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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第9章 第6話:灰銀突破点


 灰銀突破点、という名は、王国軍の地図の上で赤く囲まれていた。


 古い紙。


 軍務局の印。


 補給線、封鎖線、突破経路。


 それらの記号の中に、ひとつだけ、やけに目立つ赤丸がある。


 灰銀突破点。


 リゼ・グレイスは、その文字を見たまま、しばらく動かなかった。


 朝の宿場の食堂。


 まだ外は薄く霧がかかっている。


 窓の外では馬が低く鼻を鳴らし、厨房からは湯気の匂いが流れてくる。


 それでも、机の上の地図だけが、別の空気を持っていた。


 戦場の匂い。


 鉄。


 土。


 焦げた木。


 短い命令。


 走る足音。


 そして、突破せよ、という声。


「リゼさん」


 アルト・レインフォードの声が、隣から届いた。


 小さい。


 だが、確かに届く。


 リゼは瞬きをする。


「はい」


「現在地は」


「北西宿場、食堂」


「名前は」


「リゼ・グレイス」


「今は」


「王立学園の生徒です。現地確認中です」


 アルトが頷いた。


「良好です」


 リゼも小さく頷き返す。


 アルトは左手首に触れていた。


「痛みなし。熱少し。声なし。“灰銀突破点”で少し反応しました」


 エレオノーラ・ヴィンスフェルトが記録する。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、地図を見つめていた。


 薄紫の瞳は硬い。


 怒り。


 怖さ。


 そして、何かを呑み込まないための緊張。


 ミリア・ファルネーゼがそっと尋ねる。


「状態は」


 エリアナは一度、息を吸った。


「身体異常なし。感情、怒り。灰銀突破点という名に、不快感があります」


「続けられる?」


「はい。ですが、その名前だけで呼び続けられることは嫌です」


 ユリウス・エインズワースが頷いた。


「学園側記録では、今日の確認地点を“鳴らさぬ谷奥部参道/白鐘北礼拝堂跡前方(王国軍戦功記録名:灰銀突破点)”とします」


 エレオノーラがすぐに記録する。


 リゼは静かに言った。


「適切です」


 エリアナも小さく頷いた。


「はい」


 カイ・ロックハートは、保存食の袋を膝の上で抱えながら、地図の赤丸を見ていた。


「突破点って、なんか強い言葉ですよね」


 ロウ教師が食堂の壁際で腕を組んでいる。


「そうだ」


「強い側の言葉って感じがします」


「その通りだ」


 カイは少し眉を寄せた。


「じゃあ、今日はその強い言葉の場所へ行くんですね」


 ロウ教師は頷いた。


「行く。だが、その言葉だけで見るな」


 リゼは地図から目を離さずに言った。


「はい」


 クラウス・ヴァイゼルが、王国軍地図の横に旧ヴェルグラント側の地図を重ねた。


 赤丸の下に、別の線が現れる。


 古い参道。


 礼拝堂へ続く石段。


 旧名は、かすれて読みにくい。


 だが、クラウスが指で示した先には、薄く「北礼拝堂」と読める文字があった。


「戦功記録上の灰銀突破点は、旧地図上では白鐘北礼拝堂跡へ向かう参道の入口付近と重なる」


 食堂の空気がさらに静まる。


 エリアナの指が香草袋の上で硬くなる。


 アルトの左手首も少し熱くなった。


 リゼは、声を落として言った。


「私は、礼拝堂参道を突破点として処理した可能性があります」


 エリアナがリゼを見る。


「はい」


「当時、私はそれを知りませんでした」


「はい」


「ですが、知らなかったことで終わらせません」


「はい」


 その確認は、すでに何度も繰り返してきた。


 けれど、今日は目の前に地図がある。


 言葉だけではない。


 これから、その場所へ行く。


 ユリウスが地図を畳んだ。


「本日の目的。鳴らさぬ谷奥部参道の確認。王国軍戦功碑跡の確認。白鐘北礼拝堂跡へ続く道の入口確認。地下構造物への接近はしない。礼拝堂跡内部への進入も、現地状態を確認して判断する」


