第8章 第13話:灰銀への質問
学園長室の椅子は、前より少し遠く置かれていた。
机の向こう側に学園長。
その右にユリウス・エインズワース。
左にエレオノーラ・ヴィンスフェルト。
窓際にはロウ教師が立ち、壁側にはクラウス・ヴァイゼルが控えている。
そして机を挟んだ反対側、扉に近い席に、オルド・ハイマンは座っていた。
背筋はまっすぐ。
制服に乱れはなく、灰色がかった茶の髪も整えられている。声を荒げるような人ではない。表情も穏やかだ。
丁寧。
正確。
相手に不快感を与えないよう訓練された態度。
だからこそ、アルト・レインフォードの左手首は、面談が始まる前から少し熱かった。
「痛みなし。熱少し。声なし。現在地、学園長室」
アルトが小さく確認すると、隣に座るリゼ・グレイスが頷いた。
「確認しました」
リゼはアルトの左隣に座っている。
灰銀の髪は整えられ、制服の襟も正しい。剣は持っていない。机の上には記録帳も置いていない。
今日は、彼女が記録係ではないからだ。
答える側。
それも、灰銀一七として。
いや、違う。
リゼ・グレイスとして。
その訂正を、今日何度も必要とするかもしれない。
アルトは、自分の左手首に触れたまま、リゼの横顔を見た。
彼女は静かだった。
静かすぎるほどに。
その静けさが、戦場の静けさではないことを確認するために、アルトはもう一度聞いた。
「リゼさん」
「はい」
「名前は」
「リゼ・グレイス」
「今は」
「王立学園の生徒です」
リゼの声は、はっきりしていた。
反対側、アルトの右にはエリアナ・ルクス・ヴェルグラントが座っている。
淡い亜麻色の髪を低く結び、薄紫の瞳はオルドをまっすぐ見ていた。
彼女の表情は硬い。
怒りを隠してはいない。
だが、怒りだけで相手を決めるつもりもない。
昨日の準備で、彼女は何度も言った。
王宮全体を同じ箱に入れない。
ハイマンという名だけで決めない。
でも、怒りは消さない。
その言葉は、今も彼女の背筋を支えているようだった。
ミリア・ファルネーゼとカイ・ロックハートは、学園長室の後方にいる。
面談同席者ではなく、補助席。
発言権は原則ない。
ただし、本人状態に異常が出た場合、学園側補助として停止申請ができる。
カイは椅子の上で背筋を伸ばし、両手を膝に置いていた。
突撃しない姿勢。
ミリアはその隣で、室内の温度を見ている。
学園長が口を開いた。
「面談を始める前に条件を確認する」
低い声が、部屋に落ちる。
「場所は王立学園。記録は学園側が行う。質問範囲は事前申請に基づく。本人同意なしの範囲拡大は認めない。銀環反応、伝承知識、戦時識別符号を用いた同時確認、反応誘発、実験的質問は禁止。途中停止権は、本人および学園側にある」
オルドは微笑に近い表情で頷いた。
「承知しております。学園側のご配慮に感謝いたします」
声は柔らかい。
だが、アルトの左手首はわずかに熱を持つ。
感謝。
配慮。
丁寧な言葉。
それが悪いわけではない。
でも、その言葉の中に何が包まれているか、今日は見なければならない。
学園長は続けた。
「呼称についても確認する。ここにいる三名は、それぞれリゼ・グレイス、アルト・レインフォード、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントだ。戦時称号、保護対象分類、銀環反応保持者等の分類名を主呼称として用いることは認めない」
オルドはまた頷く。
「もちろんです。皆さまを個人として尊重いたします」
その言葉に、エリアナの指がわずかに動いた。
ミリアが後方でそれを見ている。
エリアナは自分で小さく息を吸った。
「身体異常なし。感情、警戒。継続可能です」
エレオノーラが記録する。
オルドの視線がエリアナへ一瞬向いた。
だが、何も言わない。
