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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第9章 第5話:白布の結び跡


 白い布は、朝の光の中で少し灰色に見えた。


 昨日見た時よりも、近い。


 だが、触れられる距離ではない。


 石柱に結ばれた白布は、鳴らさぬ谷の入口で、風に揺れている。


 強くはない。


 けれど、布の端が石に擦れるたび、かすかな音がした。


 こす。


 こす。


 それは、鐘ではない。


 声でもない。


 けれど、アルト・レインフォードの左手首は、その音に反応していた。


「痛みなし。熱少し。声なし。現在地、鳴らさぬ谷入口手前」


 アルトが小さく言うと、隣のリゼ・グレイスが頷いた。


「確認しました」


 リゼの声も小さい。


 この場所では、全員が自然に声を落としている。


 昨日、谷へ五十歩だけ入り、入口を確認して戻った。


 今日は、白布と石柱の痕跡を詳しく確認する。


 ただし、接触はしない。


 無断でほどかない。


 布を引かない。


 触れる必要が出た場合も、本人たちだけで判断せず、クラウス・ヴァイゼルの測定とユリウス・エインズワースの許可、エレオノーラ・ヴィンスフェルトの記録を通す。


 学園長からの指示は、出発前に何度も確認していた。


 勝手に開けない。


 勝手に触れない。


 勝手に決めない。


 それは箱だけではなく、白布にも適用される。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、石柱に結ばれた布を見ていた。


