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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第9章 第3話:北西街道へ


 王立学園の正門は、朝の光を受けて白く見えた。


 いつもなら、生徒たちが授業へ向かう時間だ。


 制服の袖を直す者。


 教科書を抱えて走る者。


 朝食の残りを口に入れながらミリアに注意されそうな者。


 そうした日常の音が、いつも通り門の内側に満ちている。


 だが、今日のリゼ・グレイスたちは、その日常の外へ向かう。


 王都の北西へ。


 北西街道へ。


 鳴らさぬ谷へ。


 白鐘北礼拝堂跡へ。


 アルト・レインフォードは、馬車の前で左手首に触れた。


 痛みはない。


 熱もない。


 声もない。


 ただ、正門の外へ出ると思うと、胸の奥が少しだけ冷える。


「痛みなし。熱なし。声なし。現在地、王立学園正門前」


 隣に立つリゼが頷く。


「確認しました」


 リゼは学園指定の旅用外套を身に着け、髪にはミリアが結んだ青いリボンをつけている。


 剣は腰にはない。


 鞄の側面、布に包まれた状態で固定されている。


 すぐに抜く位置ではない。


 だが、届かない場所でもない。


 最後の手段。


 その配置を、リゼは出発前に三度確認していた。


 ミリア・ファルネーゼは全員の外套と荷物を見て回り、留め具の緩みを直している。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、香草袋を入れた内袋にそっと触れていた。


 母の香草ではない。


 母を思い出す香草。


 記録ではなく、彼女のもの。


 カイ・ロックハートは保存食の包みを抱え、荷台の安全な場所へ積み込んでいる。


「これは移動中用。これは重い話の後用。これは馬車酔いは戦闘不能用。これは戻る道を忘れない用。これは……」


 ユリウス・エインズワースが横から淡々と言った。


「食料管理表と一致しているか確認する」


「一致してます」


「声」


「一致してます」


 カイは少し小さな声で言い直した。


 エレオノーラ・ヴィンスフェルトは記録板を持ち、同行者一覧を読み上げる。


「参加者確認。学園責任者代理、ユリウス・エインズワース。記録担当、エレオノーラ・ヴィンスフェルト。安全指導、ロウ教師。封印・白鐘関連助言、クラウス・ヴァイゼル。本人参加者、リゼ・グレイス、アルト・レインフォード、エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。補助同行、ミリア・ファルネーゼ、カイ・ロックハート」