学園長が目でユリウスへ合図する。
ユリウスは面談記録紙を開いた。
「では、面談開始。王宮監察局補助室、上席監察官オルド・ハイマン氏。質問をどうぞ」
オルドは手元の書類を整えた。
「まず、今回の面談に応じていただいたことに感謝いたします。白鐘関連事案、灰色封箱護送記録、ならびに戦後接収資料の所在確認については、王宮側としても慎重な確認が必要と考えております」
誰も口を挟まない。
オルドは続けた。
「最初に確認したいのは、灰色封箱護送記録に関するリゼ・グレイスさんの記憶です」
呼称は正しい。
リゼ・グレイスさん。
アルトは少しだけ息を吐いた。
だが、油断はできない。
オルドはリゼへ視線を向けた。
「灰色封箱護送記録において、外装確認補助として灰銀一七の識別符号が残っています。リゼ・グレイスさん、灰銀一七はあなたの戦時識別符号で間違いありませんか」
リゼは静かに答えた。
「はい。灰銀一七は、私の戦時識別符号です」
エレオノーラのペンが走る。
オルドは頷いた。
「ありがとうございます。では、あなたは当該任務において、灰色封箱五点の外装封印確認に関わった」
「記録上、その通りです」
「記憶としても一致しますか」
リゼは一度、息を吸った。
「一部一致します」
「一部」
「はい。灰色の封印箱を確認した記憶があります。数は複数。外装封印の破損有無を確認しました。ただし、五点すべてを明確に個別記憶しているわけではありません」
オルドは穏やかに頷いた。
「正確なご回答に感謝します」
その丁寧さは、まだ問題ない。
リゼも崩れていない。
アルトの左手首は熱少し。
痛みなし。
声なし。
オルドは次の質問へ進んだ。
「当時、灰色封箱の中身について説明を受けていましたか」
「受けていません」
「封印関連資料、地方記録紙束、儀礼物品、個人記録類小型封箱が含まれていた可能性については」
「現在の照合で知りました。当時は知りませんでした」
エリアナの指が少し硬くなる。
オルドはそれを見たかもしれない。
しかし、視線はリゼから動かさない。
「知らなかった、ということですね」
その言い方に、部屋の空気が少し変わった。
知らなかった。
便利な言葉。
逃げ道にも、事実にもなる。
リゼはすぐに答えなかった。
一呼吸置いた。
ロウ教師の視線が向いている。
アルトも、リゼを見る。
リゼは言った。
「はい。私は中身を知りませんでした。ただし、知らなかったことだけで終わらせません。私は箱を確認し、護送に関わりました。現在、その中身と到着後の扱いを知りたいと考えています」
エリアナの肩が、ほんの少しだけ緩んだ。
オルドの表情は変わらない。
「なるほど。責任から逃れる意図ではない、と」
リゼの瞳がわずかに鋭くなった。
ミリアの視線も動く。
リゼは静かに言った。
「責任を確定する前に、事実を確認する意図です」
ユリウスが少しだけ頷いた。
エレオノーラが記録する。
オルドは口元に薄い笑みを保ったまま言った。
「失礼しました。では言い換えます。あなたは、外装確認補助としての関与を認めつつ、中身と到着後処理については未確認であるため、現時点で責任範囲を確定しない、という理解でよろしいですか」
「はい。その理解です」
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
リゼは戻っている。
戦場の報告ではなく、自分の言葉で答えている。
オルドは次の紙をめくった。
「次に、灰色封箱護送時の移送対象について。北西街道臨時保護集積所から王都南門管理口までの護送中、非戦闘員移送列、記録管理家族、白布を携行する未成年者を見た記憶があると学園側記録にあります」
エリアナの指が硬くなる。
リゼもほんの少し反応した。
オルドは続ける。
