第9章 第1話:現地確認計画
王宮から届いた文書は、いつも通り丁寧だった。
白い紙。
整った筆跡。
過不足のない敬語。
赤い封蝋。
押された印は、王宮監察局補助室のものではない。
今回は、王宮封印管理室と軍務局、そして監察局補助室の三部署連名だった。
そのこと自体が、学園長室の空気を重くしていた。
アルト・レインフォードは、机の上に置かれた文書を見て、左手首に触れた。
痛みはない。
熱は少し。
声もない。
だが、三つの部署名が並ぶだけで、銀環の奥がわずかに反応する。
封印管理室。
軍務局。
監察局補助室。
白鐘の三つの家とは違う。
紙、布、香草と灯。
記録を残し、鐘を覆い、香りと光で境界を整えるはずだったもの。
それが王宮の中では、封印、軍務、監察という別の箱に分けられている。
近くの棚に置くことと、別々の箱に閉じ込めることは違う。
アルトには、まだその違いをうまく言えない。
けれど、嫌な感じだけはわかった。
「痛みなし。熱少し。声なし。現在地、学園長室」
アルトが小さく言うと、隣に座るリゼ・グレイスが頷いた。
「確認しました」
リゼの声は静かだった。
だが、机の上の文書ではなく、その横に置かれた地図を見ている。
王国軍戦時地図。
旧ヴェルグラント北部地図。
二枚の地図は重ねられ、赤い線と古い文字がずれて並んでいた。
北西第三補給枝道。
鳴らさぬ谷。
灰銀突破点。
白鐘北礼拝堂跡。
同じ場所に、四つの名がある。
そのうち一つは、リゼの戦功名として記録されている可能性が高い。
灰銀突破点。
リゼはその文字を見ても剣には触れない。
だが、指先が記録帳の端を押さえていた。
現在地を保つための、いつもの動きだった。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、机の向こうで文書を見ていた。
淡い亜麻色の髪は整えられている。
薄紫の瞳は硬い。
怒りは隠していない。
ただ、その怒りを王宮全部へ投げつけないよう、彼女自身が線を引いている。
ミリア・ファルネーゼはエリアナの斜め横に座り、カイ・ロックハートは後方の椅子で両手を膝に置いていた。
突撃しない姿勢。
最近の彼は、重い文書が出るたびにそれを自然に取るようになっている。
ユリウス・エインズワースは文書の写しを整理し、エレオノーラ・ヴィンスフェルトは記録板を開いていた。
クラウス・ヴァイゼルは王宮の封印形式に関する資料を持ち込み、ロウ教師はいつも通り窓際に立っている。
学園長は、王宮文書の一枚目を指先で軽く叩いた。
「読む前に言っておく」
その声だけで、部屋が少し整う。
「この文書は王宮側の提案だ。命令ではない。学園がそのまま受け入れる理由もない」
カイが小さく息を吐いた。
「よかった」
ロウ教師が見る。
カイはすぐに背筋を伸ばす。
「すみません。声が出ました」
「今のはいい」
「いいんですか」
「安心も記録の対象だ」
エレオノーラが本当に記録し始めたので、カイは少し困った顔をした。
その小さなやり取りで、部屋の張りつめた空気がほんの少しだけ緩む。
学園長は文書を開いた。
「王宮側提案。白鐘関連事案、灰色封箱所在未確認、旧ヴェルグラント北部接収資料、および北西第三補給枝道周辺の現地安全確認について、王宮封印管理室、軍務局、監察局補助室による合同調査団の派遣を提案する」
アルトの左手首が熱を持つ。
痛みはない。
声もない。
合同調査団。
その言葉には、人数と権限の重さがある。
学園長は続けた。
「同行候補。リゼ・グレイス、アルト・レインフォード、エリアナ・ルクス・ヴェルグラント」
エリアナの指が硬くなった。
リゼもわずかに目を細める。
アルトは左手首を押さえた。
「痛みなし。熱中より弱い。声なし。“同行候補”で反応しました」
ミリアが静かに言う。
「不快?」
「はい。僕が選ばれるものみたいに感じました」
エリアナも続けた。