 淡い亜麻色の髪を外套の内側に収め、薄紫の瞳は布の端へ向いている。


 彼女の手は、鞄の内側にある香草袋へ触れていた。


 母の香草ではない。


 母を思い出す香草。


 記録ではなく、彼女のもの。


 その袋から、ほんの少しだけ乾いた甘さが漂っている。


 アルトの銀環の熱は、昨日と同じように、香りが近づくとわずかに落ち着いた。


 クラウスは測定具を石柱から一定の距離に置き、慎重に反応を見ている。


「布そのものに強い封印反応はない。石柱側に古い反応が残っている。布は反応を起こすためのものというより、反応を整える、あるいは境界を示すためのものかもしれない」


 エレオノーラが記録する。


 ユリウスは昨日の観察記録と今日の測定値を照合していた。


 ロウ教師は少し離れた場所に立ち、全員の位置を見ている。


 ミリア・ファルネーゼは、エリアナとアルトの間に立ちすぎず、しかし二人の表情が見える場所にいる。


 カイ・ロックハートは保存食の袋を抱えたまま、いつもより大人しくしていた。


 昨日から、彼は本当に声量を調整している。


 リゼは石柱を見ていた。


 ただ、布だけではない。


 布が結ばれている位置。


 結び目の高さ。


 石柱の表面に残る擦れ跡。


 布を通すための小さな穴。


 そして、その穴が一つではないこと。


「結び跡が複数あります」


 リゼが言った。


 クラウスが頷く。


「ああ。現在の布が結ばれている穴の上と下に、古い摩耗痕がある。少なくとも、長い期間に何度も布が掛け替えられている」


 エリアナの指が香草袋の上で動く。


「掛け替えられている」


「可能性が高い」


 クラウスは答える。


「布は一度結ばれて終わるものではなく、朽ちれば替えられた。つまり、誰かが手入れしていた」


 カイが小さく言った。


「今もですか」


 クラウスは布を見る。


「少なくとも、この布は戦時中のものではない。古く見えるが、十年以上放置された布ではない。ここ数年以内に替えられた可能性がある」


 エリアナが息を止めた。


 今も、誰かが。


 鳴らさぬ谷の白布を。


 王国軍の地図から旧名が消えても。


 礼拝堂が壊れても。


 王宮の資料庫へ手帳が奪われたかもしれなくても。


 誰かが、布を替えている。


 エリアナは声を落として言った。


「故国が消えた後も、誰かが鳴らさないようにしているのですね」


 ミリアが静かに頷いた。


「そうかもしれないわ」


 リゼはその言葉を聞いて、白布を見た。


「私は、戦時中、白布を敵信号として処理した可能性があります」


 その声は、昨日よりも重かった。


 エリアナがリゼを見る。


 怒りはある。


 だが、今はまず確認が必要だと、彼女もわかっている。


「可能性ですか」


「はい」


 リゼは鞄から小さな布包みを取り出した。


 中には、古い紙片が入っていた。


 王国軍の正式資料ではない。


 リゼ自身の戦時手帳の断片。


 第8章で記憶照合を続ける中で、学園側資料保管庫から見つかった写しだ。


 現物ではなく、学園が以前保護のために保管した複写の一部。


 そこに、リゼの筆跡が残っている。


 白布確認、敵連絡の可能性。


 その一文を、今日ここへ持ってきた。


 逃げないために。


 ただし、それで自分を判決しないために。


 リゼは紙片を開く前に言った。


「この手帳断片は、私の戦時記録です。現地の白布の意味を確定するものではありません」


 エレオノーラが記録する。


 リゼは続ける。


「私は当時、白布を敵連絡の可能性として記録しました。今、目の前にある白布は、境界または防護儀礼物である可能性があります。両方を照合します」


 ロウ教師が頷く。


「よし。先に言えたな」


「はい」


 リゼは紙片を開いた。


 古い筆跡。


 短い文字。


 戦場の記録。


 白布確認、敵連絡の可能性。


 アルトはその文字を見るだけで、胸が少し痛くなった。


 リゼの字は、今と似ている。


 だが、どこか違う。


 速い。


 切るような筆跡。


 考える前に危険へ分類するための文字。


 リゼはそれを見つめる。


「私の筆跡です」


 エレオノーラが確認する。


「記録してよろしいですか」


「はい」


「内容を読み上げますか」


 リゼは一度、白布を見た。


 それから頷く。


「読みます」


 静かな谷の入口で、彼女は自分の過去の記録を読んだ。


「白布確認、敵連絡の可能性」


 短い。


 短すぎる。


 そこに、布を結んだ人はいない。


 白布を替えた人もいない。


 鐘を鳴らさないための手順もない。


 ただ、敵連絡の可能性。


 戦場は意味を減らす。


 昨日ロウ教師が言った言葉が、全員の中に戻ってきた。


 エリアナが、布を見たまま言った。


「祈りが、敵の合図にされたのですね」


 リゼはすぐには答えなかった。


 答えを急がない。


 罪悪感で過去を作らない。


 でも、見なかったことにも、しない。


「その可能性があります」


 リゼは言った。


「私は、戦時中、この白布または同種の白布を、敵連絡の可能性として処理しました。実際に敵連絡として使われていたかどうかは、まだ不明です」


 クラウスが補足する。


「戦場で儀礼物が軍事利用されることもある。だから、当時の記録だけで完全な誤認とも断定しない。ただし、現地の石柱、結び跡、口伝、白鐘蔦刺繍を考えると、白布には本来の儀礼的意味があった可能性が高い」