 ロウ教師は馬車の横で腕を組んでいる。


 旅装でも、どこか授業中と同じ空気を持っていた。


「状態確認」


 その一言で、全員が自然に答える。


 まず、アルト。


「痛みなし。熱なし。声なし。感情、不安と緊張。現在地、王立学園正門前」


 リゼ。


「身体異常なし。感情、緊張。北西街道への移動により戦時記憶接近の可能性あり。現在地保持」


 エリアナ。


「身体異常なし。感情、怖さ。怒りは少し。故国の旧地名へ向かうことへの緊張があります」


 ミリア。


「身体異常なし。感情、心配。でも準備はできています」


 カイ。


「身体異常なし。感情、緊張。あと馬車酔いへの警戒。保存食数、良好です」


 リゼが真面目に頷く。


「重要です」


 カイは少し嬉しそうだった。


 ユリウスは全員を見て、最後に学園長から預かった文書袋を確認した。


「出発する。現地到着までは、学園の確認手順を優先。王宮資料は必要時のみ参照する」


 ロウ教師が馬車に乗り込む前に、リゼを見た。


「グレイス」


「はい」


「道を知っていると思うな」


 リゼは一瞬、言葉を止めた。


 それから頷く。


「はい」


「戦時中に見た道と、今日見る道は違う。覚えていることを消すな。だが、覚えていることだけで見るな」


「了解しました」


 ロウ教師は次にアルトを見る。


「レインフォード」


「はい」


「反応を地図にするな」


「はい」


「ただし、隠すな」


「はい」


 最後に、エリアナ。


「ヴェルグラント」


「はい」


「知らないことを恥じるな」


 エリアナの瞳が揺れた。


「はい」


「旧ヴェルグラントの者だからといって、すべてを知っている必要はない。知らないものを見に行く。それでいい」


 エリアナは少しだけ目を伏せた。


「はい」


 馬車の扉が閉まる。


 車輪がゆっくり動き出す。


 正門が遠ざかる。


 学園の白い壁、青い布、朝の声。


 それらが少しずつ後ろへ流れていく。


 アルトは窓から振り返った。


 学園が見える。


 戻る場所。


 まだ、近い。


 左手首に触れる。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 馬車は王都の石畳を進む。


 朝の市場を抜け、橋を渡り、北西門へ向かう。


 王都の道は整っている。


 店の看板は色鮮やかで、パン屋の匂いが一瞬だけ馬車の中へ入ってきた。


 カイが反応する。


「今の匂い、よかったな」


 ミリアが笑う。


「出発してすぐ買い食いはしません」


「言ってないです」


「顔に出ていたわ」


 エリアナの口元が、ほんの少し緩む。


 リゼは窓の外を見ながら言った。


「王都北西門から先、道幅が変わります。軍用馬車二台の並走が可能だった区間は、およそ半日程度続きます」


 ユリウスが地図を広げる。


「戦時記憶?」


「はい。ただし、現在の道幅は不明です」


 ロウ教師が頷く。


「良い言い方だ」


 リゼは少しだけ目を伏せる。


「現在の道を確認します」


 北西門を抜けると、石畳は少しずつ荒くなり、やがて土の道へ変わった。


 王都の高い建物が後ろに遠ざかり、空が広くなる。


 麦畑。


 低い丘。


 細い水路。


 遠くに見える林。


 アルトは窓から外を見た。


 北西街道。


 王都の中では資料の言葉だったそれが、今は馬車の車輪の下にある。


 左手首がわずかに温かくなった。


「痛みなし。熱少し。声なし。北西街道へ出て反応しました」


 エレオノーラが記録する。


 クラウスが窓の外を見ながら言った。


「反応は地名か、方角か、あるいは街道自体か。まだ分けられないな」


「はい。わかりません」


 アルトは答える。


「ただ、怖い反応ではありません」


 リゼが頷いた。


「確認しました」


 馬車はしばらく進む。


 車輪が土を踏む音。


 馬の息。


 外套の布が揺れる音。