「私も不快です。候補という言葉なのに、すでに決められているように感じます」
リゼも言う。
「私も、王宮側の同行候補として扱われることに警戒があります」
エレオノーラが記録する。
学園長は頷いた。
「当然だ。王宮側が候補に挙げたからといって、本人意思が確認されたことにはならん」
ユリウスが文書の二枚目を確認する。
「王宮側は、現地における安全確保、封印反応確認、戦時記録照合、旧王家関連情報の確認を目的とすると記載しています」
クラウスが苦い顔をした。
「一文に詰めすぎだな」
ミリアが頷く。
「安全、反応、戦時記録、旧王家情報。全部を同じ馬車に乗せているわ」
カイが眉を寄せる。
「同じ箱どころか、同じ馬車?」
ミリアは小さく微笑んだ。
「ええ。しかも行き先を王宮が決めようとしている」
エリアナが低く言った。
「連れて行かれる感じがします」
その言葉に、学園長がすぐに頷く。
「それが問題だ」
彼は王宮文書を閉じた。
「王宮主導案は却下する」
カイがまた小さく息を吐いた。
今度は誰も止めなかった。
学園長は続ける。
「王宮が資料を出すことと、王宮が道を決めることは違う。封印管理室の技術情報が必要になる可能性はある。軍務局の戦時記録も必要だ。監察局補助室の閲覧履歴も必要だ。だが、それらを理由に、生徒三名を現地へ運ぶ主導権を王宮へ渡す理由はない」
リゼの瞳が静かに揺れた。
エリアナも、少しだけ息を吐いた。
アルトの左手首の熱がわずかに下がる。
「痛みなし。熱少し。声なし。王宮主導却下で少し安心しました」
エレオノーラが記録する。
学園長はユリウスへ視線を向けた。
「学園案を」
「はい」
ユリウスは別の書類を開いた。
王宮文書とは違う紙。
学園側で作られた現地確認計画案。
表題には、こう記されている。
鳴らさぬ谷/白鐘北礼拝堂跡 現地確認計画案。
括弧内に、小さく併記されている。
王国軍名:北西第三補給枝道。戦功記録名:灰銀突破点。
エリアナがその順番を見て、少しだけ目を伏せた。
「旧名が先」
ミリアが頷く。
「ええ」
リゼも静かに言った。
「適切です」
ユリウスは読み上げる。
「本計画は、王立学園主導の現地確認であり、王宮主導の調査ではない。目的は四つ。第一、灰色封箱の接収元および搬出記録の現地照合。第二、鳴らさぬ谷および白鐘北礼拝堂跡周辺の旧地名・儀礼痕跡確認。第三、個人記録類小型封箱、白布、紙束、儀礼注記の元情報確認。第四、アルト君の銀環反応、エリアナさんの伝承記憶、リゼの戦時記憶を、いずれも補助情報として扱い、主根拠にしない形で安全確認する」
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
補助情報。
その言葉は、少し落ち着く。
自分の反応が、地図の答えではない。
エリアナの記憶が、王宮の白鐘資料ではない。
リゼの戦時記憶が、責任判定ではない。
それぞれが情報であり、判決ではない。
ユリウスは続けた。
「参加者候補。学園長または代理責任者、ユリウス・エインズワース、エレオノーラ・ヴィンスフェルト、ロウ教師、クラウス・ヴァイゼル。本人意思確認のうえ、リゼ・グレイス、アルト・レインフォード、エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。補助同行候補、ミリア・ファルネーゼ、カイ・ロックハート」
カイが自分の名前で少し背筋を伸ばした。
「本当に入ってる」
ミリアが微笑む。
「昨日、候補に入れると言われたでしょう」
「言われたけど、書類になると重いですね」
ロウ教師が言う。
「書類にすると責任が生まれる。だから大事だ」
カイは真剣に頷いた。
「はい」
学園長が三人を見る。
「ここで本人意思を確認する。前回、行きたい意思は聞いた。だが、計画文書化前にもう一度確認する。取り消してもよい。条件を追加してもよい」
最初に、リゼが顔を上げた。