「この白布を携行する未成年者について、あなたは顔、名前、年齢を覚えていないとされています。これは現在も同じですか」
リゼは頷いた。
「はい。同じです」
「本当に、何も覚えていませんか」
カイの膝の上の手が動いた。
ミリアがそっと視線で止める。
オルドの声は穏やかだった。
だが、その質問は少し違った。
本当に。
何も。
リゼの中に、無理に記憶を掘らせる言葉。
リゼは静かに答えた。
「白布を抱えていたこと、荷車二台目の後方寄りにいた可能性、布端に蔦のような刺繍があった可能性は覚えています。顔、名前、年齢、性別、泣いていたかどうかは覚えていません」
オルドが言う。
「戦場記憶は断片化することがあります。灰銀の戦乙女ほどの方であれば、視覚記憶は非常に優れていたと聞いておりますが」
リゼの指が、膝の上で一瞬止まった。
灰銀の戦乙女。
条件に反する主呼称ではない。
だが、称号を使って彼女の記憶能力を引き上げようとしている。
リゼを戦場へ戻し、もっと思い出せるはずだと言わせる言葉。
アルトが口を開く前に、リゼが言った。
「訂正します」
声は静かだった。
「現在、私はリゼ・グレイスとして回答しています。灰銀の戦乙女という称号による能力推定は、現在の記憶確認の根拠にしません」
学園長が頷く。
オルドはすぐに軽く頭を下げた。
「失礼しました。表現を改めます」
リゼは続ける。
「私は、覚えていることと覚えていないことを分けて回答します。覚えていない内容を、能力推定によって補完しません」
エリアナが静かにリゼを見た。
薄紫の瞳に、強い感情が揺れる。
覚えていないことを、覚えているふりはしない。
リゼはそれを守っている。
オルドはペンを置いた。
「理解しました。では、白布を携行する未成年者については、現時点で個人特定不能ということで」
エリアナが小さく息を吸った。
個人特定不能。
また、便利な言葉だ。
ユリウスが口を開く。
「学園側記録では、“個人特定不能”に加え、“白布携行未成年者として追跡確認対象”としています。単なる不明ではなく、確認継続対象です」
オルドは頷いた。
「承知しました」
エリアナが静かに言った。
「消さないでください」
全員が彼女を見る。
エリアナはオルドを見ていた。
「白布を持つ子どもを、“個人特定不能”だけで処理しないでください。名前がわからないことと、探さないことは違います」
オルドは柔らかく頷いた。
「ご意見、承りました」
ミリアの目が少し細くなる。
承りました。
それだけで終わりそうな言葉。
エリアナはすぐに言った。
「意見ではなく、扱いの確認です」
室内が静かになる。
カイがわずかに目を見開いた。
リゼも、アルトも、エリアナを見る。
彼女は続けた。
「私は、白布を持つ子どもを“個人特定不能”だけで処理しないことを求めています。感情としての意見ではなく、記録上の扱いです」
エレオノーラのペンが走る。
オルドは一拍置いて、改めて頷いた。
「失礼しました。記録上の扱いとして確認します。白布携行未成年者は、個人特定不能ではあるが、追跡確認対象とする」
エリアナは頷いた。
「はい」
アルトの胸が少し温かくなった。
エリアナも、丁寧な言葉に包まれず、言い直せた。
オルドは次にアルトへ視線を向けた。
「アルト・レインフォードさん」
アルトの左手首が少し熱くなる。
「はい」
「この白布、白鐘紙工房、封信蔦、灰色封箱に関する確認中、あなたの銀環が反応していると記録されています。現時点で、灰色封箱および白布携行未成年者に関する反応は、危険反応と認識していますか」
危険反応。
その言葉に、アルトは左手首を押さえた。
痛みは少し。
熱中。
声はない。
リゼが即座に見る。
「中止しますか」
アルトは首を横に振った。
「答えます」
彼はオルドを見た。
「危険反応とは決めていません」
声は少し震えたが、出た。