 王都を出てからしばらくは、誰もあまり話さなかった。


 沈黙は重くはない。


 それぞれが、自分の中の準備を確認しているような静けさだった。


 やがて、カイが小さく言った。


「馬車酔いは、今のところなし」


 エレオノーラが反射的に記録しようとしたので、カイが慌てる。


「それも記録ですか」


「安全情報です」


「安全情報なら仕方ない」


 ミリアが笑った。


 その笑いで、馬車の中の空気が少し柔らかくなる。


 昼前、最初の休憩地点に着いた。


 街道沿いの小さな宿場だ。


 古い井戸と、馬を休ませるための木陰がある。


 王国軍の補給用に整備された時期があるらしく、建物の一部には古い軍用印が残っていた。


 リゼはそれを見て、すぐに言った。


「補給所跡です」


 クラウスが壁の印を見る。


「軍務局の旧印だな。現在は民間宿場として使われている」


 宿場の主人は、年配の男性だった。


 ユリウスが学園名と通行目的を伝えると、男性は一行を見回し、地図をちらりと見る。


「北西街道を奥まで行くのかい」


 ユリウスが答える。


「鳴らさぬ谷方面へ向かいます」


 その言葉に、リゼの指がわずかに動いた。


 鳴らさぬ谷。


 王国軍地図ではない名を、ユリウスが先に出した。


 宿場の主人は頷いた。


「ああ、鳴らさぬ谷か。日暮れ前には手前の宿へ入った方がいい。あそこは夕方を過ぎると音が変わる」


 アルトの左手首が熱を持った。


 痛みはない。


 声もない。


「痛みなし。熱少し。声なし。“音が変わる”で反応しました」


 主人が少し驚いたようにアルトを見る。


 ユリウスが穏やかに説明する。


「体調確認です。続けてください」


 主人は少し不思議そうにしながらも頷いた。


「昔からそう言うんだ。谷に入ると、声が遠くなる。近くで話してるのに、向こう岸から聞こえるみたいになる。まあ、風のせいだって言う者もいるがね」


 エリアナが静かに尋ねた。


「今も、鳴らさぬ谷と呼ぶ人がいるのですね」


 主人は首を傾げる。


「昔からそう呼んでるだけだ。役所の地図じゃ別の名かもしれんが、うちの親父も、そのまた親父も鳴らさぬ谷って言ってた」


 エリアナは少しだけ目を伏せた。


「そうですか」


 リゼは黙ってその言葉を聞いている。


 自分が補給枝道として記憶していた場所を、この宿場の人はずっと鳴らさぬ谷と呼んでいた。


 軍の地図にはなかった名。


 だが、人の口には残っていた名。


 ロウ教師がリゼを見る。


「今、何を見ている」


 リゼは答えた。


「同じ道に、別の記憶が残っていることを確認しています」


「よし」


 宿場の主人は井戸水を汲みながら言った。


「鳴らさぬ谷へ行くなら、白い布には触らん方がいい」


 エリアナが顔を上げる。


「白い布?」


「ああ。今も時々、古い柱に結んである。誰が結ぶのか知らんがね。うちの婆さんは、あれは触るもんじゃないって言ってた」


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みなし。


 声なし。


 リゼも静かに息を吸った。


 白布。


 まだ現地に残っている。


 あるいは、誰かが今も結んでいる。


 エリアナの指が、鞄の内側の香草袋へ触れた。


「それは、近年のものですか」


 主人は首を振る。


「古いのも新しいのもある。雨でだめになれば、誰かが替えてるんだろう。谷に入る者は、あれを見て声を落とす」


 カイが思わず言った。


「声を落とす?」


 主人は頷く。


「あそこじゃ大声を出すなって昔から言われてる。鐘も鳴らすな。笛も吹くな。そういう場所だ」


 馬車のそばに、静けさが落ちた。


 鐘を鳴らすな。


 声を落とす。


 鳴らさぬ谷。


 王宮資料の中で見た言葉が、宿場の老人の口から普通に出てくる。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。“鐘も鳴らすな”で反応しました。怖さは少しです」