灰銀の髪が、窓からの光を受けて淡く光る。
「私は、同行を希望します」
声は静かだ。
「理由は、鳴らさぬ谷および白鐘北礼拝堂跡を、北西第三補給枝道および灰銀突破点としてではなく確認するためです。灰色封箱、白布携行未成年者、個人記録類小型封箱の現地情報を確認したいです」
彼女は一度、息を吸った。
「条件。王宮の剣として行きません。灰銀の戦乙女として行きません。リゼ・グレイスとして、王立学園の現地確認に参加します。戦時記憶を責任判定に使わないこと。私が戦場反応を示した場合、状態確認と停止を認めること。一人で行動しないこと」
エレオノーラが丁寧に記録する。
学園長は頷いた。
「確認した」
次に、アルトが手首を押さえた。
白鐘北礼拝堂跡。
鳴らさぬ谷。
扉へ来るな。
鐘を鳴らすな。
友達を近づけるな。
その声は今は聞こえない。
でも、思い出すだけで胸が少し重い。
「僕も、同行を希望します」
アルトは言った。
「怖いです。銀環が反応すると思います。声が出るかもしれません。でも、僕の銀環のことを、僕のいないところだけで決められたくありません」
ミリアが静かに頷いている。
アルトは続ける。
「条件。僕の銀環を現地の鍵にしないでください。反応誘発をしないでください。白鐘の言葉や扉に関する言葉を、試すために使わないでください。反応したら、痛み、熱、声、感情、現在地を報告します。中止したい時は中止したいと言います」
ユリウスが頷く。
「記録した」
アルトは少しだけ迷って、付け加えた。
「それから、友達を近づけるな、という声を思い出す可能性があります。でも、それを理由にミリアさんやカイさんを遠ざけたくありません」
カイの顔が少し引き締まった。
ミリアは柔らかく頷く。
「受け取ったわ」
エレオノーラが記録する。
最後に、エリアナが口を開いた。
「私は、同行を希望します」
その声は、前よりも少しだけ低かった。
「ただし、帰るためではありません」
部屋が静かになる。
「私は、鳴らさぬ谷を知りませんでした。白鐘北礼拝堂跡も、母の話の中でしか知りません。旧ヴェルグラントの者だからといって、すべてを知っているわけではありません」
彼女は自分の手を見る。
「それでも、そこに母の言葉や、誰かの手帳や、白布の子どもの痕跡があるかもしれないなら、私のいないところで決められたくありません」
ミリアが静かに見守る。
エリアナは続けた。
「条件。私を保護観察対象として連れて行かないこと。私の記憶を白鐘情報だけとして扱わないこと。母の手帳と断定しないこと。ただし、母のものかもしれない可能性を消さないこと。現地で私的記憶を話すかどうかは、私が決めます」
エレオノーラのペンが走る。
リゼが静かに言った。
「本人意思、確認しました」
エリアナはリゼを見る。
「はい。本人意思です」
学園長は三人の言葉を聞き終え、深く頷いた。
「よい。計画案にそのまま入れる。柔らかくしすぎるな」
ユリウスが答える。
「はい」
カイが少し手を上げた。
「俺も、いいですか」
学園長が見る。
「言え」
カイは一瞬緊張した顔をしたが、すぐに背筋を伸ばした。
「俺も同行を希望します。理由は、三人が行くなら近くにいたいからです。あと、飯と、休憩と、変な言葉を確認する係が必要だと思います」
学園長は黙って聞いている。
カイは続けた。
「俺は戦時記録とか封印術式とか詳しくないです。でも、難しい言葉でごまかしてる時は、たぶんわかります。あと、突撃しないようにします」
ロウ教師が少しだけ目を細めた。
「最後が重要だな」
「はい。そこはかなり重要です」
カイは真剣に頷いた。
「現地で腹が減ってる時に重い話をすると、たぶんみんな変になります。だから保存食を持っていきます」
エリアナがほんの少しだけ目元を緩めた。
「それは、重要です」
「はい」
学園長は頷いた。
「同行候補として認める。ただし、現地で走るな」