 ロウ教師が続ける。


「今日も急がない。突破点という名に引っ張られるな。突破しない。確認する」


 リゼは頷いた。


「突破しません。確認します」


 アルトも言った。


「僕の反応も、突破の理由にはしません」


 エリアナが続ける。


「私の怒りも、急ぐ理由にはしません」


 ミリアが静かに微笑む。


「良好よ」


 食堂を出る前に、全員が状態確認を行った。


 アルト。


「痛みなし。熱少し。声なし。感情、怖さと緊張。現在地、北西宿場」


 リゼ。


「身体異常なし。感情、緊張。灰銀突破点という戦功名に反応あり。現在地保持。剣は最後の手段として携行」


 エリアナ。


「身体異常なし。感情、怒り、怖さ。灰銀突破点という名への不快感あり。香草袋を持っています」


 ミリア。


「身体異常なし。全員の負荷が昨日より高いです。休憩を多めに提案します」


 カイ。


「身体異常なし。馬車酔い警戒中。保存食数、良好。今日は大声出しません」


 リゼが真面目に頷く。


「重要です」


 カイは少しだけ緊張した顔で頷き返した。


 宿を出ると、昨日と同じ道を進んだ。


 馬車で分岐まで行き、そこから徒歩で古道へ入る。


 朝の霧は昨日より薄い。


 その分、石柱や崩れた縁石がはっきり見えた。


 リゼは歩くたびに、戦時中の記憶と現在の風景を照合している。


 右の岩壁。


 左の低い崖。


 折れた木。


 道の曲がり。


 昨日までは「敵待伏せ警戒地点」としての記憶が強かった。


 だが今日は、その奥へ進む。


 リゼがかつて「突破した」と記録された場所へ。


 鳴らさぬ谷の入口に着くと、白布は昨日と同じように揺れていた。


 こす。


 こす。


 布が石に擦れる音。


 アルトの左手首が温かくなる。


「痛みなし。熱少し。声なし。白布で反応しました」


 エリアナの香草袋から、ほんの少し香りが漏れる。


 アルトの熱が少し落ち着く。


 クラウスが測定具を確認した。


「昨日と同程度。強い異常なし」


 ユリウスが頷く。


「入口で一度停止。状態確認」


 全員が低い声で答えた。


 昨日と同じように、白布には触れない。


 石柱にも触れない。


 ただ、頭を下げてから、谷へ入る。


 今日は五十歩では止まらない。


 だが、急がない。


 歩数を数えながら進む。


 五十歩。


 百歩。


 百五十歩。


 谷の中の音は、昨日と同じように遠い。


 足音が、足元ではなく少し後ろから聞こえるような錯覚がある。


 カイが小さく言った。


「やっぱり、音が変だ」


 クラウスが頷く。


「記録する」


 カイは少しだけ得意げだったが、すぐ真面目に戻った。


「怖いですけど、昨日よりは慣れました」


 ロウ教師が言う。


「慣れと無傷を混同するな」


「はい」


 谷を進むにつれ、岩壁の間に古い石段が見え始めた。


 最初は崩れた岩のように見えた。


 しかし、近づくと、明らかに人が組んだものだとわかる。


 段差は低く、幅は広い。


 軍用の急造路ではない。


 多くの人が、ゆっくり歩くための石段。


 リゼは足を止めた。


「ここは」


 声が少し揺れる。


 アルトがすぐに見る。


「リゼさん」


「はい」


「現在地」


「鳴らさぬ谷内部。旧石段前」


「名前」


「リゼ・グレイス」


「今は」


「王立学園の生徒です。現地確認中です」


 リゼは石段を見る。


「戦時中、この段差を“障害地形”として処理した可能性があります」


 エリアナが石段を見た。


「参道です」


 クラウスが頷く。


「旧地図と合う。白鐘北礼拝堂跡へ続く参道と見てよい」


 リゼは静かに息を吸った。


