第9章 第4話:鳴らさぬ谷の入口
朝の宿場は、王都よりも静かだった。
窓の外には、薄い霧が流れている。
馬小屋の方から馬の鼻息が聞こえ、厨房では鍋をかき混ぜる音がする。
それだけなら、どこにでもある旅の朝だった。
だが、宿の老婆が食堂の扉を開ける時、小さな声で言った。
「谷へ行くなら、声を落としな」
その一言で、アルト・レインフォードの左手首がわずかに温かくなった。
痛みはない。
声もない。
ただ、昨日から何度も聞いている言葉が、今朝は少し近かった。
声を落とす。
鐘を鳴らさない。
白布に触れない。
鳴らさぬ谷。
アルトは食堂の椅子に座ったまま、左手首に触れた。
「痛みなし。熱少し。声なし。現在地、北西宿場の食堂」
隣のリゼ・グレイスが頷く。
「確認しました」
リゼはすでに旅支度を終えている。
灰銀の髪には青いリボン。
剣は腰ではなく、鞄の側面に布で包まれている。
最後の手段。
今朝、リゼは剣の位置を確認した後、こう言った。
最初に使うものではありません。
その声は静かだったが、昨日より少しだけ強かった。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、食卓の上に置いた香草袋を見ていた。
母の香草ではない。
母を思い出す香草。
記録ではなく、彼女のもの。
今朝は袋の紐を少しだけ緩めていた。
香りはほとんど外へ出ていない。
だが、アルトには、その袋がここにあるだけで、少し安心できた。
ミリア・ファルネーゼは朝食の量を確認し、カイ・ロックハートはパンを持ちながら真剣に顔色を整えている。
「馬車酔いは、現時点で軽微」
カイが自分から言うと、エレオノーラ・ヴィンスフェルトが記録した。
「軽微。朝食摂取可能」
「そこまで書くんですか」
「安全情報です」
「安全情報なら仕方ない」
リゼが真面目に頷く。
「食事摂取状況は重要です」
カイは少し複雑そうな顔をしながらも、パンをかじった。
ユリウス・エインズワースは地図を確認している。
宿場から鳴らさぬ谷入口までは、馬車で半日もかからない。
ただし、途中から道が狭くなるため、最後は徒歩になる可能性がある。
クラウス・ヴァイゼルは封印反応測定具を点検し、ロウ教師は窓の外を見ていた。
薄い霧の向こうに、低い山の影がある。
その奥に、鳴らさぬ谷がある。
食事が終わると、出発前の状態確認が行われた。
アルト。
「痛みなし。熱少し。声なし。感情、怖さと緊張。現在地、北西宿場」
リゼ。
「身体異常なし。感情、緊張。鳴らさぬ谷接近により戦時記憶接近の可能性あり。現在地保持」
エリアナ。
「身体異常なし。感情、怖さ。旧地名を目の前にすることへの緊張があります。香草袋を持っています。記録ではなく、私のものとして」
ミリア。
「身体異常なし。全員の緊張を確認。休憩間隔を短めにした方がよいと思います」
カイ。
「身体異常なし。馬車酔い警戒継続。保存食数、良好。声量、調整します」
ロウ教師が頷いた。
「よし。行くぞ」
宿の老婆が見送りに出てきた。
彼女は一行を順に見て、最後にリゼの髪を少しだけ見た。
灰銀。
王国では、英雄の色として語られることがある。
この土地では、どうなのか。
アルトは一瞬、身構えた。
だが、老婆は何も言わなかった。
ただ、谷の方を指して言う。
「道が二つに分かれるところがある。右は今の街道。左は古い道だ。谷の入口を見るなら、左へ行くといい。ただし、柱の布には触らんことだ」
ユリウスが丁寧に礼をする。
「ありがとうございます」
エリアナも頭を下げた。
「教えてくださって、ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことじゃない。昔からそう言われてるだけさ」
老婆はそう言って、最後に小さく付け加えた。
「谷では、名を呼ぶ時も小さくな」
アルトの左手首が少し熱くなった。
痛みはない。
声もない。
名を呼ぶ時も小さく。
名を呼ぶ声が、名を奪うから。
エリアナの母の子守歌が、胸の奥で揺れた。
アルトは記録表に書く。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
反応語、名を呼ぶ時も小さく。
怖さ、少し。
馬車は宿場を出た。
昨日より道は細くなり、車輪が石を踏む音も変わった。
王都近くの街道より、音が低い。