「はい」
「声」
「はい」
カイは小さく言い直した。
ミリアも続けた。
「私も同行を希望します。理由は、対人調整、状態確認、本人意思の再確認、王宮側や現地関係者との言葉の整理です」
彼女は三人を順に見る。
「リゼさん、アルトさん、エリアナさんは、自分の負荷を後回しにする傾向があります。止める役が必要です。カイ君だけでは止められない場面もあると思います」
カイが少しだけ不満そうな顔をしたが、すぐ頷いた。
「それはそうです」
リゼが真面目に言う。
「ミリアさんの同行は、安全上有効です」
エリアナも頷く。
「私も、いてほしいです」
アルトも言った。
「僕もです」
ミリアは少しだけ表情を緩めた。
「受け取りました」
学園長は二人の名も計画に入れるよう指示した。
ユリウスが計画書へ書き込んでいく。
リゼ。
アルト。
エリアナ。
ミリア。
カイ。
名前が一つずつ、正式な紙に載っていく。
王宮の同行候補ではなく、本人意思を確認した参加候補として。
アルトはその違いに、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
学園長は次に、禁止事項を確認した。
「現地での単独行動禁止。白鐘遺構への無断接近禁止。地下構造物、扉、封印文字、鐘、白布、香草、灯皿を発見した場合、即時報告。アルトの銀環反応を主根拠にしない。エリアナの伝承記憶を王宮提出資料にしない。リゼの戦時記憶を責任判定に使わない。王宮側資料は必要範囲で参照するが、王宮監察局補助室の同行は認めない」
クラウスが補足する。
「封印管理室から技術官を一名借りる可能性はあります。ただし、こちらで人物を選ぶべきです」
学園長が頷く。
「候補名は」
クラウスは王宮側から届いた別紙を取り出した。
「封印管理室から三名の派遣候補が提示されています。一人目、メルヴィン・ラクト。封印文字解析。二人目、サイラス・オード。現地封印安全管理。三人目、ノエ・ファルカ。旧式封印具取り扱い」
アルトの左手首が、三人目の名で少し熱を持った。
痛みはない。
声なし。
「痛みなし。熱少し上昇。声なし。“ノエ・ファルカ”で反応しました」
全員の視線がアルトへ向く。
アルト自身も驚いた。
「理由はわかりません。名前で反応したと思います」
リゼが確認する。
「怖い反応ですか」
「いいえ。怖さは少し。熱だけです」
クラウスは候補表を見た。
「ノエ・ファルカ……若い技術官だ。旧式封印具の扱いに長けている。王宮内では目立つ方ではない」
ミリアが言う。
「反応を採用理由にはしない」
リゼが頷く。
「はい。銀環反応は参考情報です」
学園長は候補表を閉じた。
「三名とも調べる。王宮提示のまま選ばない。必要なら、封印管理室へ別候補を求める」
エレオノーラが記録する。
アルトは少し落ち着いた。
自分の反応で誰かが選ばれるわけではない。
それだけで、銀環の熱が少し下がる。
ユリウスは最後の書類を開いた。
「王宮監察局補助室、オルド・ハイマン上席監察官からの別紙があります」
部屋の空気が再び固くなる。
カイの手が膝の上で強く握られた。
エリアナの目も鋭くなる。
リゼは静かに状態を言った。
「身体異常なし。感情、警戒。継続可能です」
アルトも言う。
「痛みなし。熱少し。声なし」
ユリウスは別紙を読み上げた。
「現地確認に際し、王宮監察局補助室として安全管理および資料照合に協力可能。特に灰色封箱、受領印削損、監察局補助室照会印に関して、現地での即時照合が有益と考える。必要に応じ、私オルド・ハイマンの同行も可能である」
カイが低く言った。
「来る気じゃん」
ロウ教師がすぐに見る。
カイは言い直す。
「同行を希望している、です」
学園長は別紙を受け取り、一読した。
それから、机に置いた。
「却下」
今度は、さらに早かった。
ミリアが静かに微笑む。
エリアナはほんの少し息を吐く。
リゼも目を伏せずに頷いた。
