か、血液そのものか、王家由来の封印反応か、王印や儀礼具の可能性もある」


 エリアナが低く言う。


「でも、血と書いてある」


「そうだ」


 クラウスは頷く。


「書いてある以上、血統や王家反応と関係する可能性は高い」


 アルトは左手首を押さえた。


「僕の銀環は、王家と関係があるかもしれません」


 リゼがすぐに見る。


「はい」


「エリアナさんも、旧王家の傍系です」


 エリアナの指が少し硬くなる。


 アルトは息を吸った。


「だから、僕たちは両方とも、ここより先へ行ってはいけない条件かもしれません」


 部屋が静かになった。


 怖いことを言った。


 でも、言わずにはいられなかった。


 自分が鍵ではないかもしれない。


 危険な条件かもしれない。


 近づくだけで、扉を壊すものかもしれない。


 アルトは、自分の左手首を見た。


「僕は鍵じゃなくて、危険な条件かもしれないんですか」


 声が少し震えた。


 ミリアがすぐに言った。


「どちらにしても、あなたを道具にする理由にはならないわ」


 その言葉は、はっきり届いた。


 ミリアは続ける。


「鍵でも、危険条件でも、反応情報でも、アルトさんはアルトさんよ。人を何かの機能に変える言葉にはしない」


 リゼが静かに頷く。


「はい。アルトさんを鍵、または危険条件だけとして扱いません」


 エリアナも言った。


「私も、血だけではありません」


 その声は少し硬かった。


 だが、強い。


「旧王家の傍系であることは事実です。でも、私を王の血だけで扱わないでください」


 アルトはエリアナを見る。


 エリアナも、アルトを見た。


 二人は似ているかもしれない。


 白鐘に反応する可能性。


 王家に関わる可能性。


 王宮から見れば、同じ箱に入れやすい二人。


 だが、同じではない。


 リゼが静かに言う。


「二人を同じ箱に入れません」


 ミリアが頷く。


「ええ」


 エレオノーラが記録する。


 王の血。


 血統。


 禁忌条件。


 アルトさん、危険条件として扱われる恐怖あり。


 エリアナさん、血だけで扱われることへの拒否あり。


 二人を同じ箱に入れない。


 クラウスは慎重に続けた。


「白鐘の封が“王の血を持ち込むな”と警告しているなら、それは王の血が鍵だからではなく、危険な増幅条件だからかもしれない」


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みなし。


 声なし。


「危険な増幅条件」


「可能性だ」


 クラウスはすぐに言う。


「断定ではない。ただ、エリアナさんの母上の言葉、“王の血だけで開く扉は、王を滅ぼす”と合わせるなら、王の血は扉を開く正当な鍵ではなく、誤った開封条件、あるいは壊れる条件として扱われていた可能性がある」


 エリアナが香草袋を握る。


「母は、王の血で扉を叩いてはいけない、と言っていました」


「はい」


「それは、王の血が強いからではなく、危ないから」


「その可能性があります」


 アルトは小さく言った。


「僕が強いからじゃなくて、壊れやすいからかもしれない」


 その言葉に、リゼの表情が変わった。


「アルトさん」


 アルトは首を横に振った。


「大丈夫です。今のは、少し怖いですが、言葉にした方がいいと思いました」


 ロウ教師が低く言う。


「よく言った」


 アルトは息を吐く。


「僕は、鍵と呼ばれるのも嫌でした。でも、危険条件と言われるのも怖いです」


 ミリアが頷く。


「当然よ」


「どちらでも、僕が僕じゃなくなる感じがします」


 エリアナが静かに言った。


「私もです。王の血と呼ばれると、私の名前が遠くなります」


 リゼが言う。


「名前確認を提案します」


 全員が少しだけ頷いた。


 まず、アルト。


「アルト・レインフォードです」


 次に、エリアナ。


「エリアナ・ルクス・ヴェルグラントです」


 リゼ。


「リゼ・グレイスです」


 ミリア。


「ミリア・ファルネーゼです」


 カイ。


「カイ・ロックハートです」


 ユリウス。


「ユリウス・エインズワースです」


 エレオノーラ。


「エレオノーラ・ヴィンスフェルトです」


 クラウス。


「クラウス・ヴァイゼルです」


 ロウ教師は少しだけ間を置いた。


「ロウだ」


 カイが小声で言う。


「先生だけ短い」


「十分だ」


 その短いやり取りで、張りつめていた空気がわずかに緩んだ。


 名前が戻る。


 血ではなく。


 鍵ではなく。


 条件ではなく。


 名前で呼ぶ。


 ユリウスは計画書を閉じた。


「今日は、禁忌文の再確認を行う。ただし、“王の血”という語に引っ張られない。現地でアルト君やエリアナさんに反応誘発行為はしない。石碑裏の写しを取り、周辺構造との位置関係を確認する。礼拝堂跡内部へは入らない」