両側には林が増え、木々の間を朝の霧が流れている。
鳥の声は聞こえる。
だが、少し遠い。
すぐ近くの枝で鳴いているように見えて、音だけが奥へ引いていくようだった。
アルトは窓の外を見ながら、左手首に触れた。
「痛みなし。熱少し。声なし。鳥の声が遠く聞こえます」
クラウスが反応する。
「地形による音の反射か、古い封印環境の残りか。まだ判断できない」
ロウ教師が言った。
「判断を急ぐな。だが、感じたことは消すな」
アルトは頷く。
「はい」
リゼは外を見ていた。
道の曲がり方。
林の切れ目。
小さな丘。
彼女の目は、一つ一つの地形を確認している。
それは戦術的な視線だった。
だが、彼女はすぐに言葉を添えた。
「この先、左側に低い崖があります。戦時中は伏兵警戒地点として処理しました」
ユリウスが問う。
「現在の確認は」
リゼは少し間を置く。
「低い崖があります。根元に古い石積みが見えます。人が通る道を支えるためのものかもしれません。伏兵地点と断定しません」
ロウ教師が頷いた。
「よし」
エリアナが静かに窓を見る。
「石積み」
馬車の外、霧の中に、低い石の列が見えた。
崩れている。
だが、自然の岩ではない。
誰かが積んだもの。
道を守るためか。
参道を整えるためか。
軍用の防壁ではないように見える。
ミリアが小さく言った。
「道だったのね」
リゼが答える。
「はい。軍用路である前に、古い道だった可能性があります」
馬車はさらに進んだ。
やがて、老婆が言っていた分岐に着く。
右の道には、比較的新しい木製の標識があった。
王国語で「北西第三補給枝道跡」と記されている。
左の道には、ほとんど標識がない。
ただ、地面の脇に低い石柱があり、その表面は苔に覆われていた。
御者が馬を止める。
「この先は左の古道へ入るなら、馬車は難しいですね」
ユリウスが頷く。
「ここから徒歩に切り替える」
全員が馬車を降りた。
足元の土は少し湿っている。
風は弱い。
けれど、林の奥から吹いてくる空気は、宿場より冷たかった。
リゼはすぐに周囲を確認した。
「視界、やや不良。足元湿潤。隊列確認を提案します」
ロウ教師が頷く。
「言え」
「先頭、ロウ先生。次にクラウスさんとユリウス先輩。中央にアルトさん、エリアナさん、ミリアさん、カイさん。私は左後方。エレオノーラ先輩は記録しつつ中央後方。単独行動禁止。声量は低め。異常確認時は手信号併用」
カイが小さく言う。
「隊列って言うと戦場っぽいですね」
リゼは一瞬、止まった。
ミリアが見る。
リゼは言い直す。
「歩行順です」
カイは頷いた。
「歩行順なら、旅っぽい」
リゼも頷く。
「歩行順を確認しました」
ロウ教師が少しだけ口元を動かした。
「良い修正だ」
左の古道へ入る。
すぐに音が変わった。
馬車道から一歩外れただけなのに、空気が厚くなる。
足元の草を踏む音が、少し鈍い。
カイが小声で言った。
「本当に声を落としたくなるな」
エリアナが頷く。
「はい」
彼女は香草袋に触れている。
袋の中の香草は、まだ香りを強く出していない。
それでも、エリアナにとっては戻る道の一つなのだろう。
アルトの左手首は少し温かい。
痛みはない。
声もない。
「痛みなし。熱少し。声なし。音が近いのに遠いです」
エレオノーラが小さく記録する。
古道は緩やかに下っていく。
左右の木々の間から、時折、白っぽい石が見えた。
自然石ではない。
何かの柱だったもの。
階段だったもの。
削られた文字。
苔。
リゼが一つの石へ目を向ける。
「ここは、戦時中の地図では障害物として記録されていました」
クラウスが近づかずに見る。
「参道の縁石かもしれない」
エリアナが小さく言う。
「障害物」
その言葉に、怒りが少し混じっていた。
リゼはすぐに頷く。
「はい。当時の私は、進行を妨げる物として処理した可能性があります」
エリアナは石を見る。
「誰かにとっては、道を示すものだったかもしれません」
「はい」
「記録してください」
「はい」
エレオノーラが記録する。
カイが足元に気をつけながら言った。
「同じ石なのに、障害物にも道しるべにもなるんだな」
ロウ教師が頷く。
「そうだ。見る目的が変われば、ものの名が変わる」
ミリアが続ける。
「だから、今日は名前を増やしていくのね」
エリアナは少しだけ頷いた。
「消された名前を、増やす」