「障害地形ではなく、参道」


 ロウ教師が低く言う。


「両方だ。戦場では障害地形だった。ここでは参道だった。どちらかだけにするな」


 リゼは頷く。


「はい。併記します」


 石段を登る。


 一段ずつ。


 足音は鈍い。


 谷の静けさに吸われる。


 上へ進むにつれ、右手側の岩壁に人工的な溝が見えた。


 布を通すためのものか。


 灯を置くためのものか。


 エリアナが小さく言う。


「ここにも、布を掛けた跡があります」


 クラウスが確認する。


「その可能性がある。入口だけではなく、参道全体に白布を掛ける場所があったのかもしれない」


 リゼはその溝を見つめた。


「私は、白布を進路妨害物または敵合図として処理した可能性があります」


 エリアナが答える。


「はい」


「今、参道の境界布跡として確認しています」


「はい」


 何度も、こうして言葉を置く。


 謝罪で終わらせない。


 怒りで決めつけない。


 だが、痛みを消さない。


 石段を登り切ると、開けた場所に出た。


 そこには、半壊した石碑があった。


 王国軍のものだ。


 旧い石柱や白布の痕跡とは明らかに違う。


 角が直線的で、文字も王国語。


 上部は折れているが、中央の文字は残っていた。


 灰銀突破点。


 それを見た瞬間、リゼの呼吸が止まった。


 アルトの左手首も強く熱を持つ。


 痛みはない。


 声もない。


 だが、胸が重い。


「痛みなし。熱中。声なし。“灰銀突破点”現地石碑で反応しました」


 ミリアがすぐに言った。


「全員停止」


 全員が止まる。


 リゼは石碑を見ている。


 灰銀突破点。


 それは紙の上の文字とは違った。


 石に刻まれている。


 この場所に、王国が名を置いた。


 灰銀の戦乙女の突破点として。


 エリアナの顔色も変わっている。


 薄紫の瞳に、怒りが浮かぶ。


 その石碑の下には、古い参道がある。


 白布の結び跡がある。


 鳴らさぬ谷がある。


 白鐘北礼拝堂跡へ向かう道がある。


 その上に、灰銀突破点という名が乗っている。


 リゼが小さく言った。


「ここが」


 声が途切れる。


 アルトが言う。


「リゼさん。名前は」


「リゼ・グレイス」


「今は」


「王立学園の生徒です」


「ここは」


 リゼは一度、強く息を吸った。


「鳴らさぬ谷奥部参道。白鐘北礼拝堂跡前方。王国軍戦功記録名、灰銀突破点」


 エレオノーラが記録する。


 ロウ教師が低く言う。


「よし」


 リゼは石碑を見つめたまま続けた。


「私は、ここを突破点として記録されました」


 クラウスが慎重に答える。


「王国軍記録上は、その可能性が高い」


「私は、ここが礼拝堂参道であることを知りませんでした」


「はい」


「ですが、私の知らないところで、私の名が置かれました」


 その言葉は、重かった。


 エリアナが静かに言った。


「私の故国の祈りの入口に」


 リゼはエリアナを見る。


「はい」


「あなたの名が置かれました」


「はい」


「私は、怒っています」


「はい」


 エリアナの声は震えていない。


 だが、硬い。


「でも、あなたがその石碑を建てたとは、まだ言いません」


 リゼの瞳が揺れた。


「はい」


「あなたの英雄譚に、私の故国を全部入れないでください」


 リゼは息を止めた。


 エリアナは続けた。


「でも、あなた一人の罪にも入れません」


 谷の静けさの中で、その言葉はまっすぐ届いた。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 リゼは深く、深く頷いた。


