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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第9章 第2話:出発前夜


 旅支度というものを、リゼ・グレイスは正しく知らなかった。


 荷物を整えることなら、知っている。


 武器の状態確認。


 携行食の数。


 水袋。


 包帯。


 火打ち石。


 退避経路に合わせた重量配分。


 夜間行動を想定した布。


 靴底の摩耗。


 剣の刃こぼれ。


 それらは、何度も行ってきた。


 だが、それは旅支度ではなかった。


 出撃準備だった。


 寮の部屋の床に布を広げ、必要なものを一つずつ並べながら、リゼはその違いを考えていた。


 制服の替え。


 外套。


 学園指定の旅行用鞄。


 水筒。


 簡易記録帳。


 筆記具。


 応急包帯。


 携行食。


 そして、剣。


 剣だけが、他の荷物と違っていた。


 それは、彼女にとってあまりにも慣れた重さだった。


 持つべきか。


 持たざるべきか。


 戦場だった場所へ行く。


 だが、戦場へ戻るのではない。


 確認へ行く。


 だが、危険がないとは限らない。


 リゼは剣を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。


「その顔は、剣を持つかどうかで悩んでいる顔ね」


 背後から声がした。


 ミリア・ファルネーゼだった。


 金色の髪を柔らかく結び、手には小さな裁縫箱を持っている。


 リゼは振り返る。


「はい。判断中です」


「理由は?」


「剣を持てば、戦場準備に近づきます。剣を持たなければ、危険対応能力が低下します」


 ミリアは部屋に入り、リゼの広げた荷物を見た。


 整いすぎている。


 必要なものはきっちり並び、布の端も曲がっていない。


 けれど、その整い方は、やはり少し軍務に近い。


 ミリアは小さく微笑んだ。


「まず一つ確認しましょう。これは出撃準備ではなく、旅支度よ」


 リゼは瞬きをした。


「旅支度」


「ええ。現地確認のための旅支度」


「確認しました」


「だから、荷物には“戦うためのもの”だけでなく、“戻るためのもの”と“休むためのもの”も必要」


 ミリアは床の布の上へ、薄いリボンを一本置いた。


 淡い青色。


 いつもリゼの髪を整える時に使うものより、少し丈夫な素材だった。


「これは?」


「替えのリボン。風が強い場所では髪が乱れやすいでしょう。視界確保にもなるし、何より、あなたが学園の生徒として自分を戻す印にもなる」


 リゼはリボンを見た。


 戦場で髪をまとめる布は、視界と動作のために使った。


 だが、ミリアの置いたリボンは、それだけではないらしい。


「機能と関係性の両方があります」


 リゼが言うと、ミリアは嬉しそうに頷いた。


「かなり良い整理ね」


「ありがとうございます」


「それから剣だけれど」


 ミリアは剣を見た。


「持っていくべきだと思うわ」


 リゼが少し意外そうに見る。


「ミリアさんが、そう判断しますか」


「ええ」


 ミリアは静かに答えた。


「持たないことで、逆に不安定になるなら持つべきよ。ただし、最初に使うものにしない。それを決めて持つ」


 その時、開いた扉の向こうから低い声がした。


「その通りだ」


 ロウ教師だった。


 寮の廊下側で腕を組んでいる。


 ミリアが振り返る。


「先生。女子寮の部屋の前です」


「中には入っていない」


「そういう問題だけではありません」


「用件だけ言う」


 ロウ教師はリゼを見た。


「剣は持て。だが、最初に使うものにするな」


 リゼはまっすぐ頷いた。


「了解しました」


「戦場だった場所へ行く。危険がないと決めつけるな。だが、危険があるから戦場に戻るな」


「はい」


「剣は、お前を戦場へ戻す道具ではない。戻れなくなった時に、他人を守る最後の手段だ。順番を間違えるな」


 リゼは剣を見る。


 最後の手段。


 最初の反応ではなく。


 命令への即応ではなく。


 最後に残すもの。


「記録します」


「記録だけで終わるな」


「はい」


 ロウ教師はそれだけ言うと、廊下を離れていった。


 足音が遠ざかる。


 ミリアが小さく息を吐く。


「本当に用件だけだったわね」


「有効な助言でした」


