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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第8章 第11話:閲覧印の名


 削られた印は、名前を失いかけていた。


 王宮封印管理室から届いた閲覧台帳の高精度写し。


 その一部が、生徒会室の机の中央に置かれている。


 古い紙の表面に押された複数の印。


 封印管理室臨時閲覧印。


 王宮文書院整理印。


 監察局補助室照会印。


 その中の一つだけが、不自然に欠けていた。


 紙の端が擦り切れたわけではない。


 湿気でにじんだわけでもない。


 印の名前が入るはずの場所だけが、薄く削られている。


 完全には読めない。


 けれど、消し切れなかった線が残っていた。


 ハ。


 イ。


 そして、かすれた横線。


 エレオノーラ・ヴィンスフェルトが拡大写しを横に並べる。


「監察局補助室照会印。閲覧者名欄、意図的削損の可能性あり。残存文字、ハイ……またはハイム、ハイン、ハイマン系の読みが可能」


 ハイマン。


 その名が生徒会室の空気を冷やした。


 アルト・レインフォードは左手首に触れた。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声はない。


 だが、胸の奥が重い。


 オルド・ハイマン。


 第6章の学園祭後、リゼ・グレイスを灰銀の戦乙女として王宮の剣に戻そうとした王宮監察官。


 丁寧な言葉で、リゼを役割へ押し戻そうとした人。


 そして今、王宮戦後接収資料庫の閲覧印に、ハイマンかもしれない名が残っている。


 偶然かもしれない。


 同家の別人かもしれない。


 別の姓かもしれない。


 そもそも読み違いかもしれない。


 それでも、その名の残りは十分に不快だった。


「痛みなし。熱少し。声なし。ハイマンの可能性で反応しました」


 アルトが言うと、隣に座るリゼが頷いた。


「確認しました」


 リゼの声は静かだ。


 だが、灰銀の瞳は閲覧印の削れた部分をまっすぐ見ている。


 彼女もまた、その名に反応している。


 ただし、剣には触れていない。


 過去の王宮命令にも、戦場にも戻っていない。


 机の上には、閲覧台帳の写しのほかに、学園側が作成した比較表が置かれていた。


 削損前推定文字。


 監察局補助室在籍者名簿。


 ハイマン家の王宮監察局所属歴。


 オルド・ハイマン本人の任官時期。


 旧閲覧印の日付。


 今日の目的は、犯人を決めることではない。


 名前の残骸を、怒りの形にして投げつけることでもない。


 削られたものを、削られたまま正確に見ることだった。


 それが難しい。


 特に、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントにとっては。


 彼女は机の向こうで、閲覧印の拡大写しを見ていた。


 薄紫の瞳は鋭く、指先は膝の上で組まれている。


 顔色は白い。


 怒りを飲み込んでいるわけではない。


 怒りがあふれないよう、形を探している顔だった。