「はい。受け取ります」


「受け取ってください」


「はい」


 ミリアが静かに息を吐いた。


 カイは唇を結んでいる。


 突撃しない。


 怒鳴らない。


 ただ、その場にいる。


 それだけでも、彼にとっては相当な努力に見えた。


 ユリウスが石碑の周囲を確認する。


「接触なし。まず目視で裏面を確認したい」


 ロウ教師が頷く。


「足元注意。二名以上で動け」


 ユリウス、クラウス、エレオノーラが石碑の側面へ回る。


 リゼは少し離れた場所で立っていた。


 エリアナも同じく距離を取っている。


 アルトはリゼの隣にいる。


 石碑の裏側は、苔と土に覆われていた。


 クラウスが布越しに軽く苔を払う。


 すると、古い文字が見えた。


 王国語ではない。


 旧文字。


 おそらく、王国軍石碑を建てる前からあった石材を転用したのだろう。


 クラウスの表情が変わる。


「旧文字が残っている」


 エリアナが顔を上げた。


「読めますか」


「一部なら」


 クラウスは慎重に読む。


「……王の……血を……」


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みはない。


 声なし。


 エリアナの瞳も鋭くなる。


 クラウスは続けた。


「ここより先へ……持ち込むな」


 谷の空気が、さらに静かになった。


 王の血を、ここより先へ持ち込むな。


 第8章で旧地図に残っていた注記。


 エリアナの母の言葉。


 王の血だけで開く扉は、王を滅ぼす。


 その禁忌の一部が、ここに刻まれている。


 しかも、その石材の表側には、灰銀突破点。


 アルトは左手首を押さえた。


「痛みなし。熱中。声なし。“王の血をここより先へ持ち込むな”で反応しました」


 ミリアがすぐに確認する。


「続けられる?」


「はい。声はありません」


 リゼは石碑の表と裏を見ていた。


 表に、灰銀突破点。


 裏に、王の血を持ち込むな。


「同じ石です」


 リゼが言った。


 クラウスが頷く。


「おそらく、旧石材を転用して王国軍戦功碑を建てた。旧文字を完全には削らなかったか、削れなかったか」


 エリアナの声が低くなる。


「禁忌の上に、戦功名を刻んだのですか」


 誰もすぐには答えなかった。


 答えられなかった。


 カイが小さく言う。


「それ、ひどいだろ」


 ロウ教師が見た。


 カイはすぐに続けた。


「感情として、ひどいと思います。記録は、まだ確認中です」


 ロウ教師は頷いた。


「よし」


 エレオノーラが記録する。


 エリアナは石碑を見つめていた。


「王の血を持ち込むな、という警告があった場所に、王国軍は戦功碑を置いた」


 クラウスが慎重に言う。


「王国軍が旧文字の意味を理解していたかどうかは、まだ不明だ」


「はい」


 エリアナは頷く。


「でも、置きました」


「はい」


 リゼが静かに言った。


「私の名で」


 エリアナがリゼを見る。


「はい」


 リゼは石碑を見ていた。


「私の英雄譚は、ここに刻まれています」


 ロウ教師が問う。


「お前自身か」


 リゼはすぐに答えなかった。


 灰銀突破点。


 リゼ・グレイス。


 灰銀の戦乙女。


 王宮の剣。


 生徒。


 それらが胸の中で絡まる。


 アルトが小さく言う。


「リゼさん」


「はい」


「今、何を見ていますか」


 リゼは答えた。


「王国軍戦功碑。灰銀突破点の文字。裏面に旧文字、王の血をここより先へ持ち込むな。白鐘北礼拝堂跡参道上に建てられています」


「リゼさん自身ですか」


 リゼは息を吸った。


「いいえ」


 その答えは、ゆっくりだった。


「これは、私を使った記録です。私自身ではありません」


 エリアナの瞳が揺れる。


 ミリアが静かに頷いた。


「良好よ」


 ロウ教師も言った。


「よく戻った」


 リゼは目を伏せず、石碑を見ていた。


「ただし、私と無関係でもありません」


 エリアナが頷く。


「はい」


「私は、この名から逃げません。しかし、この名だけにはなりません」


「はい」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 灰銀突破点。


 その石碑は、リゼではない。


 でも、リゼと無関係でもない。


 それを同時に持つことは、とても重い。


 しかし、リゼは立っていた。


 ミリアが提案する。


「休憩しましょう。この場で食べるか、少し離れるか」


 エリアナが即座に言った。


「少し離れたいです」


 リゼも頷く。


「同意します」


 ユリウスが判断する。


「石碑から二十歩下がった場所で休憩。見える位置だが、近すぎない場所」


 全員が移動する。


 石碑は視界に残る。


 だが、圧迫感は少し減った。


 カイが包みを取り出した。


 ミリアが尋ねる。


「名前は?」


 カイは石碑を見て、長く考えた。


 灰銀突破点。


 旧文字。


 禁忌。


 リゼ自身ではない。


 でも無関係ではない。


 その全部を袋の名前にするのは、難しかった。


 やがて、カイは言った。


「石に刻まれた名前だけにしない用」


 リゼの瞳が揺れた。


 エリアナも静かに頷く。


「はい。今日は、それがよいです」


 アルトも頷いた。


「僕も、それがいいです」


 カイは少しだけほっとして、包みを開いた。


 小さな焼き菓子と、香草パンの欠け。


 アルトは成分を読み上げる。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」


 エリアナが頷いた。


「確認しました」


 香草パンを噛む。


 苦味が強い。


 でも、香りは柔らかい。


 遠くから近づいてくる香り。


 石碑の冷たさから、少しだけ身体を戻してくれる。


 リゼは欠けを手にしたまま、しばらく食べなかった。


 ミリアが声をかける。