「僕の銀環は、白鐘、封信蔦、灰色封箱、手帳、白布などで反応しています。でも、それは危険だという判決ではありません。情報です」
オルドは静かに聞いている。
アルトは続けた。
「怖い反応もあります。痛みが出ることもあります。でも、エリアナさんの知識や、リゼさんの記憶や、白布の子どもが危険だという意味ではありません」
ミリアが後方で小さく頷いた。
学園長も口を挟まない。
アルトは最後に言った。
「僕の反応を、誰かを危険にするために使わないでください」
エレオノーラが記録する。
オルドは穏やかに頷いた。
「理解しました。反応は情報であり、判決ではない。学園側の方針ですね」
アルトはすぐに言った。
「学園側の方針でもあります。僕の意思でもあります」
その言葉に、リゼが静かに頷いた。
エリアナも。
オルドの表情は変わらない。
だが、ほんの一瞬だけ、目の奥が動いたようにアルトには見えた。
オルドは次にエリアナへ向いた。
「エリアナ・ルクス・ヴェルグラントさん。あなたの母方伝承に、白鐘布覆儀礼、香草、灯皿、白布、記録管理家族に関する記憶があると学園側記録にあります」
エリアナの指が硬くなる。
「あります。ただし、私的記憶の詳細をすべて話すことは拒否します」
「承知しています。本日は、母上の手帳と思われる資料について」
「訂正します」
エリアナの声が、はっきり部屋に響いた。
オルドが止まる。
エリアナは言った。
「母の手帳と思われる資料、とは現時点で言えません。個人手帳類三点です。その中に母のものが含まれる可能性があります」
オルドはすぐに頭を下げた。
「失礼しました。個人手帳類三点。その中に、あなたの母上の手帳が含まれる可能性がある、という表現に改めます」
「はい」
エリアナは頷いた。
「可能性は消さないでください。でも、断定もしないでください」
「承知しました」
ミリアの表情がわずかに緩む。
エリアナは続けて言った。
「それから、母の言葉を白鐘情報だけとして扱わないでください」
オルドは静かに視線を向ける。
「白鐘情報だけではない、と」
「はい。母の言葉は、故国の記憶であり、家族の記憶であり、私の個人記憶です。白鐘事案の資料になる可能性はあります。でも、それだけではありません」
オルドは少しだけ手元の紙を見た。
「理解しました」
エリアナは彼の目を見る。
「記録してください」
エレオノーラがすぐに言った。
「学園側記録に残しています」
エリアナは頷いた。
「ありがとうございます」
オルドは姿勢を変えず、次の質問へ進む。
「では、灰色封箱内の個人記録類小型封箱について、あなたは内容閲覧を希望しますか」
エリアナの表情が変わった。
質問としては正しい。
だが、重い。
母の手帳かもしれないもの。
誰かの手帳三冊。
所在未確認。
見たい。
怖い。
勝手に開けられたくない。
でも、自分だけで開けるのも怖い。
エリアナは少し時間をかけて答えた。
「所在確認を希望します」
「内容閲覧は」
「現時点では、閲覧前に条件を確認します」
オルドが少し首を傾げる。
「条件とは」
「本人関係者確認。学園側立会い。個人記録としての尊重。白鐘反応確認や王家血統調査の材料として先に読まないこと。母のものと断定しないこと。母のものでなかった場合、その誰かの手帳として扱うこと」
部屋が静かになる。
長い条件。
だが、エリアナは途中で止まらなかった。
オルドは頷いた。
「慎重な条件です」
エリアナは静かに返す。
「慎重でなければ、また消えます」
オルドは一瞬、言葉を失ったように見えた。
だが、すぐに表情を戻した。
「理解しました」
ロウ教師が低く言う。
「理解したなら、言い換えろ」
オルドがロウを見る。
ロウ教師は腕を組んだまま続けた。
「王宮の理解しましたは、便利すぎる。何を理解したか言え」