 エリアナは小さく頷いた。


「はい」


 その声は硬い。


「本来の意味があった可能性を、記録してください」


 エレオノーラがペンを走らせる。


 リゼは続けた。


「私の戦時記録により、本来の意味が消えることはありません」


 エリアナがリゼを見る。


 リゼは彼女の視線を受け止める。


「はい」


 エリアナは言った。


「消さないでください」


「はい。消しません」


 カイが、白布の結び目を見ていた。


「でも、敵連絡って、どういうことなんですか」


 ユリウスが答える。


「戦場では、布の色や位置、結び方を使って合図を送ることがある。進路、危険、集合、撤退などだ」


 カイは眉を寄せる。


「じゃあ、王国軍から見たら、白い布が結んであったら怪しいってことですか」


「状況によっては、そう見るだろう」


 クラウスが言った。


「特に、補給路沿いの石柱に布があれば、敵が通行情報を送っていると判断される可能性はある」


 カイは白布を見つめた。


「でも、宿の人たちは触るなって言ってた。声を落とせって言ってた。今も誰かが替えてるかもしれない」


「そうだ」


 ロウ教師が頷く。


「だから、片方だけで決めるな」


 カイはしばらく黙った。


 そして、ぽつりと言った。


「白い布って、降参の布だけじゃないんだな」


 その言葉は、前にも近い形で出た。


 だが、今日の白布の前では、さらに重かった。


 エリアナがカイを見る。


「はい」


 カイは続けた。


「敵の合図でも、降参でも、飾りでもなくて、鳴らさないための布かもしれない」


「はい」


 エリアナは頷いた。


「そうです」


 リゼが静かに言った。


「白布の意味を複数記録します。境界布、防護儀礼物、鐘を鳴らさない意思表示、戦時中の敵連絡と誤認または処理された可能性」


 エレオノーラが記録する。


 ミリアが補う。


「“誤認”と決めるのはまだ早いわ。王国軍がどう処理したかと、本来の意味が違う可能性、として」


「はい」


 リゼは頷いた。


「本来の意味と戦時処理が異なる可能性」


 エリアナの表情が少しだけ和らいだ。


 正確さは冷たさではない。


 その言葉が、ここでも生きている。


 クラウスは石柱の下部を測定した。


「結び跡の数を確認する。現在の布は中央穴。上部に古い摩耗痕一。下部に古い摩耗痕一。さらに、石柱裏側に細い溝がある」


 ユリウスが近づきすぎない位置で見る。


「溝?」


「布を巻きつけるためか、紐を通すためか。三方向から布または紐を固定できる構造に見える」


 エリアナが小さく息を吸う。


「三」


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みなし。


 声なし。


 白鐘の三家。


 紙、布、香草と灯。


 王宮の三部署。


 封印管理室、文書院、監察局。


 三という数が、また現れる。


「痛みなし。熱少し。声なし。“三”で反応しました」


 リゼが確認する。


「怖い反応ですか」


「いいえ。少しだけ」


 クラウスが慎重に言った。


「三方向の結び跡が、白鐘周辺儀礼の三家構造と関係するかは不明だ。ただ、記録しておく価値はある」


 エレオノーラが記録する。


 エリアナは香草袋へ触れた。


「母は、紙は記録を残す家、布は鐘を覆う家、香草は灯と一緒に扱う家、と話していました」


 クラウスが頷く。


「ここが入口であるなら、三家の役割を示す結び方があった可能性はある。布だけでなく、香草束や灯皿を置く位置が周辺にあるかもしれない」


 リゼが周囲を見る。


「周辺確認を提案します。接触なし。目視のみ」


 ユリウスが許可する。


「範囲を限定する。石柱から半径十歩以内。単独行動禁止」


 全員が位置を確認して動く。


 声は低く。


 足元に注意しながら。


 石柱の周囲には、土に埋もれた小さな穴や、欠けた石皿のようなものがあった。


 カイが先に気づく。


「これ、皿ですか」


 クラウスが近づく。


「小型灯皿の欠片かもしれない」