「食べられる?」


 リゼは頷く。


「はい」


 彼女は香草パンを口に入れ、ゆっくり噛んだ。


「味、確認」


 カイが小さく言う。


「どうですか」


「苦味強め。甘味少し。香草の香り、後から来ます」


 エリアナが静かに言う。


「今日は、これくらい苦くてよいです」


 カイは小さく頷いた。


「はい」


 休憩後、石碑周辺の確認を続けた。


 接触は最小限。


 必要な部分だけ、布越しに苔を払う。


 石碑の下部には、古い石段が続いていた。


 それは戦功碑のために作られたものではなく、もともとの参道だ。


 その参道の奥、木々の向こうに、崩れた建物の影が見える。


 白鐘北礼拝堂跡。


 今日はまだ入らない。


 ユリウスがそう判断した。


「石碑確認だけで十分負荷が高い。礼拝堂跡への接近は次回以降にする」


 リゼは少しだけ迷った顔をした。


 だが、すぐ頷いた。


「了解しました。急ぎません」


 エリアナも言った。


「はい。今日は、ここまでがよいです」


 アルトも左手首に触れる。


「痛みなし。熱少し。声なし。僕も、今日はここまでがいいです」


 ロウ教師が頷く。


「よし。突破点で止まれたな」


 その言葉に、リゼが反応する。


 ロウ教師は続けた。


「突破しない、と決めて来た。ここで止まれたなら、それでいい」


 リゼは静かに頷いた。


「はい」


 帰る前に、エレオノーラが確認事項を読み上げた。


「一、王国軍戦功碑“灰銀突破点”を確認。二、戦功碑は白鐘北礼拝堂跡参道上に設置されている。三、裏面または転用石材に旧文字“王の血を、ここより先へ持ち込むな”を確認。四、同地点は旧地図上、白鐘北礼拝堂跡前方参道と一致。五、礼拝堂跡本体は視認のみ。接近せず。六、リゼさん、石碑名は自身を使った記録であり自身そのものではないと確認。自身と無関係でもないと確認」


 リゼは頷いた。


「記録内容、確認しました」


 エリアナも言った。


「私も確認しました」


 アルトは左手首に触れる。


「痛みなし。熱少し。声なし。記録を聞いて、少し落ち着きました」


 クラウスが石碑をもう一度見た。


「明日以降、礼拝堂跡へ進む前に、この旧文字をもう少し詳しく写す必要がある」


 ユリウスが頷く。


「今日は写しの範囲を最小限に。後日再確認」


 ロウ教師が言う。


「帰るぞ」


 帰路、石段を下る時、リゼは一度だけ振り返った。


 灰銀突破点の石碑は、木々の間に立っていた。


 表には王国軍の文字。


 裏には旧文字。


 石は何も言わない。


 だが、そこに刻まれた名が、リゼを呼んでいるようにも見えた。


 灰銀の戦乙女。


 英雄。


 突破者。


 リゼは小さく息を吸った。


「私は、リゼ・グレイスです」


 アルトが隣で頷く。


「はい」


「石に刻まれた名前だけではありません」


「はい」


 エリアナも後ろから言った。


「でも、刻まれたことも消しません」


 リゼは振り返る。


 エリアナはまっすぐ見ていた。


 怒りはある。


 しかし、その怒りはリゼを消すためではない。


「はい」


 リゼは答えた。


「消しません」


 谷を出ると、音が少し戻った。


 鳥の声。


 風。


 馬車の車輪。


 カイが小さく息を吐く。


「今日、すごかったですね」


 ミリアが頷く。


「ええ」


「でも、礼拝堂まで行かなくてよかったと思います」


 ロウ教師が頷く。


「それを言えたなら十分だ」


 カイは少しだけ胸を張った。


 宿へ戻る頃には、夕方の光が山の端にかかっていた。


 食堂の窓からは、谷の方向が暗く見える。


 そこに、今日見た石碑がある。


 灰銀突破点。


 その裏に、王の血を持ち込むな。


 食後、カイがもう一つ包みを出した。


 ミリアが少し笑う。


「今日は二つ目?」


「これは戻ってから用です」


「名前は?」


 カイは少し考えた。


「突破しないで戻れた用」


 リゼが静かに目を伏せた。


「非常に適切です」


 エリアナも頷く。


「はい」


 アルトも言った。


「僕も、それがいいです」


 包みの中には、小さな焼き菓子が少しだけ入っていた。


 香草パンは少ない。


 今日、石碑の近くで食べた分があったからだ。


 アルトは成分を読み上げる。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。少量です」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 五人は宿の食堂で、少しずつ食べた。


 疲れている。


 だが、誰も一人ではなかった。


 リゼは窓の外を見ながら言った。


「私は、今日、灰銀突破点を確認しました」


 誰も否定しない。


 リゼは続けた。


「それは、白鐘北礼拝堂跡参道上にありました」


 エリアナが頷く。


「はい」


「石碑裏に、王の血を持ち込むな、という旧文字がありました」


「はい」


「私は、その名を知りませんでした」


「はい」


「これから、知ります」


 エリアナは静かにリゼを見た。


「はい。知ってください」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 今日、英雄譚の石が目の前に現れた。


 それはリゼ自身ではなかった。


 だが、リゼと無関係でもなかった。


 英雄譚は、石に刻まれている。


 でも、その裏側には別の文字が残っている。


 王の血を、ここより先へ持ち込むな。


 明日、その先へ行くかどうかは、まだ決まっていない。


 しかし、もう見えてしまった。


 灰銀の名が置かれた場所の奥に、白鐘北礼拝堂跡がある。


 アルトの左手首は、遠くから響かない鐘の気配を返していた。


 痛みはない。


 声もない。


 ただ、熱が少しだけ残っていた。


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