 エレオノーラが記録する。


 エリアナは主人へ礼を言った。


「教えてくださって、ありがとうございます」


「礼を言われることじゃない。古い言い伝えだ」


 主人はそう言って、馬へ水をやりに行った。


 リゼは井戸のそばに立ち、街道の先を見ていた。


「私は、ここを補給所跡として記憶しています」


 ミリアが隣に立つ。


「今は?」


「宿場です。鳴らさぬ谷へ向かう人が、水を補給する場所です」


「良好よ」


 リゼは少しだけ目を伏せた。


「補給という言葉も、戦時だけではありません」


「ええ」


「水を飲むことも、戻るための準備です」


 カイが遠くから言う。


「保存食も補給です」


 ロウ教師が頷いた。


「今日は正しい」


「今日は、ですか」


「今のところは」


 カイは少し不満そうだったが、保存食袋を抱え直した。


 休憩後、馬車はさらに北西へ進んだ。


 王都から離れるにつれて、道の脇に残る軍用標識は減り、代わりに古い石柱や崩れた道標が見えるようになった。


 その中の一つに、リゼが反応した。


「停止を提案します」


 ユリウスがすぐに御者へ合図する。


 馬車が止まる。


 リゼは馬車を降り、道端の低い石柱へ近づいた。


 全員が距離を保って続く。


 単独行動禁止。


 リゼ自身もそれを守っている。


 石柱は半分崩れ、文字は削れている。


 王国軍の標識ではない。


 もっと古い。


 エリアナが近づきすぎない位置で見る。


「旧文字です」


 クラウスが頷く。


「完全には読めないが、白鐘蔦に似た飾りがある」


 石柱の端に、小さな蔦の刻みが残っていた。


 白鐘紙工房の透かしとは違う。


 だが、曲線の流れが少し似ている。


 アルトの左手首が温かくなる。


「痛みなし。熱少し。声なし。石柱の蔦で反応しました」


 リゼは石柱の削れた面を見ていた。


「ここは、戦時中、道標撤去済み地点として記録されていました」


 ユリウスが確認する。


「撤去済み?」


「はい。敵側が利用する可能性のある道標を、王国軍が撤去または破壊したと記録していた可能性があります」


 エリアナの表情が硬くなる。


「地名の入口を壊したのですね」


 リゼはすぐに答えない。


 ロウ教師が見ている。


 ミリアも。


 リゼは慎重に言った。


「王国軍の意図は、敵の移動情報を減らすことだった可能性があります」


「はい」


 エリアナの声は少し低い。


「でも、結果として、地名の入口が壊れました」


「はい」


 リゼは頷いた。


「その可能性を記録します」


 エレオノーラが書く。


 カイが石柱を見て、少し眉を寄せた。


「でも、全部は削れてないんだな」


 エリアナが見る。


「はい」


 カイはしゃがみ込みすぎない距離で、石柱の下部を指した。


「ここ、なんか残ってる。鳴……じゃないですか」


 エリアナがゆっくり近づく。


 クラウスも見る。


 石の下部、土に近い場所。


 そこに、かすかな文字が残っていた。


 鳴。


 完全ではない。


 でも、そう読める。


 エリアナの瞳が揺れた。


「鳴」


 小さく声に出す。


 それだけで、アルトの左手首が弱く熱を持つ。


 痛みなし。


 声なし。


 リゼはその文字を見つめる。


「削られていない部分がありました」


 エリアナが頷く。


「はい」


「完全には消えていません」


「はい」


 ミリアが静かに言う。


「地名も、少し残っていたのね」


 エリアナは石柱に触れなかった。


 触れたいようにも見えた。


 でも、触れなかった。


「触ってもいいかどうか、まだわかりません」


 リゼが頷く。


「適切です」


 カイが少しだけ照れたように言った。


「見つけただけでも、いいですよね」


 エリアナがカイを見る。


 そして、静かに頷いた。


「はい。ありがとうございます」


 カイは少し慌てた。


「いや、そんな」


 ロウ教師が短く言う。


「受け取れ」


 カイは背筋を伸ばす。


「はい。受け取ります」


 その言い方がリゼに似ていて、ミリアが小さく笑った。


 再び馬車に乗る前、リゼは石柱へ向かって一礼した。


 軍人の礼ではない。


 剣士の礼でもない。


 ただ、そこに残っていた名へ向けるような、小さな礼だった。


 エリアナは何も言わなかった。


 ただ、同じように少しだけ頭を下げた。


 馬車は午後の光の中を進む。


 街道は緩やかに傾き、遠くに低い山並みが見え始めた。


 風の匂いが少し変わる。


 土と草の匂いに、乾いた石の匂いが混ざる。


 アルトは窓の外を見ながら、記録表を開いた。


 北西街道。


 宿場。


 鳴らさぬ谷という口伝。


 白布。


 声を落とす。


 鐘を鳴らすな。


 石柱。


 蔦。


 鳴の文字。


 反応はすべて熱少し。


 痛みなし。


 声なし。


 怖さは少し。


 情報として記録。


 書いていると、少しずつ道がただ怖いものではなくなる。


 情報が増える。


 人の言葉が増える。


 地名が戻る。


 カイが隣で顔色を少し悪くしていた。


 アルトは気づく。


「カイさん。馬車酔いですか」


「まだ違う。これは警戒」


 ミリアが見る。


「顔色は少し悪いわ」


「じゃあ軽度です」


 カイは自分で袋を取り出した。


 馬車酔いは戦闘不能用。


 リゼが真面目に言う。


「早期対応、良好です」


「助かるけど、なんか恥ずかしいな」


 エリアナが香草袋から少しだけ香りを確認した。


「香草、使いますか。酔いには効かないかもしれませんが、匂いで少し落ち着く可能性があります」