リゼが言う。
「補給枝道、古道、参道。併記します」
古道を進むと、林が開けた。
霧が薄くなり、前方に谷の入口が見えた。
低い岩壁が左右から迫り、中央に細い道が続いている。
入口の両脇には、古い石柱が立っていた。
片方は半ば倒れ、もう片方は上部が欠けている。
そして、その欠けた石柱に、白い布が結ばれていた。
古い布ではない。
完全に新しいわけでもない。
風に晒され、雨に打たれ、少し灰色がかっている。
だが、白布だった。
アルトの左手首が熱を持つ。
痛みはない。
声もない。
ただ、胸の奥が静かに震えた。
「痛みなし。熱中より弱い。声なし。白布で反応しました」
リゼの呼吸がわずかに変わる。
「身体異常なし。感情、緊張。白布を確認しました」
エリアナは、石柱と白布を見つめていた。
薄紫の瞳が揺れている。
「本当に、ありました」
声は小さい。
谷の入口では、自然に声が落ちる。
誰も大きな声を出さない。
カイでさえ、無意識に声量を下げていた。
「触らないんですよね」
ユリウスが頷く。
「触らない。まず観察のみ」
クラウスは少し距離を置き、測定具を出した。
「封印反応は微弱。危険反応ではない。布そのものより、石柱側に古い反応が残っている」
エリアナが香草袋に触れる。
袋から、ほんの少し香りが漏れた。
乾いた甘さ。
アルトの左手首の熱が、わずかに落ち着いた。
「痛みなし。熱少し低下。声なし。香草の香りで落ち着きました」
エリアナが少し驚いたようにアルトを見る。
「私の香草で?」
「はい。たぶん」
クラウスが慎重に言う。
「記録する。ただし、香草が反応を抑えたとは断定しない。アルト君の心理的安定か、白鐘周辺儀礼との相性か、まだ分けられない」
ミリアが頷く。
「どちらでも、今は落ち着いたことが大事ね」
エリアナは香草袋を強く握りかけ、すぐに力を緩めた。
「急いで潰さない」
カイが小さく言った。
エリアナはほんの少しだけ目元を緩める。
「はい」
谷の入口は、静かだった。
鳥の声はある。
木の葉の音もある。
遠くで水が流れるような音もする。
だが、それらはどれも少し遠い。
耳に届く前に、何か薄い布を通っているようだった。
アルトはその静けさを、怖いと思った。
でも、敵意は感じない。
むしろ、ここで大声を出してはいけないという宿の老婆の言葉が、自然に理解できる。
大きな音を立てると、何かを壊してしまいそうだった。
ロウ教師が低く言う。
「ここで一度止まる。入口確認だ。中へはまだ入らない」
全員が頷く。
エレオノーラが記録する。
鳴らさぬ谷入口到着。
白布確認。
石柱確認。
封印反応微弱。
銀環反応、熱中未満、痛みなし、声なし。
香草袋接近後、熱わずかに低下。
接触なし。
クラウスは石柱の下部を見ていた。
「文字がある」
全員の視線が向く。
石柱の下、苔と土に隠れていた部分。
そこに、旧文字が残っている。
エリアナが少しだけ近づく。
リゼがすぐに距離を確認する。
「足元、湿っています。半歩まで」
「はい」
エリアナは半歩だけ進み、しゃがまない。
目線を落として、文字を見る。
「鳴らさ……」
声が少し震えた。
「鳴らさぬ」
アルトの左手首が温かくなる。
リゼは静かに息を吸った。
エリアナは続ける。
「その下は、削れています。でも、たぶん、谷」
クラウスが頷く。
「鳴らさぬ谷、と見てよいだろう。ただし、欠損あり」
エレオノーラが記録する。
リゼは石柱を見ていた。
「王国軍地図では、ここは北西第三補給枝道入口です」
ユリウスが持参した地図を開く。
赤い線。
補給枝道。
入口地点。
リゼは続ける。
「私は、敵待伏せ警戒地点として記憶しています」
エリアナが石柱を見たまま言う。
「ここは、鳴らさぬ谷の入口です」
「はい」
「白布が結ばれています」
「はい」
「声を落とす場所です」
「はい」
リゼは一つ一つ受け取る。
「私は、戦時中、この入口を祈りの入口として見ませんでした」
エリアナの指が揺れた。
「はい」
「今、確認しています」
「はい」
そのやり取りは、謝罪ではない。
判決でもない。
確認だった。
ミリアが静かに見守っている。
カイは口を閉じていた。
本当に声を落としている。
ロウ教師がリゼへ問う。
「今、何として見ている」
リゼは答えた。