 ミリア・ファルネーゼが、エリアナの斜め横で静かに声をかける。


「状態は」


 エリアナは一度息を吸った。


「身体異常なし。感情、怒り。嫌悪。王宮への不信が強いです」


 エレオノーラが記録する。


 ミリアは頷く。


「続けられる?」


「はい。ただし、王宮全部を一つの箱に入れそうになっています」


 その正直な言葉に、室内が静かになる。


 ミリアは少しだけ目元を緩めた。


「言えたわ」


「はい」


 エリアナは続ける。


「今、王宮という言葉が、箱のように見えます。監察局補助室も、封印管理室も、軍務局も、全部まとめて嫌いになりそうです」


 カイ・ロックハートが低く言った。


「なっても仕方ないと思う」


 ロウ教師が窓際から言う。


「感じるのは仕方ない。判決にするな」


 カイは頷く。


「はい。判決にはしない」


 エリアナも小さく頷いた。


「はい。判決にはしません。ですが、怒っています」


 ミリアが言う。


「怒りは消さない」


 エリアナは頷く。


「消しません」


 リゼが静かに言った。


「疑いとして記録します。断定はしません」


 エリアナの視線がリゼへ向く。


 リゼは閲覧印を見たまま続けた。


「王宮全体を敵として扱いません。監察局補助室全体も、ハイマン家全体も、現時点では断定しません」


 エリアナの瞳に、複雑な色が浮かぶ。


「あなたは、王宮を庇っているのですか」


 問いには棘があった。


 リゼはすぐに首を横に振る。


「いいえ」


「では」


「私は、相手がしたことを繰り返さないために、範囲を確認しています」


 エリアナは黙った。


 リゼは続ける。


「王宮は、アルトさんとエリアナさんを“相互反応を示す保護対象二名”として同じ箱に入れようとしました。私たちは、それを拒否しました」


「はい」


「ここで王宮、監察局、ハイマンの名をすべて同じ箱に入れると、私たちも同じことをします」


 エリアナの指がわずかに動いた。


 痛い言葉だった。


 だが、必要な言葉でもあった。


 ミリアが静かに補った。


「怒りの範囲を狭めることは、怒りを弱めることではないわ。むしろ、届かせるために必要なの」


 エリアナは目を伏せた。


「届かせるため」


「ええ。全部に向けると、誰にも届かないことがある」


 アルトは左手首に触れた。


「封信蔦と逆ですね」


 全員がアルトを見る。


 アルトは続けた。


「封信蔦は声を逸らします。でも、怒りも逸れると、届かないんだと思います」


 ロウ教師が少しだけ口元を動かした。


「良い」


 エリアナはアルトを見て、ゆっくり頷いた。


「はい。届かせるために、範囲を確認します」


 エレオノーラが記録する。


「エリアナさん、王宮全体への怒りあり。ただし怒りを届かせるため、範囲確認を希望。断定保留」


 ユリウス・エインズワースが資料を中央へ寄せた。


「では、閲覧印の確認に入る」


 彼の声は落ち着いている。


「まず日付。該当印は戦後三年目。オルド・ハイマン本人の王宮監察局正式任官は、学園側にある公開経歴では戦後六年目以降。したがって、この閲覧印がオルド本人である可能性は低い」