少しだけ空気が張る。
オルドは、しかし怒らなかった。
むしろ、礼儀正しく頷いた。
「失礼しました。エリアナ・ルクス・ヴェルグラントさんは、個人記録類小型封箱内の個人手帳類三点について、現所在確認を希望する。ただし内容閲覧については、本人関係者確認、学園側立会い、個人記録としての尊重、白鐘反応確認や血統調査目的の先行閲覧を避けること、母上のものと断定しないこと、母上のものでなかった場合も別の個人記録として扱うことを条件とする」
エリアナは少しだけ息を吐いた。
「はい」
ロウ教師は頷いた。
「よし」
カイが後方で小さく口を開けていた。
たぶん、ロウ教師が王宮監察官に「言い換えろ」と言ったことに驚いているのだろう。
ミリアは静かに微笑んでいる。
オルドは、今度はリゼへ戻った。
「リゼ・グレイスさん。あなたにもう一点、確認したいことがあります」
リゼは頷く。
「はい」
「灰色封箱護送記録では、王都南門管理口で外装確認異常なしとされています。最終確認印には、あなたの戦時識別符号が補助印として残っています」
アルトの左手首が熱を持つ。
痛みはない。
声なし。
この質問は、第14話へ繋がるものだ。
だが、ここでオルドはまだ資料を出していない。
言葉だけだ。
「あなたが確認した時点で、箱は無事に王都へ到着していた。そう理解してよろしいですか」
リゼは答えた。
「外装上は、はい」
「外装上」
「はい。私は中身を確認していません。外装封印と箱数、破損の有無を確認しました」
オルドは頷く。
「では、中身が所在未確認となった場合、あなたの確認後、王都側の処理で問題が生じた可能性が高い」
その言葉に、エリアナが少し顔を上げた。
リゼの表情も変わる。
オルドは続ける。
「一方で、あなたの確認印は、王都側が“無事に受領した”根拠として使用されている可能性もあります」
リゼの指が止まった。
アルトの左手首が少し熱くなる。
痛みなし。
声なし。
オルドの声は丁寧だ。
「つまり、あなたの確認印は、資料の所在を辿る上で非常に重要です。灰銀の戦乙女であれば、当時の状況をもう少し詳細に思い出せる可能性も」
「訂正します」
リゼの声が、二度目に部屋へ落ちた。
今度は少しだけ鋭かった。
「私は現在、リゼ・グレイスとして回答しています。灰銀の戦乙女という称号による記憶想起要求には応じません」
オルドは口を閉じた。
リゼは続けた。
「当時の状況について、覚えていることと覚えていないことを分けて回答します。思い出せる可能性という表現で、覚えていない内容を補完しません」
学園長が静かに言った。
「ハイマン上席監察官。二度目だ」
室内の空気が一瞬で冷える。
オルドは深く頭を下げた。
「失礼しました。以後、戦時称号による呼称および能力推定は避けます」
学園長は頷かない。
「避ける、では弱い。使うな」
オルドは一拍置いて言った。
「使用しません」
エレオノーラが記録する。
リゼの呼吸は少しだけ浅くなっていた。
アルトはすぐに言う。
「リゼさん」
「はい」
「現在地」
「王立学園、学園長室」
「名前」
「リゼ・グレイス」
「今は」
「王立学園の生徒です」
「全部持たないでください」
リゼは目を閉じず、アルトを見た。
「はい」
エリアナが静かに続けた。
「あなたの確認印が、私の母の手帳を消した証拠ではありません」
リゼの瞳が揺れた。
エリアナは言った。
「まだ、確認です」
リゼは深く頷いた。
「はい。まだ、確認です」
オルドはそのやり取りを黙って見ていた。
表情は変わらない。
だが、少しだけ、何かを測るような目をしていた。
それに気づいたミリアが、静かに口を開いた。
「ハイマン上席監察官」
「はい」
「今のやり取りは、反応確認の材料ではありません」
オルドがミリアを見る。
ミリアは微笑んでいる。