「鳴らさぬ谷の入口。白布が結ばれた石柱。旧文字が残る場所。王国軍地図上では北西第三補給枝道入口。戦時記憶上では敵待伏せ警戒地点。現在、祈りの入口であった可能性を確認中です」
ロウ教師は頷いた。
「よし。名が増えた」
アルトはその言葉を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。
名が増えた。
ひとつに決めるのではなく。
消すのでもなく。
増やして、並べて、扱う。
その時、風が吹いた。
強くはない。
だが、石柱に結ばれた白布がわずかに揺れた。
布の端が、石に擦れる。
ささやくような音。
アルトの左手首が一瞬だけ熱を持つ。
痛みはない。
声もない。
ただ、その音が妙に耳に残る。
「痛みなし。熱少し上昇。声なし。白布が石に擦れる音で反応しました」
クラウスが注意深く布を見る。
「布に刺繍は見えるか」
ユリウスが遠眼鏡を取り出す。
接触せず、距離を保って確認する。
白布の端。
風に揺れた瞬間、細い線が見えた。
蔦のような刺繍。
完全ではない。
擦れている。
だが、そこには小さな鐘の輪郭らしきものがあった。
エリアナの息が止まる。
リゼも、わずかに目を見開いた。
「白鐘と蔦」
クラウスが静かに言う。
「白布端刺繍。第8章で確認した接収記録の模写と系統が近い可能性がある」
エレオノーラが記録する。
アルトの左手首は温かい。
声はない。
エリアナは白布を見つめている。
「今も、結ばれている」
彼女は小さく言った。
「誰かが、替えているかもしれない」
ミリアが頷く。
「そうね」
「故国が消えた後も」
「ええ」
「誰かが、鳴らさないために」
その言葉で、リゼの表情が変わった。
「鳴らさないため」
リゼは白布を見る。
「私は、白布を敵信号として処理した可能性があります」
エリアナがリゼを見る。
今すぐ責めたい顔ではなかった。
ただ、重い。
とても重い。
「今は」
エリアナは静かに言った。
「鳴らさないための布かもしれません」
「はい」
「それを、ここで確認してください」
「はい」
リゼは深く頷いた。
「白布は、敵信号ではなく、鳴らさないための境界布である可能性があります。記録します」
エレオノーラが書く。
カイが小さく言った。
「白い布って、いろんな意味があるんだな」
誰も、それを軽い言葉として扱わなかった。
ロウ教師が頷く。
「そうだ。だから、戦場では間違える」
カイは顔を上げる。
「間違える、ですか」
「戦場は意味を減らす。敵か味方か。通れるか塞がるか。信号か罠か。だが、戦場の外では意味が戻る」
リゼはその言葉を聞いていた。
「意味が戻る」
「戻せるなら、戻せ」
ロウ教師の声は低い。
「全部は戻らん。だが、戻せる名と意味を戻せ」
リゼは頷いた。
「はい」
谷の入口で、休憩が取られた。
入る前に食べる。
戻る道を作る。
ミリアの提案で、全員が石柱から十分に距離を取った場所に移動する。
カイが包みを出した。
ミリアが尋ねる。
「名前は?」
カイは白布の方を見て、しばらく黙った。
いつもより長い沈黙だった。
そして、小さな声で言った。
「声を落として入る用」
エリアナが頷いた。
「はい。今日は、それがよいです」
リゼも静かに言う。
「適切です」
アルトも頷く。
「僕も、それがいいです」
カイは包みを開いた。
小さな焼き菓子と、香草パンの欠け。
今日の香草パンは、昨日より少し香りが立っている。
谷の空気のせいかもしれない。
エリアナの香草袋が近くにあるせいかもしれない。
アルトは成分を読み上げた。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
みんな、声が小さかった。
食べる音まで、少し静かになる。
香草パンを噛むと、乾いた甘さと苦味がゆっくり広がった。
アルトの左手首の熱は、少し落ち着いていく。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
エリアナは香草パンを食べながら、石柱の方を見ていた。
「ここは、怖いです」
ミリアが頷く。
「ええ」
「でも、敵の場所という怖さではありません」
リゼが静かに言った。
「はい」
「壊してはいけない場所の怖さです」
アルトはその言葉に、強く頷いた。
「僕も、そう感じます」
カイが小さく言う。
「大声出したら割れそうな感じ」
クラウスが少し驚いたようにカイを見た。
「悪くない表現だ」