 カイが少し眉を上げた。


「じゃあ、オルドじゃない?」


 ユリウスは首を横に振る。


「現時点ではそう判断する。ただし、ハイマン家の誰か、監察局補助室の別職員、または別名の読み違いの可能性がある」


 クラウス・ヴァイゼルが符号表を見ながら頷いた。


「当時、監察局補助室には複数のハイマン家関係者が出入りしていた。王宮監察局は家系による推薦枠が残っていたからだ」


 ミリアが問う。


「オルド氏の親族の可能性は」


「ある」


 クラウスは答えた。


「ただし、ここで“ハイマン家が消した”と書くのは早い。印の名がハイマンと確定していない。さらに、照会した者と削った者が同じとも限らない」


 エレオノーラが記録する。


「注意点。閲覧者名と削損者は同一とは限らない。閲覧印の残存名はハイマン系の可能性あり。ただし確定不可。オルド本人の可能性は時期上低い」


 リゼが頷く。


「疑いの段階を分けます」


 彼女は記録帳を開き、淡々と書いた。


 一、監察局補助室照会印が存在する。


 二、閲覧者名欄に意図的削損の可能性。


 三、残存文字はハイマン系の可能性。


 四、オルド本人とは時期が一致しにくい。


 五、親族または同部署関係者の可能性。


 六、削損者は不明。


 その文字が、彼女の手で整っていく。


 アルトはそれを見て、少し安心した。


 怒りで文字が崩れていない。


 でも、冷たく隠してもいない。


 ミリアがエリアナへ視線を向けた。


「この整理は受け取れる?」


 エリアナはリゼの記録帳を見た。


 長い沈黙。


「はい」


 彼女は静かに言った。


「受け取れます。不快ですが、受け取れます」


 リゼは頷いた。


「記録します。不快あり」


「はい」


 カイが小さく言った。


「不快もちゃんと書くんだな」


 エリアナがカイを見る。


「書かないと、あとで“冷静に確認された”だけになります」


 カイは少し目を見開いた。


「それは嫌だな」


「はい。嫌です」


 エレオノーラが記録した。


 クラウスは閲覧印の拡大写しをさらに一枚取り出した。


「ここを見てくれ」


 彼は削られた文字の下側を指した。


「印の縁に、補助室の旧式蔦枠が残っている」


 アルトの左手首が少し熱を持った。


 蔦。


 封信蔦。


 白鐘紙工房。


 蔦の意匠は、また現れる。


 だが、クラウスはすぐに言った。


「ただし、これは監察局補助室の一般的な印枠だ。白鐘由来とは限らない。王宮では蔦枠を使う部署が多い」


 アルトは少し息を吐いた。


「全部の蔦を白鐘にしない」


 リゼが頷く。


「はい」


 エリアナも言った。


「全部の蔦を故国の祈りにしない」


 クラウスが小さく頷く。


「その通りだ」


 ユリウスが次の資料を出した。


「王宮文書院整理印もある。これも重要だ。個人手帳類三の所在未確認について、封印管理室だけでなく文書院も何らかの整理に関わった可能性がある」


 ミリアが眉を寄せる。


「つまり、資料が封印管理室内で消えたとは限らない」


「そうだ」


 ユリウスは頷く。


「仮受領後、文書院整理を経て、監察局補助室が照会した可能性もある。順番はまだ不明」


 エレオノーラが表を作る。


 仮受領。


 文書院整理。


 監察局補助室照会。


 正式目録未登録。


 所在未確認。


 その順番はまだ確定しない。


 線は引けるが、矢印は置けない。


 アルトはそれを見て、少しもどかしく感じた。


「矢印を置きたくなります」


 彼が言うと、ロウ教師が頷いた。


「人は矢印を置きたがる。原因、結果、犯人、被害者。だが、置く前に線を確認しろ」


 カイが小声で言う。


「矢印も急いで置かない用」


 ミリアが少し笑った。


「今日の名前候補ね」


 カイは慌てる。


「まだ決めてないです」


 エリアナの目元が、ほんの少し緩んだ。


 その小さな緩みを確認してから、ユリウスは続けた。


「次に必要な照会は三つ。第一に、閲覧台帳原本の確認。第二に、該当時期の監察局補助室在籍者名簿。第三に、削損前の台帳写しまたは補助記録の有無」


 クラウスが加える。


「さらに、王宮文書院の整理記録が必要だ。個人手帳類三が文書院へ移った可能性もある」


 リゼが言う。


「灰色封箱の個人記録類小型封箱が、文書院整理対象に分類変更された可能性」


 エレオノーラが記録する。


 エリアナは静かに言った。


「母の手帳かもしれないものが、封印管理室から文書院へ移されたかもしれない」


 ミリアがすぐに確認する。


「母の手帳、と断定する?」


 エリアナは首を横に振った。


「いいえ。誰かの手帳三冊です」


 少し間を置く。


「でも、その誰かの中に、母がいるかもしれません」


 ミリアは頷いた。


「それでいいわ」


 リゼが静かに言う。


「その可能性を、消しません」


「はい」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 今日の確認は、前回ほど胸を刺すものではない。


 だが、別の怖さがある。


 名前が削られている怖さ。


 誰が見たのか、誰が消したのか、わからない怖さ。