学園長は言った。
「監察局補助室は、今回の照合対象だ。削られた閲覧印、照会印、受領印の線上にいる部署が、現地で安全管理の主導を取ることは認めない」
ユリウスが記録する。
学園長は続ける。
「資料提出は求める。質問への回答も求める。だが、現地同行は不要。必要が生じた場合でも、学園側が個別に呼ぶ。向こうから来る形は認めない」
エリアナが静かに言った。
「ありがとうございます」
学園長は短く頷く。
「礼は不要だ。これは学園の責任だ」
リゼが言った。
「オルド・ハイマン上席監察官の同行がないことを確認しました」
「確認した」
学園長が答える。
アルトも左手首に触れた。
「痛みなし。熱少し。声なし。安心しました」
エレオノーラが記録する。
クラウスは資料をまとめながら言った。
「とはいえ、王宮側がまったく関与しないわけではありません。提出資料の中に、現地判断へ影響する情報が混じる可能性がある」
ミリアが頷く。
「資料も人と同じで、主導権を持つことがあるわね」
カイが眉を寄せる。
「紙が主導権?」
ユリウスが説明する。
「王宮が“危険”と書いた地図を渡せば、こちらの見方がその言葉に引っ張られる。王宮が“封印対象”と分類すれば、現地のものを最初から危険物として見ることになる」
カイは真剣に頷いた。
「じゃあ、変な言葉確認係、やっぱ必要ですね」
「必要だ」
ユリウスは即答した。
カイは少し驚いた顔をした。
「そんなにはっきり」
「君は便利な言葉に引っかかる。だから役に立つ」
「褒めてますか?」
「褒めている」
ミリアが笑った。
エリアナも、ほんの少しだけ目元を緩める。
学園長は計画書の最後の一枚を開いた。
「行程だ」
その言葉で、再び空気が切り替わる。
「王都から北西街道へ。途中、旧補給宿場跡近くの宿で一泊。翌朝、鳴らさぬ谷入口へ向かう。白鐘北礼拝堂跡へ入るかどうかは、谷入口で状態確認のうえ判断する。地下構造物への接近は、別途確認。今回は開封を目的としない」
アルトは左手首に触れた。
白鐘北礼拝堂跡。
地下。
扉。
その単語に銀環が少し熱を持つ。
痛みはない。
声もない。
「痛みなし。熱少し。声なし。地下構造物で反応しました」
リゼがすぐに言う。
「現在地」
「王立学園、学園長室」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「感情」
「怖いです。でも、まだ聞けます」
エリアナが静かに続けた。
「扉へ近づくかどうかは、現地で本人意思を確認してください」
学園長は頷いた。
「当然だ。扉があるから開ける、ではない。扉を見つけることと、開けることは別だ」
クラウスも言う。
「封印遺構では、見つけた時点で目的を達したと判断すべき場面もある。開けることが成果ではない」
アルトは少し息を吐いた。
開けることが成果ではない。
その言葉は、少し安心できた。
学園長は計画書を閉じた。
「出発は三日後。明日は準備。明後日は休養と最終確認。各自、持参物と拒否条件を整理しておけ」
カイが小さく言う。
「拒否条件も荷物みたいに持っていくんですね」
ミリアが頷く。
「大事な荷物よ」
リゼが真面目に言った。
「必携です」
カイは少し笑った。
「じゃあ忘れないようにします」
学園長は全員を見渡した。
「もう一つ」
その声で、室内が静かになる。
学園長は王宮側資料の最後の紙を手に取った。
「王宮から届いた現地資料の末尾に、旧王国軍戦功資料の引用がある」
リゼの指が止まる。
アルトの左手首が熱を持つ。
エリアナも地図を見る。
学園長は読み上げた。
「灰銀の戦乙女、白鐘北礼拝堂跡を突破点として確保」
誰も、すぐには言葉を出さなかった。
白鐘北礼拝堂跡。
突破点。
その二つが同じ文に並んでいる。
リゼはゆっくり息を吸った。
「私は」
声は静かだった。
「その名を知りませんでした」
灰銀の戦乙女。
白鐘北礼拝堂跡。