カイが目を丸くする。
「本当ですか」
「本当だ。白鐘の“白い朝が割れる”という表現に近い」
エリアナが静かに続けた。
「鐘を鳴らしてはいけない。白い朝が割れるから」
その子守歌の一節が、低い声で谷の入口に落ちる。
アルトの銀環が温かくなる。
痛みはない。
声もない。
怖い。
でも、聞ける。
ミリアが確認する。
「アルトさん」
「痛みなし。熱少し。声なし。怖いですが、聞けます」
「良好」
リゼは石柱を見る。
「白い朝が割れる、という表現は、ここでは比喩ではない可能性がありますか」
クラウスが考える。
「音や反応の均衡が崩れることを、そう表した可能性はある。だが断定はしない」
「はい」
エリアナが言う。
「母は、怖がらせるためだけに歌ったのではないと思います」
誰も否定しなかった。
鳴らさぬ谷の入口にいると、その言葉は自然に受け取れた。
鐘を鳴らすな。
声を落とせ。
白布に触れるな。
それはただの禁忌ではなく、何かを守るための手順だったのかもしれない。
休憩後、ユリウスが地図を確認した。
「今日は入口の確認を主目的とする。奥へ入るのは、全員の状態確認後、短距離のみ。白鐘北礼拝堂跡までは明日以降にする可能性もある」
学園長はいない。
だが、学園長の方針通り、急がない。
ロウ教師が全員を見る。
「状態確認」
アルト。
「痛みなし。熱少し。声なし。怖さあり。でも、入口までは確認できています。短距離なら進めます」
リゼ。
「身体異常なし。感情、緊張。白布、石柱、旧名確認により負荷あり。現在地保持。短距離進行可能」
エリアナ。
「身体異常なし。感情、怖さ、怒り、少し安心。白布が今も結ばれていることに反応があります。短距離進行可能ですが、触れません」
ミリア。
「身体異常なし。全員の声量が落ちているので、声が届きにくくなった場合は手信号を使いましょう」
カイ。
「身体異常なし。声量調整中。怖いけど、行けます。あと、足元注意します」
ロウ教師は頷いた。
「よし。入口から五十歩。そこで止まる」
鳴らさぬ谷へ、足を踏み入れる。
一歩。
土の感触が変わる。
二歩。
音がさらに遠くなる。
三歩。
白布の擦れる音が背後に薄く残る。
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
五十歩。
そこで止まる。
谷の中は、まだ浅い場所だった。
しかし、外とは違う。
両側の岩壁が音を吸っているようだった。
風の通り道なのに、風の音がはっきりしない。
エリアナが小さく言う。
「鐘を呼ばない谷」
リゼが頷く。
「はい」
ロウ教師が問う。
「グレイス。ここを戦時中、何として見た」
リゼは周囲を見た。
岩壁。
狭い道。
曲がり角。
視界の悪さ。
「敵待伏せ警戒地点です。補給隊が通過する際、左右の岩壁から攻撃を受ける可能性がある場所」
「今は?」
リゼは少し長く息を吸った。
「鳴らさぬ谷の入口内部。音が遠く、声量を落とす必要がある場所。白布と石柱により境界が示されている場所。旧礼拝道の可能性があります」
「よし」
エリアナが静かに言った。
「私は、この谷を知りませんでした」
リゼが彼女を見る。
「はい」
「でも、今、少し知りました」
「はい」
「それを、王宮の資料ではなく、私の記憶として持ちます」
リゼは頷いた。
「確認しました」
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
ここは怖い。
でも、呼ばれている感じではない。
壊してはいけない静けさ。
その中に、自分たちは立っている。
クラウスが足元の石を見つけた。
半分土に埋もれた金属片。
ユリウスが確認する。
「触れていいか」
クラウスは測定具を近づけた。
「反応は微弱。危険反応なし。ただし、直接手で触れず、布越しに」
エレオノーラが記録し、クラウスが慎重に金属片を取り上げる。
古い。
錆びている。
だが、表面に小さな刻みが残っていた。
白い鐘。
蔦。
半盾ではなく、半円のような縁。
クラウスの目が細くなる。
「白鐘と蔦だ」
アルトの左手首が温かくなる。
エリアナが息を飲む。
リゼも静かに見る。
金属片は、壊れた飾りの一部かもしれない。
石柱についていたものか。
礼拝道の標識か。
白布を結ぶための金具か。
まだわからない。
だが、そこに白鐘と蔦が刻まれていることだけはわかった。