 エリアナの香草袋から、わずかに香りが漏れる。


 アルトの銀環が少し温かくなる。


 痛みなし。


 声なし。


 クラウスは欠片に触れず、測定具を近づける。


「反応は微弱。危険なし。位置は石柱の右下。布、灯、香草が入口で組み合わされていた可能性がある」


 エレオノーラが記録する。


 エリアナが小さく言った。


「灯と香草」


 母の言葉が、現地の石や土と繋がっていく。


 それは嬉しいだけではない。


 怖い。


 自分の記憶が本当にこの場所に触れてしまう怖さ。


 ミリアがそっと声をかける。


「状態は」


「身体異常なし。感情、怖さ。少し、泣きたいです。でも、今は泣きません」


 ミリアは頷いた。


「言えたわ」


「はい」


 リゼはそのやり取りを聞き、灯皿の欠片を見た。


「私は、戦時中、このような小型灯皿を接収物または損傷品として処理した可能性があります」


 エリアナがリゼを見る。


「はい」


「当時の分類は、損傷品、または儀礼物品でした」


「はい」


「今、白布、灯皿、香草の関連を確認しています」


「はい」


 エリアナは少しだけ目を伏せた。


「損傷品という言葉は、嫌です」


「はい」


「でも、壊れていることも事実です」


「はい」


「壊れているものを、損傷品だけにしないでください」


 リゼは深く頷いた。


「はい。灯皿の欠片。白鐘周辺儀礼の痕跡の可能性。損傷品のみとして扱いません」


 エレオノーラが記録する。


 カイは灯皿の欠片をじっと見ていた。


「ここ、誰かが灯りを置いてたんだな」


 クラウスが答える。


「その可能性が高い」


「敵の道を照らすためじゃなくて」


「たぶん違う」


「鳴らさないために」


 エリアナが頷く。


「はい。灯りと香草で、鐘を鳴らさない祝祭をしたのかもしれません」


 カイは少し黙った。


「祝祭なのに、鳴らさないんですね」


 エリアナは小さく頷く。


「はい。鳴らさない祝祭です」


 ミリアが静かに言う。


「静かに守る祝祭だったのかもしれないわね」


 アルトはその言葉を聞いて、左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 静かに守る。


 その言葉は、怖くなかった。


 石柱の周辺確認が終わると、全員はいったん谷の入口から少し離れた場所へ戻った。


 触れていない。


 ほどいていない。


 持ち出していない。


 見て、記録しただけ。


 それでも、昨日より多くのことがわかった。


 白布は掛け替えられている可能性がある。


 結び跡は複数ある。


 三方向の固定痕がある。


 小型灯皿の欠片がある。


 香草との関連が示唆される。


 そして、リゼの戦時手帳には「白布確認、敵連絡の可能性」と記されていた。


 ユリウスが整理する。


「現時点での確認事項。白布は現地口伝、石柱構造、結び跡、灯皿欠片、香草反応を踏まえ、境界・防護儀礼物である可能性がある。王国軍またはリゼの戦時記録では敵連絡の可能性として処理されていた。両者は矛盾というより、視点と目的の違いによる分類差として扱う」


 ロウ教師が頷く。


「ただし、分類差という言葉で痛みを薄めるな」


 エリアナが静かに言った。


「痛いです」


 エレオノーラが記録する。


 エリアナは続ける。


「白布が敵連絡として処理されたことは、痛いです。怒りもあります。でも、ここでリゼさんだけに判決を出すことはしません」


 リゼの瞳が揺れる。


 エリアナは白布の方を見た。


「戦場が意味を減らすなら、私は意味を戻したいです」


 リゼは頷いた。


「はい」


「あなたも戻してください」


「はい。戻します」


 カイが小さく言った。


「意味を戻す用、いるな」


 ミリアが微笑む。


「今日の名前候補かしら」


 カイは真剣に頷いた。


「でも、まだ早い。もう少し考えます」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 白布は風に揺れている。