 全員が頷いた。


 宿を出ると、昨日より空が明るかった。


 霧は薄い。


 道は見えやすい。


 だが、見えやすいことが必ずしも楽ではない。


 進む先が、はっきり見えるからだ。


 鳴らさぬ谷の入口へ向かう道は、もう三度目だった。


 それでも、白布の石柱が見えると、アルトの左手首は反応した。


「痛みなし。熱少し。声なし。白布確認」


 エリアナの香草袋から、ほんの少し香りが漏れる。


 熱が少し落ち着く。


 リゼが白布へ静かに頭を下げる。


 全員もそれに続いた。


 触れない。


 ほどかない。


 声を落として入る。


 谷の中へ進むと、音が遠くなった。


 昨日と同じ。


 だが、今日は「王の血」という言葉が頭に残っているせいか、静けさが少し重い。


 カイは本当に小声だった。


「声、これくらいでいいですか」


 ミリアが頷く。


「良いわ」


 リゼが周囲を確認する。


「歩行順、昨日と同じ。足元注意。石段前で一度停止」


 隊列、ではなく歩行順。


 その言い換えは、今日も守られている。


 古い石段へ着く。


 昨日、障害地形ではなく参道として見直した場所。


 リゼは一段目で止まった。


「身体異常なし。感情、緊張。参道確認。進行可能」


 エリアナも言う。


「身体異常なし。香草袋保持。進行可能」


 アルト。


「痛みなし。熱少し。声なし。進めます」


 石段を登る。


 一段。


 二段。


 三段。


 昨日より、少しだけゆっくり。


 急がない。


 突破しない。


 確認する。


 石碑が見えてきた。


 灰銀突破点。


 表の文字は、昨日と同じように強かった。


 その奥に、崩れた礼拝堂跡の影が見える。


 今日はそこへは入らない。


 石碑の裏へ回る。


 足元を確認しながら、クラウスとエレオノーラが写しの準備をする。


 ユリウスが全員の距離を確認する。


 アルトとエリアナは、石碑に近づきすぎない位置に立つ。


 リゼは二人の斜め後方。


 剣に手は触れていない。


 ミリアは三人の表情が見える場所。


 カイは少し離れて、保存食袋を持っている。


 クラウスが旧文字を丁寧に確認する。


「昨日の読みでほぼ間違いない。“王の血を、ここより先へ持ち込むな”。ただし、“持ち込むな”の後に、さらに短い文字がある」


 エリアナが反応する。


「続きですか」


「欠けているが、読めるかもしれない」


 クラウスは慎重に苔を払う。


 石を削らない。


 文字を傷つけない。


 白い粉が少し落ちる。


 エレオノーラが拡大鏡を出した。


 クラウスが目を細める。


「……音……乱れる……」


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みはない。


 声なし。


 クラウスは続けた。


「“王の血を、ここより先へ持ち込むな。音、乱れる”に近い」


 エリアナの口元が硬くなる。


「音が乱れる」


 アルトは左手首を押さえた。


「痛みなし。熱中。声なし。“音、乱れる”で反応しました」


 リゼがすぐに確認する。


「継続可能ですか」


「はい。声はありません」


 クラウスは言った。


「王の血が、音の乱れを起こす条件と見られていた可能性がある」


 エリアナが低く言う。


「王の血が偉いからではなく、乱すから」


「可能性です」


「はい」


 エリアナは息を吸った。


「記録してください。私は、その方が少し納得できます。王の血を特別視するためではなく、危険を避けるための警告だった可能性」


 エレオノーラが記録する。


 アルトはその言葉を聞き、少しだけ胸の重さが変わるのを感じた。


 王の血を持つから偉いのではない。


 王の血を持つから開けるのでもない。


 むしろ、持ち込んではいけない。


 それは怖い。


 けれど、鍵と呼ばれるより、少しだけ違う。


 自分を使って何かを開ける理由にはならない。


 むしろ、近づけてはいけない理由かもしれない。


 だが、それもまた、隔離の理由に使われるかもしれない。


 アルトは言った。


「僕を、近づけてはいけない危険物にしないでください」


 リゼが即座に答える。


「しません」


 ミリアも。


「しないわ」


 エリアナも言った。


「私も、されたくありません」


 アルトは頷いた。


「はい」


 クラウスは石碑の裏側をさらに見る。


「この警告文は、礼拝堂跡のさらに奥、または地下へ向かう前の注意書きだった可能性がある。王の血を持つ者が、ここより先へ入ると音が乱れる。つまり、白鐘の封が本来保っていた静けさや均衡が崩れる、と考えられていたのかもしれない」