 そして、知っている名前がそこに浮かびそうになる怖さ。


 ハイマン。


 オルド本人ではない可能性が高い。


 だが、家の名は残る。


 家という箱。


 部署という箱。


 王宮という箱。


 怒りはその箱へ向かいやすい。


 でも、箱に入れると、また誰かの名前が消える。


 エリアナがぽつりと言った。


「名前が削られているのに、私はその削られた名前で誰かを決めようとしていました」


 ミリアが静かに見る。


 エリアナは続ける。


「ハイマン、と読めるかもしれない。だから、オルド・ハイマンだと思いかけました。王宮だと思いかけました」


 彼女は息を吐いた。


「でも、それでは削った人と同じかもしれません。名前を正しく扱っていない」


 リゼが頷く。


「はい」


 エリアナはリゼを見る。


「あなたは、以前、灰銀の戦乙女として見られていました」


「はい」


「私は、あなたをそれだけで見ないようにすると言いました」


「はい」


「なら、私もハイマンという名だけで、まだ見ていない人を決めないようにします」


 リゼの瞳が静かに揺れた。


「受け取りました」


 エリアナは少しだけ目を伏せた。


「難しいです」


「はい」


「怒っています」


「はい」


「でも、そうします」


 ミリアが柔らかく頷く。


「良好よ」


 カイが小さく言う。


「すごいな」


 エリアナが彼を見る。


「すごくはありません。疲れます」


「それでも、すごいと思います」


 エリアナは少しだけ困った顔をして、それから小さく頷いた。


「ありがとうございます」


 ユリウスは資料を閉じた。


「本日の確認はここまでにしよう。照会文は、監察局補助室だけでなく封印管理室、文書院にも出す。名指しは避けるが、該当印の高精度写しと在籍者照合を要求する」


 クラウスが頷く。


「王宮側は嫌がるだろう」


「わかっている」


 ユリウスは表情を変えない。


「だが、台帳の削損がある以上、正式に問う必要がある」


 ロウ教師が言った。


「問う。決めつけるな。逃がすな」


「はい」


 全員がそれぞれ頷いた。


 資料が閉じられる。


 削られた閲覧印は、紙の間に戻った。


 だが、削られていたことはもう隠れない。


 生徒会室を出ると、廊下には夕方の光が入っていた。


 窓の外で、青い布が揺れている。


 鐘は鳴らない。


 遠くから、誰かが友人の名を呼ぶ声が届いた。


 名前が届く。


 そのことが、今日は少し痛くて、少し温かい。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。確認終了後」


 リゼが続ける。


「身体異常なし。感情、重い。監察局補助室照会印の削損を確認。ハイマン系の可能性あり。ただし断定しません」


 エリアナも言った。


「身体異常なし。疲労あり。感情、怒り、不快。王宮全体を一つの箱に入れそうになりましたが、範囲を確認します」


 ミリアが頷く。


「良好よ」


 カイが布包みを取り出した。


 ミリアが尋ねる。


「名前は?」


 カイは少し考えてから言った。


「矢印を急いで置かない用」


 アルトは思わず少し笑った。


 エリアナも、ほんの少しだけ目元を緩める。


 リゼが真面目に頷いた。


「非常に適切です」


 カイは少し胸を張る。


「今日は短めです」


「十分長いわ」


 ミリアが笑う。


 布包みの中には、小さな焼き菓子と香草パンの欠けが入っていた。


 アルトは成分を読み上げる。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版です」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 廊下の窓辺で、五人は少しずつ食べた。


 香草パンは硬くなっているが、噛めば香りが戻る。


 甘さは控えめで、苦味が残る。


 エリアナは香草パンを食べながら、静かに言った。


「怒りにも、矢印を急いで置かない」


 ミリアが頷く。


「ええ」


「でも、矢印を置かないまま終わらせない」


 リゼが答えた。


「はい。線を確認し、必要な場所に置きます」


 アルトも頷いた。


「僕の反応も、矢印にしないでください」


「はい」


 エリアナはアルトを見る。


「反応は情報です。判決ではありません」


 アルトは少しだけ胸が温かくなった。


「はい」


 カイが焼き菓子を食べながら言う。


「削られた名前も、戻せたらいいな」


 その言葉に、エリアナの瞳が少し揺れた。


「はい」


 リゼも静かに頷く。


「戻します。推定ではなく、確認で」


 窓の外の青い布が風に揺れた。


 鐘は鳴らない。


 でも、遠くの声は届いている。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 削られた名前は、まだ完全には読めない。


 だが、削られていたことを見つけた。


 そして、怒りで別の名前を削らないための線も、今日ここに引かれた。


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