エリアナが小さく言う。
「ここにも、残っていました」
リゼが頷く。
「はい」
アルトは記録表に書く。
鳴らさぬ谷入口。
白布。
旧文字。
白鐘蔦金属片。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
怖いが、敵意ではない。
ロウ教師が言った。
「今日はここまでだ」
カイが少し驚く。
「もうですか」
「もうだ。入口で十分だ。急げば、ここをまた戦場にする」
その言葉に、全員が黙った。
リゼが深く頷く。
「了解しました」
エリアナも。
「はい」
アルトも。
「はい」
引き返す時、全員は自然に白布の石柱へ目を向けた。
触れない。
ただ見る。
白布は風に揺れている。
布の端に、かすかな白鐘と蔦。
誰かが結んだもの。
誰かが替えたかもしれないもの。
鳴らさないための布。
谷を出ると、音が少し戻った。
鳥の声が近くなる。
木の葉の擦れる音がはっきりする。
カイが小さく息を吐いた。
「出たら、耳が戻った感じがする」
クラウスが頷く。
「重要な感覚だ。記録しよう」
カイは少し得意げにしつつも、小声のままだった。
馬車のある分岐まで戻る頃には、午後の光が少し傾いていた。
今日は白鐘北礼拝堂跡までは行かない。
その判断に、アルトは安心した。
もっと見たい気持ちもある。
でも、入口だけで十分重かった。
宿へ戻る道で、リゼは一度だけ振り返った。
鳴らさぬ谷の入口は、木々の間に隠れかけている。
王国軍地図なら、そこは補給枝道の入口。
リゼの戦時記憶なら、敵待伏せ警戒地点。
だが今は、白布の結ばれた祈りの入口。
リゼは静かに言った。
「名が増えました」
エリアナが隣で答える。
「はい」
「私は、今日、鳴らさぬ谷の入口を確認しました」
「はい」
「まだ、白鐘北礼拝堂跡には入っていません」
「はい」
「急ぎません」
エリアナは少しだけ目を伏せた。
「急がないでください」
「はい」
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
帰りの馬車では、誰も大きな声を出さなかった。
谷の静けさが、まだ全員の身体に残っていた。
宿へ戻り、食堂の隅に座った時、カイが包みを取り出した。
ミリアが尋ねる。
「名前は?」
カイは少し考えた。
白布。
石柱。
鳴らさぬ谷。
五十歩。
急がない。
そして言った。
「入口だけで戻れた用」
リゼが頷いた。
「適切です」
エリアナも静かに言った。
「はい。今日は、それがよいです」
アルトも頷く。
「僕も、それがいいです」
カイは包みを開いた。
小さな焼き菓子と、香草パンの欠け。
アルトは成分を読み上げる。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
香草パンを噛むと、谷の入口で感じた静けさが少しだけ和らいだ。
香りは戻る道だった。
白布に触れなかったこと。
入口だけで戻ったこと。
急がなかったこと。
それらが、今日の成果だった。
リゼは食堂の窓の外を見ていた。
「私は、敵待伏せ警戒地点として見た場所を、今日、鳴らさぬ谷の入口として見ました」
ミリアが頷く。
「ええ」
「まだ、完全には理解していません」
エリアナが答える。
「私もです」
リゼが彼女を見る。
エリアナは続ける。
「私も、今日初めて見ました。旧ヴェルグラントの者だからといって、全部知っているわけではありません」
「はい」
「でも、少し知りました」
「はい」
アルトは左手首に触れる。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
「僕も、少し知りました」
カイが焼き菓子を食べながら言う。
「俺も。大声出さない方がいい場所って、本当にあるんだなって」
ロウ教師が静かに頷いた。
「それでいい。今日は入口だけだ」
宿の外では、夕方の風が吹いていた。
鳴らさぬ谷は、山の向こうで静かに日暮れを迎えている。
白布が揺れているのかどうか、ここからは見えない。
だが、アルトの耳にはまだ、布が石に擦れる小さな音が残っていた。
声ではない。
鐘でもない。
鳴らされなかった何かの気配。
明日、その奥へ進む。
けれど今日は、入口だけで戻れた。
それが、戦場だった場所へ生徒として行くための、最初の確認だった。