だが、その声は柔らかいだけではない。
「生徒同士の状態確認です。面談記録へは必要範囲で残しますが、王宮側の相互反応資料として扱わないようお願いします」
オルドは少しだけ目を細めた。
「承知しました」
ロウ教師が言う。
「言い換えろ」
オルドはすぐに言った。
「今のやり取りは、生徒同士の状態確認であり、王宮監察局補助室の反応資料としては扱いません」
ミリアは頷いた。
「ありがとうございます」
カイが後ろで小さく息を吐いた。
突撃しなかった。
かなり頑張っている。
ユリウスが面談紙を確認した。
「予定質問の第一群は以上です。第二群、接収資料庫の閲覧履歴に関する質問へ進む前に、本人状態確認を行います」
学園長が頷く。
「行え」
まず、リゼ。
「身体異常なし。感情、警戒、負荷あり。戦時称号使用に反応あり。継続可能ですが、追加の称号使用があれば中止を申請します」
次に、アルト。
「痛みなし。熱少し。声なし。怖さあり。でも、継続できます」
そして、エリアナ。
「身体異常なし。疲労あり。怒り、不快、緊張。継続可能です。ただし、母の手帳に関する断定表現が出た場合、訂正します」
エレオノーラが記録する。
ユリウスがオルドへ向く。
「では、第二群へ進みます。ただし、時間は残り十分です」
オルドは頷いた。
「承知しました。では、接収資料庫の閲覧履歴について、一点のみ」
空気が再び張る。
オルドは手元の薄い資料を開いた。
「学園側から照会のあった閲覧印の削損について、監察局補助室内でも確認を進めています。現時点で、当該時期の閲覧者名に“ハイマン”家の関係者が含まれていた可能性は否定できません」
エリアナの指が硬くなる。
アルトの左手首も熱を持つ。
オルドは続けた。
「ただし、私本人の任官前であり、私自身の閲覧ではありません」
それは、学園側の推定と一致する。
リゼが静かに見ている。
オルドはさらに言った。
「次回、必要であれば、該当する旧在籍者名簿の一部を持参します」
ユリウスがすぐに確認した。
「一部、とは」
「個人情報保護および王宮内規に関わるため、氏名全開示は難しい場合があります」
エリアナが静かに言った。
「名前を消した記録を確認するために、また名前を隠すのですか」
鋭い。
だが、正しい。
オルドは少しだけ沈黙した。
「ご懸念は理解します」
ロウ教師が口を開きかけたが、その前にエリアナが言った。
「何を理解したか、言ってください」
カイが後ろで小さく息を飲んだ。
エリアナは続ける。
「私は、閲覧者名が削られていることを問題にしています。その確認のために氏名が伏せられるなら、同じことが繰り返されます。全開示が難しい事情があるなら、伏せる範囲と理由を明記してください」
オルドは、今度はすぐに頷いた。
「理解しました。閲覧者名削損の確認において、氏名伏せが新たな不信を生むというご指摘です。開示範囲を制限する場合は、その理由、伏せる範囲、代替確認手段を明記します」
エリアナは頷いた。
「はい」
アルトは少しだけ胸が温かくなった。
エリアナは、怒りを届かせている。
逸れていない。
封信蔦とは逆だ。
ユリウスが時計を見た。
「時間です」
学園長が頷く。
「本日の面談はここまでとする」
オルドは異議を唱えなかった。
「承知しました。本日はありがとうございました」
学園長は淡々と言った。
「次回面談の可否は、こちらで検討する。今日の記録を本人確認した後、王宮へ要約を送る。全文共有はしない」
「承知しました」
オルドは立ち上がり、丁寧に礼をした。
退出前、彼は一度だけリゼを見た。
「リゼ・グレイスさん」
呼称は正しかった。
「本日のご回答に感謝します」
リゼは静かに答えた。
「記録に残してください。私は、リゼ・グレイスとして回答しました」
オルドは頷いた。