 ロウ教師が問う。


「では、王の血は鍵か」


 クラウスは首を横に振る。


「少なくとも、この文からは鍵とは読めない。禁止条件だ」


 アルトの左手首の熱がわずかに下がった。


「痛みなし。熱少し低下。声なし。鍵ではなく禁止条件、で少し落ち着きました」


 リゼが頷く。


「確認しました」


 エリアナは香草袋を手に取った。


 開けない。


 ただ、布越しに持つ。


「母の言葉は、怖がらせるためだけではなかった」


 ミリアが静かに頷く。


「ええ」


「王の血を誇るためでもなかった」


「ええ」


「止めるため」


 エリアナは石の文字を見た。


「乱さないため」


 その声に、谷の静けさが重なる。


 アルトの左手首は温かい。


 でも、痛みはない。


 声もない。


 リゼが石碑の表側へ視線を向けた。


 灰銀突破点。


 その裏に、王の血を持ち込むな。音、乱れる。


「王国軍は、この警告を理解していなかった可能性があります」


 クラウスが頷く。


「ある。旧文字を読めなかったか、重要視しなかったか、あるいは読んだ者がいたが戦功碑設置に反映されなかったか」


「はい」


 リゼは静かに言った。


「私の名は、持ち込むなと書かれた石の表に置かれました」


 エリアナがリゼを見る。


「はい」


「王の血を持ち込むなという警告の上に、灰銀突破点が刻まれました」


「はい」


「私は、王の血ではありません」


「はい」


「ですが、私の名もまた、ここに持ち込まれました」


 その言葉に、全員が黙った。


 血ではない。


 だが、王国軍の勝利の名。


 灰銀の戦乙女の英雄譚。


 それもまた、旧礼拝堂の境界へ持ち込まれた。


 エリアナは少し時間を置いて言った。


「あなたの名も、道具にされたのですね」


 リゼの瞳が揺れた。


 エリアナは続けた。


「それを言うことは、私の怒りを消すことではありません」


 リゼは頷く。


「はい」


「私は、ここに灰銀突破点と刻まれたことに怒っています」


「はい」


「でも、その名があなた自身を離れて使われたことも、見ます」


 リゼは息を吸った。


「受け取ります」


「受け取ってください」


「はい」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 名前が、本人を離れて使われる。


 アルト。


 エルディア。


 鍵。


 保護対象。


 銀環反応。


 たくさんの名前が、自分を離れていこうとする。


 リゼの灰銀も、そうだったのかもしれない。


 エリアナの王の血も、そうだったのかもしれない。


 ミリアが言った。


「一度、休憩しましょう」


 ユリウスが頷く。


「同意する。石碑から離れる。礼拝堂跡へは進まない」


 石碑から二十歩下がった場所で休憩する。


 昨日と同じ場所に近い。


 カイが包みを出した。


 ミリアが尋ねる。


「名前は?」


 カイはかなり悩んだ。


 王の血。


 鍵じゃない。


 危険条件。


 音が乱れる。


 名前が本人を離れて使われる。


 それらをどう呼ぶか、彼なりに真剣に考えている。


 やがて、カイは小さく言った。


「血だけでも、名前だけでも決めない用」


 エリアナがその言葉を聞いて、静かに頷いた。


「はい。今日は、それがよいです」


 リゼも頷く。


「非常に適切です」


 アルトも言った。


「僕も、それがいいです」


 カイは少しだけほっとして包みを開いた。


 小さな焼き菓子と、香草パンの欠け。


 アルトは成分を読み上げた。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 香草パンを口に入れる。


 苦味。


 甘さ。


 香り。


 今日は、その香りが石碑の文字から少しだけ距離を作ってくれる。


 エリアナは小さく噛み、飲み込んだ。


「血だけではありません」


 彼女は言った。


 リゼが頷く。


「はい」


「でも、血の話から逃げません」


「はい」


「アルトさんも、鍵でも危険条件でもありません」


 アルトは頷く。


「はい」


「でも、反応はあります」


「はい」


「それを、情報として扱います」


 アルトは少しだけ胸が温かくなった。


「はい。ありがとうございます」


 エリアナは目を伏せる。


「感謝されることではありません」


 少し間を置いて、彼女は言い直した。


「でも、受け取ってください」


 アルトは頷いた。