 その白い布は、戦場の記録では敵連絡の可能性だった。


 現地の人にとっては触ってはいけないものだった。


 白鐘の手順では、鳴らさないための布だったかもしれない。


 どれか一つだけにすれば、楽なのかもしれない。


 だが、この場所では、それをしてはいけないのだとわかる。


 昼前、谷の入口を離れる前に、エリアナは石柱へ向かって少しだけ頭を下げた。


 昨日よりも長く。


 リゼもそれに続いた。


 アルトも、ミリアも、カイも。


 クラウスとユリウス、エレオノーラ、ロウ教師も、それぞれの形で静かに頭を下げた。


 誰も、白布には触れない。


 風が吹く。


 布が擦れる。


 こす。


 こす。


 音は小さい。


 だが、今日は昨日よりもはっきり聞こえた。


 帰路、馬車の中は静かだった。


 カイも大きな声を出さなかった。


 ただ、しばらくしてから小さく言った。


「戦場って、ほんとに意味を減らすんですね」


 ロウ教師が頷く。


「そうだ」


「でも、減った意味って、戻せるんですか」


 ロウ教師は少し考えた。


「全部は戻らん」


 カイの表情が少し曇る。


「でも、戻せるものもある。戻すには、誰かが見て、聞いて、間違えた名を直し、消えた名を探す必要がある」


 カイは頷いた。


「じゃあ、今日やったことは、ちょっと戻したってことですか」


 ロウ教師は短く答える。


「そうだ」


 その言葉に、エリアナが少しだけ目を伏せた。


 リゼも静かに息を吐いた。


 アルトは記録表へ書く。


 白布。


 境界布可能性。


 防護儀礼物可能性。


 敵連絡として戦時処理。


 灯皿欠片。


 香草。


 意味を戻す。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 宿へ戻ると、全員は食堂のいつもの隅に集まった。


 馬車酔いは軽微で済んだらしく、カイは少し得意げだった。


「戦闘不能回避」


 リゼが頷く。


「良好です」


 ミリアが包みを出すカイへ尋ねる。


「名前は決まった?」


 カイは頷いた。


 今度は迷いがなかった。


「意味を戻す用」


 エリアナが静かに頷いた。


「はい。今日は、それがよいです」


 リゼも言った。


「非常に適切です」


 アルトも頷く。


「僕も、それがいいです」


 カイは少しだけ照れたように包みを開いた。


 小さな焼き菓子と、香草パンの欠け。


 今日の香草パンは、少しだけ苦味が強かった。


 谷の白布の前で食べた時と同じように、香りが遠くから近づいてくる。


 アルトは成分を読み上げる。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」


 エリアナが頷いた。


「確認しました」


 五人は少しずつ食べた。


 食堂の窓の外には、夕方の光が落ちている。


 鳴らさぬ谷の入口は、もう見えない。


 だが、白布の擦れる音は、アルトの耳にまだ残っていた。


 エリアナは香草パンを噛み、静かに言った。


「白布は、敵の合図だけではありませんでした」


 リゼが頷く。


「はい」


「でも、敵の合図として処理された可能性もあります」


「はい」


「それが、痛いです」


「はい」


 リゼは少しだけ目を伏せた。


「私は、意味を減らした側にいました」


 エリアナはすぐには答えなかった。


 そして、ゆっくり言う。


「はい」


 その一言は重かった。


 でも、そこで終わらなかった。


「だから、今、意味を戻してください」


 リゼは顔を上げた。


「はい」


「私も、戻します。知らなかった故国の意味を、少しずつ」


「はい」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


「僕も、記録します」


 カイが焼き菓子を持ったまま言った。


「俺も見る。変な言葉で減ってたら言う」


 ミリアが微笑む。


「ええ。みんなで見ましょう」


 外では日が暮れていく。


 谷では白布が揺れているのだろう。


 誰かが結び、誰かが替え、誰かが触るなと伝えた布。


 戦場の記録では、敵連絡の可能性。


 現地の痕跡では、鳴らさないための境界。


 白い布は、一つの意味だけではなかった。


 リゼは食堂の窓の外を見て、静かに言った。


「明日、灰銀突破点へ向かいます」


 エリアナの表情が硬くなる。


 アルトの左手首も少し熱を持つ。


 リゼは続けた。


「王国軍がそう呼んだ場所を、別の名で確認します」


 ミリアが頷く。


「急がずに」


 リゼは答えた。


「はい。急がずに」


 香草パンの苦味が、口の中に残る。


 それは不快ではなかった。


 忘れないための味のように、ゆっくりと残っていた。


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