「ええ。悔しいけれど、とても有効」


 リゼは剣を布で包み、荷物の横へ置いた。


 腰に常時吊るすのではなく、鞄に固定する位置。


 すぐ抜く場所ではない。


 だが、必要なら届く場所。


「剣は持ちます。ただし、最初に使うものにしません」


「良好よ」


 ミリアはリゼの後ろへ回り、髪に触れた。


「リボン、結び直すわね」


「はい」


 灰銀の髪が、ミリアの指で静かに整えられていく。


 戦場へ行く前、誰かに髪を整えられた記憶はリゼにはほとんどない。


 自分で結ぶ。


 早く、固く、邪魔にならないように。


 だが、ミリアの手は違う。


 強く引かない。


 必要なところだけを整える。


 そこには、急ぐ音がない。


「リゼさん」


「はい」


「明日、不安になったら言って」


「はい」


「不安でなくても、言って」


 リゼは少し考えた。


「不安でない場合も、言う必要がありますか」


「ええ。あなたの場合、“不安でない”ではなく“まだ記録していない”ことがあるから」


 リゼは納得した。


「了解しました。感情記録を怠らないようにします」


「怠るっていうより、置き忘れないようにね」


 ミリアはリボンを結び終えた。


「できた」


 リゼは手でそっと触れる。


 青いリボン。


 学園の色。


 戦場ではなく、戻る場所の色。


「良好です」


 ミリアが微笑む。


「とても似合っているわ」


 リゼは一拍置いてから答えた。


「ありがとうございます。受け取ります」


 同じ頃、男子寮の一室では、アルト・レインフォードが小さな紙束を前にしていた。


 銀環状態記録表。


 痛み。


 熱。


 声。


 感情。


 現在地。


 同席者。


 反応した言葉。


 反応した物。


 停止希望の有無。


 いつもの確認項目を、旅用に書き直したものだった。


 机の上には、布で覆った左手首が置かれている。


 熱はない。


 痛みもない。


 声もない。


 ただ、明日からのことを考えると、胸の奥が少し重い。


 アルトは筆を持ったまま、最後の欄で止まっていた。


 友人接近時の反応。


 その項目を作るべきかどうか、迷っていた。


 友達を近づけるな。


 あの声を、また思い出すかもしれない。


 リゼが近くにいる時。


 ミリアが手を伸ばす時。


 カイが隣で大きな声を出す時。


 エリアナが母の言葉を口にする時。


 その声が、誰かを遠ざけろと言ったら。


 自分は、どうすればいいのか。


 机の向こうで、カイ・ロックハートが保存用焼き菓子を数えていた。


「一、二、三、四……いや、これは移動中用だから別。こっちは重い話の後用。こっちは馬車酔い対策用。こっちはリゼが難しい顔をした時用」


 アルトは顔を上げた。


「リゼさん用があるんですか」


「ある。絶対いる」


 カイは真剣だった。


「あと、エリアナさんが香草で落ち込んだ時用。アルトが銀環で変な顔した時用。ミリアさんが笑ってるけど怒ってる時用」


「ミリアさん用も?」


「ある。あの人、笑ってる時ほど怖い時あるだろ」


 アルトは少し考えた。


「否定しにくいです」


 カイは満足そうに頷き、さらに小袋を並べる。


 それぞれに、雑な字で名前が書かれていた。


 連れて行かれるんじゃなくて自分で行く用。


 戦場だった場所へ生徒として行く用。


 変な言葉でごまかさない用。


 馬車酔いは戦闘不能用。


 最後の袋だけ、少し不穏だった。


「カイさん」


「ん?」


「馬車酔いは戦闘不能用、は自分用ですか」


「そうだ」


 即答だった。


「俺が倒れたら困るだろ」


「はい。困ります」


「だから備えてる」


 その真剣さが、少しおかしくて、少しありがたかった。


 アルトは小さく笑った。


 左手首に触れる。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 感情、少し安心。


 現在地、男子寮の部屋。


 同席者、カイ。


 記録表にそう書く。


 カイがそれを覗き込んだ。


「何書いてる?」


「銀環状態記録表です。旅用にしました」


「へえ。見てもいい?」


「はい」


 カイは真剣に紙を見た。


 普段なら細かい表は途中で飽きるのに、今日は最後まで目を通している。


 そして、最後の空欄を指した。


「ここ、何を書くんだ?」


 アルトは少し黙った。