 カイは少し迷ってから頷いた。


「お願いします」


 エリアナは袋を開け、直接渡さず、少し離れた位置で香りを流した。


 強くしすぎない。


 急がずに。


 カイは息を吸う。


「……苦い」


「はい」


「でも、落ち着くかも」


「なら、よかったです」


 ミリアがその様子を見て微笑んだ。


「香草も戻る道ね」


 エリアナは袋を閉じながら頷いた。


「はい。少しだけ」


 夕方近く、一行は予定していた宿に着いた。


 北西街道沿いの小さな宿場町。


 王国軍時代の補給所跡を改修した宿で、外壁の一部に古い石が使われている。


 宿の看板には、王国語で「北西宿場」と書かれていた。


 だが、宿の老婆は、ユリウスの地図を見て言った。


「あんたたち、鳴らさぬ谷へ行くんだね」


 また、その名だった。


 エリアナの目が少しだけ揺れる。


 リゼは静かに聞いている。


 老婆は窓の外、山の方を見た。


「あそこは、昔は祈りの入口だったって聞いたよ。今の若い者は知らんがね。大声を出さず、布に触れず、日が暮れる前に戻る。それが決まりだった」


 アルトの左手首が少し温かくなる。


 痛みなし。


 声なし。


 老婆はリゼの灰銀の髪を見ても、特に何も言わなかった。


 ただ、全員へ同じように言う。


「行くなら、明るいうちにお行き。谷は、夜になると声の向きが変わる」


 クラウスが静かに問う。


「声の向き、ですか」


「そう。呼んだ声が、呼んだ人の後ろから返ってくるみたいになる。昔の話さ」


 カイが小さく呟く。


「怖い」


 ロウ教師が頷いた。


「怖いと思えるなら、よい」


 宿の部屋に荷物を置いた後、全員は食堂の一角で夕食を取った。


 温かいスープ。


 固めのパン。


 塩気の強い肉。


 王都の食堂とは違う味だった。


 カイは少し回復したようで、パンを割りながら言う。


「馬車酔い、戦闘不能までは行きませんでした」


 リゼが頷く。


「中程度未満」


「そういう記録になるのか」


 エレオノーラが淡々と書く。


「なります」


 カイはもう諦めた顔をした。


 ミリアが笑う。


 食事の後、ユリウスが地図を広げた。


「明日の朝、鳴らさぬ谷入口へ向かう。今日得た情報を整理する」


 エレオノーラが読み上げる。


「一、宿場住民は現在も鳴らさぬ谷の名を使用。二、谷では声を落とす、鐘や笛を鳴らさないという口伝あり。三、白布は現在も古い柱に結ばれている可能性。触らないものとされる。四、旧道標に鳴の文字と白鐘蔦に似た刻みあり。五、日暮れ後、声または音の方向感覚が変化するという口伝あり」


 アルトは左手首に触れる。


「痛みなし。熱少し。声なし。情報が増えて、少し怖いですが、ただ怖いだけではありません」


 リゼが頷く。


「確認しました」


 エリアナは静かに言った。


「地名が、まだ人の口に残っていました」


 ミリアが頷く。


「ええ」


「それは少し、安心しました」


 エリアナは自分の言葉に少し驚いたようだった。


「でも、同時に怒りもあります。地図では消えていたのに、人の口には残っている。誰が消し、誰が残したのか、考えてしまいます」


 ロウ教師が言う。


「両方記録しろ。安心と怒りは同時にあっていい」


 エリアナは頷く。


「はい」


 リゼは地図を見ていた。


「私は、この道を補給路として記憶していました」


 ユリウスが静かに聞く。


 リゼは続ける。


「今日、宿場、井戸、白布の口伝、旧道標を確認しました。補給路であったことは消えません。しかし、それだけではありませんでした」


 ミリアが柔らかく言う。


「良好よ」


 カイが食後用の小さな包みを出した。


 ミリアがいつものように尋ねる。


「名前は?」


 カイは少し考えた。


 街道。


 鳴らさぬ谷。


 声を落とす。


 白布に触らない。


 鳴の文字。


 馬車酔い。


 いろいろなものを頭の中で並べ、やがて言った。


「補給路だけじゃなかった用」


 リゼが静かに頷いた。


「適切です」


 エリアナも言った。


「はい。今日は、それがよいです」


 アルトも頷く。


「僕も、そう思います」


 カイは包みを開いた。


 小さな焼き菓子と、香草パンの欠け。


 アルトは成分を読み上げた。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 宿の食堂で、五人は少しずつ食べた。


 香草パンは、旅の揺れで少し崩れていた。


 けれど、噛むと香りが広がる。


 王都の調理室とは違う場所で食べる同じ味。


 少しだけ、戻る道がここにもあるように感じた。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 外では、日が落ちていく。


 宿の窓から見える山の向こうに、明日向かう谷がある。


 鳴らさぬ谷。


 人の口に残っていた名。


 白布に触れてはいけない場所。


 声を落とす場所。


 鐘を鳴らさない場所。


 リゼは食堂の窓の外を見て、静かに言った。


「明日から先は、私の戦功記録では突破線です」


 エリアナが答えた。


「私の故国では、祈りの入口だったかもしれません」


 アルトは二人の言葉を聞きながら、左手首の熱を記録した。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 感情、怖い。


 でも、一人ではない。


 補給路だけではなかった道を、明日、彼らはさらに奥へ進む。


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