「そのように扱います」
ロウ教師が低く言った。
「言い換えろ」
オルドは少しだけ苦笑に近い表情を見せた。
初めて、丁寧さの向こうに人間らしい疲れが見えた気がした。
「本日の回答者は、灰銀の戦乙女ではなく、リゼ・グレイスさんとして記録します」
リゼは頷いた。
「はい」
オルドは退出した。
扉が閉まる。
その音で、学園長室の空気が一気に緩んだわけではない。
むしろ、全員が一度、自分の身体を確認する必要があった。
ユリウスが言う。
「状態確認」
リゼ。
「身体異常なし。疲労あり。戦時称号使用による負荷あり。現在地保持。中止せず終了しました」
アルト。
「痛みなし。熱少し。声なし。怖かったです。でも、言えました」
エリアナ。
「身体異常なし。疲労あり。怒り、不快、緊張。母の手帳という断定表現を訂正できました。閲覧者名の伏せについても、言えました」
ミリアが微笑む。
「全員、良好よ」
カイが椅子から少しだけ力を抜いた。
「突撃しませんでした」
リゼが真面目に頷いた。
「非常に良好です」
カイは少しだけ笑った。
「今のは、かなり頑張りました」
「はい」
学園長は資料をまとめながら言った。
「よく持ちこたえた。だが、今日の面談で終わったわけではない。向こうは次に、灰色封箱の最終確認印を出してくる可能性が高い」
リゼの表情が少し硬くなる。
アルトも左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
学園長はリゼを見る。
「今日は休め。次に備えるのは明日でいい」
リゼは頷いた。
「はい」
学園長室を出ると、廊下の光は夕方へ傾いていた。
青い布が窓の外で揺れている。
鐘は鳴らない。
遠くから、いつもの生徒たちの声が届く。
その普通の声に、アルトは少しだけ救われた。
カイが布包みを取り出す。
ミリアがいつものように尋ねた。
「名前は?」
カイは深く考えた。
今日は候補が多すぎる顔だった。
そして、真剣に言った。
「灰銀じゃなくてリゼとして答えた用」
リゼの瞳がわずかに揺れた。
エリアナが静かに頷く。
「はい。それがよいです」
アルトも言った。
「僕も、それがいいと思います」
リゼは少しだけ目を伏せた。
「受け取ります」
布包みの中には、小さな焼き菓子と香草パンの欠けが入っていた。
アルトは成分を読み上げる。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
廊下の窓辺で、五人は少しずつ食べた。
香草パンはもう硬い。
けれど、噛むとまだ香りが出る。
甘く、苦く、残る。
リゼは小さな欠けを見つめてから、口に入れた。
ゆっくり噛み、飲み込む。
「私は」
彼女は静かに言った。
「リゼ・グレイスとして答えました」
アルトは頷く。
「はい」
エリアナも言った。
「私は、そう聞きました」
リゼの瞳が揺れる。
「ありがとうございます」
「感謝されることではありません」
いつもの返答。
だが、エリアナは少しだけ続けた。
「でも、受け取ってください」
リゼは静かに頷いた。
「はい。受け取ります」
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
オルドの丁寧な言葉は、何度も箱の形を作ろうとした。
灰銀の戦乙女。
銀環反応。
伝承知識。
母の手帳。
個人特定不能。
理解しました。
承りました。
そのたびに、誰かが言い直した。
訂正します。
意見ではなく扱いの確認です。
何を理解したか、言ってください。
反応は情報であり、判決ではありません。
そして、リゼは二度、はっきり言った。
現在、私はリゼ・グレイスとして回答しています。
廊下の外で、青い布が揺れる。
鐘はまだ鳴らない。
けれど、今日の声は、封じられずに届いた。