「友達を近づけるな、という声を思い出した時の項目を作るか迷っています」


 カイの顔が、一瞬で真面目になった。


「作った方がいい」


「そう思いますか」


「思う。書いとけば、声が出た時に“あ、これ項目にあるやつだ”ってなるだろ」


 アルトは目を瞬く。


「項目にあるやつ」


「そう。得体の知れない怖いやつじゃなくて、もう書いてあるやつ」


 カイらしい言い方だった。


 でも、わかりやすい。


 アルトは筆を持った。


「では、書きます」


 欄を作る。


 友人を遠ざける声・記憶。


 声か、記憶か。


 反応時の本人意思。


 近くにいてほしい人。


 距離を取りたい人。


 停止希望。


 報告先。


 書いているうちに、少しだけ胸の重さが形になる。


 怖さが消えたわけではない。


 でも、書けるものになった。


 カイが言う。


「近くにいてほしい人って、俺も書いていいぞ」


 アルトは少し笑った。


「自分で言うんですか」


「言う。書いとけ」


「はい」


 アルトは書いた。


 近くにいてほしい人。


 リゼさん。


 ミリアさん。


 カイさん。


 エリアナさん。


 ロウ先生。


 ユリウス先輩。


 エレオノーラ先輩。


 クラウスさん。


 少し多い。


 でも、それでいい。


 孤独な音にならないためには、多すぎるくらいでいいのかもしれない。


 カイは保存食の袋を一つ、アルトの机に置いた。


「これはアルト用」


 袋には、こう書かれていた。


 友達を近づけるなを信用しない用。


 アルトはその文字を見て、胸がきゅっとなった。


 少し痛い。


 でも、悪い痛みではない。


「ありがとうございます」


「おう」


「受け取ります」


 カイは少し照れたように笑う。


「リゼみたいな言い方になってる」


「はい。少し移りました」


「いいんじゃねえの」


 その声が、ちゃんと届いた。


 友達を近づけるな。


 その言葉に対して、机の上には保存食と記録表がある。


 まだ、勝てる気がした。


 女子寮の別室では、エリアナが小さな布袋を前に座っていた。


 袋の中には、乾いた香草が入っている。


 セリーネ草に近い香り。


 完全に故国のものではない。


 王立学園で、カイやミリアと試作した香草パンに使ったものだ。


 けれど、エリアナにとってはもう、ただの材料ではなかった。


 母の言葉を思い出す香り。


 鳴らさない祝祭。


 白布。


 灯皿。


 遠くから近づいてくる香り。


 彼女は袋の紐を開き、少しだけ香りを確かめる。


 乾いた甘さ。


 焼けば苦くなる匂い。


 胸の奥に、母の声が触れる。


 王の血だけで開く扉は、王を滅ぼす。


 扉は、血を試すためにあるのではない。


 帰る音を見失わないためにある。


 帰る音。


 エリアナはその言葉をまだ完全には理解できない。


 自分にとって帰る場所とは何か。


 故国は敗れた。


 母の手帳かもしれないものは消えた。


 王宮は保護という名で子どもを集めた。


 自分は学園にいる。


 帰る、という言葉は簡単ではない。


 だから、明日から向かう場所も、帰る場所ではない。


 確認しに行く場所だ。


 エリアナは香草袋を握った。


「持っていくべきでしょうか」


 問いかける相手はいない。


 だが、扉の向こうから軽くノックがした。


「エリアナさん。入ってもいいかしら」


 ミリアの声だった。


 エリアナは紐を結び直しながら答えた。


「はい」


 扉が開き、ミリアが入ってくる。


 手には小さな布と、予備の留め紐がある。


「香草袋?」


「はい」


 エリアナは少し迷ってから、机の上に置いた。


「持っていくか迷っています」


 ミリアは勝手に触れなかった。


 少し離れた位置から、袋を見る。


「理由は?」


「母の記憶に近いものです。白鐘北礼拝堂跡で、何かに反応するかもしれません」


「それが怖い?」


「はい」


 エリアナは正直に頷いた。


「これを持っていくと、母の記憶を白鐘情報として差し出すように感じるかもしれません」


「ええ」


「でも、持っていかなければ、母の記憶を置いていくようにも感じます」


 ミリアは静かに聞いている。


 エリアナは続けた。


「私は、母の手帳かもしれないものを探しています。でも、母のものと断定しません。母の香草も、白鐘情報だけにはしたくありません。でも、現地で必要になるかもしれません」