突破点。
彼女は突破した。
そう記録されている。
でも、何を突破したのかを知らなかった。
敵陣か。
補給線か。
祈りの入口か。
白布で覆われるはずだった境界か。
エリアナが机の上の地図を見つめる。
「私も、その場所を知りませんでした」
リゼがエリアナを見る。
エリアナは続ける。
「旧ヴェルグラントの者だからといって、すべてを知っているわけではありません。でも、その場所が私の故国の祈りに関わるなら、知らないままにされたことも、怒りです」
リゼは頷く。
「はい」
「あなたが知らなかったことも、記録してください」
「はい」
リゼは記録帳を開いた。
灰銀の戦乙女、白鐘北礼拝堂跡を突破点として確保。
私は、その名を知りませんでした。
その二文を、並べて書く。
アルトはそれを見て、胸が少し痛くなった。
英雄譚の文章と、本人の記録。
同じ紙の上に並ぶと、英雄譚の方が少し冷たく見える。
ロウ教師が低く言った。
「よく書いた」
リゼは頷いた。
「はい」
学園長は書類をまとめた。
「本日の確認はここまでだ。王宮主導案への回答は、学園主導で再構成する旨を明記して返す。監察局補助室の同行は拒否。封印管理室技術官候補は再調査。各自、明日の準備に備えろ」
全員が頷いた。
学園長室を出ると、廊下には夕方の光が差していた。
窓の外で、いつもの青い布が揺れている。
鐘は鳴らない。
遠くから生徒たちの声が届く。
まだ学園にいる。
まだ王都にいる。
まだ鳴らさぬ谷へは向かっていない。
だが、道はもう地図の上に引かれている。
カイが布包みを取り出した。
ミリアが尋ねる。
「名前は?」
カイは今日も少し悩んだ。
王宮主導却下。
本人意思確認。
同行候補ではなく、自分で行くこと。
白鐘北礼拝堂跡を知らなかったリゼ。
しばらく考えてから、彼は言った。
「連れて行かれるんじゃなくて、自分で行く用」
エリアナがその言葉を聞いて、静かに頷いた。
「はい。今日は、それがよいです」
リゼも頷く。
「適切です」
アルトも言った。
「僕も、それがいいです」
カイは少しほっとして布包みを開いた。
小さな焼き菓子と、香草パンの欠け。
アルトは成分を読み上げた。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
五人は廊下の窓辺で、少しずつ食べた。
香草パンは硬い。
けれど、噛めばまだ香りが戻る。
甘く、苦く、遠くから近づいてくる香り。
エリアナはそれをゆっくり噛んで、静かに言った。
「三日後、行くのですね」
リゼが頷く。
「はい」
「私は、怖いです」
「はい」
「でも、連れて行かれるのではありません」
「はい。本人意思です」
アルトも左手首に触れた。
「痛みなし。熱少し。声なし。僕も、怖いです。でも、自分で行きます」
ミリアが頷く。
「確認したわ」
カイが焼き菓子を持ったまま言う。
「俺も行く。飯と変な言葉と突撃しない係で」
リゼが真面目に答える。
「重要です」
エリアナが少しだけ目元を緩めた。
「とても重要です」
カイは照れたように笑う。
その小さな笑いが廊下に届く。
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
王宮の文書は、彼らを同行候補と呼んだ。
学園の記録は、本人意思を確認した。
その違いは、小さいようで大きい。
地図の上の線は同じでも、歩く理由が違えば、道の意味は変わる。
リゼは廊下の窓から外を見ていた。
夕方の光が灰銀の髪に触れている。
「私は」
彼女は静かに言った。
「灰銀突破点へ行くのではありません」
エリアナが続ける。
「鳴らさぬ谷へ」
アルトも言った。
「白鐘北礼拝堂跡へ」
ミリアが微笑む。
「生徒として」
カイが焼き菓子を掲げるようにして言った。
「自分で行く」
リゼは一度、全員を見た。
そして、静かに頷いた。
「はい。自分で行きます」