「受け取ります」


 リゼは石碑の方を見ていた。


「私の名も、道具として刻まれました」


 ミリアが静かに言う。


「ええ」


「ですが、私は、その名だけではありません」


「ええ」


「ここへ来て、それを確認しています」


 カイが言った。


「ちゃんと、生徒として来てます」


 リゼがカイを見る。


 カイは真面目だった。


「突破しに来たんじゃなくて、確認しに来てます。昨日も今日も、奥まで行かなかったし」


 リゼの表情が少しだけ和らいだ。


「はい。確認に来ています」


 ロウ教師が立ち上がった。


「今日はここまでだ」


 カイが一瞬、礼拝堂跡の方を見る。


「また、ここまでですか」


「そうだ」


 ロウ教師は答える。


「王の血の警告文を読んだ日だ。その先へ進む理由にはならん。むしろ止まる理由だ」


 クラウスも頷く。


「賛成です。礼拝堂跡へ進む前に、禁忌文の意味をもう少し整理する必要があります」


 ユリウスが判断する。


「本日は石碑裏旧文字の再確認で終了。礼拝堂跡への接近は次回以降」


 リゼは頷いた。


「了解しました」


 アルトも。


「はい」


 エリアナも。


「はい」


 帰り道、石段を下りる前に、アルトは一度だけ石碑を振り返った。


 表の文字は、こちらからは見えない。


 裏の旧文字も、もう苔と影の中に隠れている。


 だが、そこには確かに書かれていた。


 王の血を、ここより先へ持ち込むな。


 音、乱れる。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 自分は鍵ではない。


 危険物でもない。


 ただ、反応する人間だ。


 その反応を、自分の声と一緒に扱う。


 それを忘れないように、記録表に書いた。


 谷を出ると、音が戻った。


 鳥の声が近い。


 風の音がはっきりする。


 カイが小声のまま言った。


「外でも小声になっちゃうな」


 ミリアが笑った。


「少しずつ戻せばいいわ」


 リゼが頷く。


「声量、段階的回復」


 カイが笑いかけて、すぐ少しだけ普通の声に戻した。


「了解」


 宿へ戻った頃、夕方の光は昨日より赤かった。


 食堂の窓から、山の影が長く伸びて見える。


 その奥に、石碑がある。


 そのさらに奥に、白鐘北礼拝堂跡がある。


 まだ入っていない。


 今日も入らなかった。


 それは後退ではない。


 戻るための確認だった。


 夕食後、五人は宿の食堂の隅で状態確認をした。


 アルト。


「痛みなし。熱少し。声なし。王の血の文字は怖かったです。でも、鍵ではなく禁止条件と聞いて、少し落ち着きました」


 リゼ。


「身体異常なし。疲労あり。感情、重い。灰銀の名が警告文の表に刻まれていたことを確認しました。私自身ではないが、無関係でもありません」


 エリアナ。


「身体異常なし。疲労あり。感情、怒り、怖さ。王の血という言葉に不快感があります。ただし、血だけで自分を扱わないと確認しました」


 ミリア。


「身体異常なし。全員、今日は止まれました。良好です」


 カイ。


「身体異常なし。馬車酔いなし。声量、やや小さめから通常へ戻し中。血だけでも名前だけでも決めない用、残り一袋あります」


 リゼが頷く。


「配分、良好です」


 エリアナが香草袋に触れる。


「明日は、礼拝堂跡へ近づくかもしれません」


 ユリウスが地図を見ながら答えた。


「状態次第だ」


 ロウ教師が言う。


「行けるかではなく、戻れるかで決めろ」


 カイが真面目に頷いた。


「戻るまでが旅支度」


 リゼが即座に頷く。


「はい」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 王の血を持ち込むな。


 音、乱れる。


 その文字はまだ怖い。


 けれど、今日は少しだけわかった。


 白鐘の警告は、王の血を崇めるためではなく、乱さないためのものだったのかもしれない。


 王の血でも、灰銀の名でも、人を決めてはいけない。


 血も名前も、情報にはなる。


 でも、判決にはしない。


 宿の外では、夜が降り始めていた。


 遠く、鳴らさぬ谷の方角はもう暗い。


 そこでは白布が、音を立てずに揺れているのかもしれない。


 アルトは耳を澄ませた。


 声はない。


 鐘もない。


 ただ、明日へ続く静けさだけが、薄い布の向こうからこちらを見ていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