「難しいわね」


「はい」


 ミリアは少し考えてから言った。


「持っていくなら、記録用ではなく、あなたのものとして持っていくのはどうかしら」


「私のもの」


「ええ。王宮へ提出する資料でも、白鐘反応確認道具でもなく、あなたが安心するために持つもの。必要になった時に使うかどうかは、その場であなたが決める」


 エリアナは香草袋を見た。


 母の記憶。


 自分のもの。


 提出物ではない。


「使わなくてもよいのですか」


「もちろん」


「反応しなくても」


「よいわ」


「反応しても、すぐに記録材料にしない」


「その条件も入れましょう」


 エリアナは少しだけ息を吐いた。


「では、持っていきます」


 ミリアは頷いた。


「本人意思、確認したわ」


 エリアナは香草袋を手に取る。


「母の香草ではありません」


 少し考えて、言い直す。


「母を思い出す香草です」


 ミリアが柔らかく頷く。


「その表現、とても良いと思うわ」


「ありがとうございます」


「袋の紐、強くしすぎると香りがこもるかもしれないから、少し緩めに結び直す?」


 エリアナは袋を見た。


 いつの間にか、かなり強く結んでいた。


「お願いします」


 ミリアは丁寧に袋を受け取り、紐を結び直す。


 香草の香りが、部屋に少しだけ広がった。


 エリアナは目を閉じない。


 香りを受け取る。


 怖い。


 でも、嫌ではない。


「遠くから近づいてくる香りです」


 ミリアが微笑む。


「ええ」


 エリアナは小さく頷いた。


「持っていきます。記録ではなく、私のものとして」


「確認したわ」


 夜が深くなる頃、学園の調理室にはまだ灯りが残っていた。


 カイが保存用焼き菓子の最後の袋を縛り、アルトが成分表を書いている。


 ミリアは持ち物一覧を確認し、リゼは荷物の重量配分を再計算していた。


 エリアナは香草袋を布で包み、鞄の内側へ入れる位置を決めている。


 五人が同じ場所にいるのは、学園祭準備の頃を少し思い出させた。


 あの時も、出店のために材料を並べ、役割を決め、危険確認をしていた。


 けれど、今回は向かう場所が違う。


 焼き菓子店ではない。


 鳴らさぬ谷。


 白鐘北礼拝堂跡。


 戦場だった場所。


 リゼは保存食の袋を見て、少しだけ首を傾げた。


「名称が多いです」


 カイが胸を張る。


「全部必要」


 袋には、さまざまな名前が書かれていた。


 連れて行かれるんじゃなくて自分で行く用。


 友達を近づけるなを信用しない用。


 戦場だった場所へ生徒として行く用。


 変な言葉でごまかさない用。


 馬車酔いは戦闘不能用。


 香草を急いで潰さない用。


 戻る道を忘れない用。


 リゼは最後の袋を指した。


「戻る道を忘れない用」


「それ、一番大事だろ」


 カイは真剣に言った。


「行く話ばっかしてるけど、戻らないと困る」


 ミリアが頷いた。


「とても大事ね」


 エリアナも静かに言う。


「戻る道を先に作る」


「そう、それ」


 カイは嬉しそうに頷いた。


 アルトは成分表に最後の行を書き加える。


 保存食名、戻る道を忘れない用。


 成分、小麦、卵、乳、林檎、杏、蜂蜜少量。


 備考、帰路用。重い確認後に使用。


 書いていると、不思議と本当に戻れる気がした。


 リゼはその成分表を見て、静かに言った。


「戻る道は、物理経路だけではありません」


 カイが目を瞬く。


「急に深い」


「現在地確認、名前確認、感情確認、食事、休憩、同行者。これらも戻る道です」


 ミリアが微笑む。


「その通りね」


 エリアナが香草袋をそっと押さえる。


「香りも、戻る道かもしれません」


 アルトは左手首に触れた。


「友達の声も」


 カイが少し照れたように笑う。


「じゃあ、俺の声も戻る道か」


「はい」


 リゼが真面目に頷いた。


「ただし、音量調整が必要です」


「わかった。戻る道用の声量にする」


 ミリアが笑った。


 その笑い声が、調理室に柔らかく響いた。


 夜の学園は静かだ。


 窓の外には暗い中庭。


 遠くの廊下から、夜間見回りの足音が聞こえる。


 鐘は鳴らない。


 だが、今はその静けさが怖くなかった。


 リゼはふと窓の外を見た。


 自分たちは明日、まだ出発しない。


 出発は三日後。


 だが、出発前夜のような空気がある。


 正確には、出発前々夜。


 それでも今夜は、心の準備を始める夜だった。


「状態確認を提案します」


 リゼが言うと、全員が自然に頷いた。


 まず、アルト。


「痛みなし。熱なし。声なし。感情、不安と安心が両方あります。現在地、学園調理室。同席者、リゼさん、ミリアさん、カイさん、エリアナさん」


 次に、リゼ。


「身体異常なし。感情、緊張。不安。剣を持つことへの警戒あり。ただし、最初に使うものにしないと確認しました。現在地、学園調理室」


 ミリア。


「身体異常なし。感情、心配。でも、全員が言葉にできているので少し安心しています」


 カイ。


「身体異常なし。感情、緊張。あと、焼き菓子が足りるか不安。馬車酔いも不安。でも行きたいです」


 エリアナ。


「身体異常なし。感情、怖さ。怒り。母を思い出す香草を持っていくことにしました。記録ではなく、私のものとして」


 エレオノーラはいない。


 だが、全員の頭の中に、今の確認が記録されているような気がした。


 ミリアが言う。


「良好よ」


 カイが焼き菓子の袋を持ち上げる。


「じゃあ、今夜の分」


 ミリアが尋ねた。


「名前は?」


 カイは少し考えた。


 旅支度。


 剣は最後。


 銀環記録表。


 香草袋。


 戻る道。


 全部を一つにする名前を探すように、彼は天井を見上げた。


 そして言った。


「出撃じゃなくて旅支度用」


 リゼが目を伏せた。


 その言葉は、彼女に深く届いたらしい。


「適切です」


 声は静かだった。


 アルトも頷く。


「僕も、それがいいと思います」


 エリアナが言う。


「はい。出撃ではありません」


 ミリアが微笑む。


「旅支度ね」


 カイは布包みを開いた。


 小さな焼き菓子と、香草パンの新しい欠け。


 今回は少しだけ香草が細かく砕かれている。


 エリアナが自分で砕いたものだった。


 アルトは成分表を読み上げる。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」


 エリアナが頷いた。


「確認しました」


 五人は調理室の大きな作業台を囲んで、少しずつ食べた。


 香草パンは、前より苦味が柔らかい。


 甘さは控えめだが、香りがゆっくり広がる。


 遠くから近づいてくる香り。


 エリアナは一口食べて、小さく息を吐いた。


「少し、近づきました」


 カイが顔を明るくする。


「本当ですか」


「はい。でも、まだ違います」


「次、また調整します」


「はい。急がずに」


 そのやり取りを聞きながら、アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 感情、安心少し。


 友達を近づけるな。


 その記憶はまだある。


 だが、今、近くにいる友達は危険ではない。


 焼き菓子の袋に名前を書き、香草を砕き、リボンを整え、剣を最後の手段にし、戻る道を確認している。


 危険に近づいているのではなく、危険へ一人で行かないために近くにいる。


 リゼが静かに言った。


「旅支度は、出撃準備と異なります」


 ミリアが頷く。


「ええ」


「出撃準備は、目的地へ到達し、任務を遂行するための準備です」


「そうね」


「旅支度は、行き、確認し、戻るための準備です」


 カイが頷いた。


「戻るまでが旅支度」


「はい」


 リゼは真面目に受け取った。


「戻るまでが旅支度です」


 エリアナが小さく微笑んだ。


「それは、良い言葉です」


 アルトも頷いた。


「はい」


 調理室の窓の外は暗い。


 青い布はもう見えない。


 鐘は鳴らない。


 でも、部屋の中には小さな灯りがある。


 香草の匂い。


 焼き菓子の甘さ。


 紙に書かれた名前。


 結び直されたリボン。


 布に包まれた剣。


 出撃ではない。


 旅支度。


 リゼは最後にもう一度、自分の荷物の一覧を見た。


 剣。


 青いリボン。


 記録帳。


 水筒。


 保存食。


 戻る道を忘れない用。


 そして、同行者。


 リゼ・グレイスは静かに息を吸った。


「私は、現在、確認へ向かう生徒です」


 アルトが頷く。


「はい」


 エリアナも。


「はい」


 ミリアが微笑む。


「旅支度、良好よ」


 カイが焼き菓子を掲げた。


「出撃じゃなくて旅支度用、残り三袋あります」


 リゼは真面目に頷いた。


「配分、良好です」


 小さな笑い声が、夜の調理室に広がった。


 明日も準備がある。


 明後日は休養と最終確認。


 三日後には、北西街道へ向かう。


 鳴らさぬ谷へ。


 白鐘北礼拝堂跡へ。


 けれど今夜、彼らはまだ学園にいる。


 戦場ではなく。


 寮と調理室の灯りの中で。


 戻る道を先に作りながら、旅支度をしていた。


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