第8章 第9話:灰色封箱
灰色封箱、という言葉は、リゼ・グレイスの記録帳の上で、しばらく沈黙していた。
灰色。
封じられた箱。
戦時中、リゼが外装と封印状態だけを確認したかもしれない箱。
その中に、旧ヴェルグラント北部から接収された白鐘関連資料が入っていた可能性がある。
個人手帳類三。
白鐘布覆儀礼注記。
香草保存記録。
家系記録。
紙束。
そして、もしかすると、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントの母の手帳。
アルト・レインフォードは、生徒会室の机に置かれた一枚の新しい写しを見て、左手首に触れた。
痛みはない。
熱は少し。
声はない。
けれど、胸の奥が静かに重い。
今日、学園長名義で照会していた戦時輸送記録の一部が戻ってきた。
正確には、王宮からの正式回答ではない。
学園側の保管庫に残っていた旧軍務照合資料の控えだ。
王宮へ出した照会文の草案を作成する過程で、エレオノーラ・ヴィンスフェルトが過去の学園保護案件資料を再確認し、その中に「灰色封箱」という符号を見つけた。
偶然ではない。
偶然であってほしいと思うほど、そこには一致があった。
机の上の紙には、こう書かれている。
灰色封箱護送。
北西街道臨時保護集積所より王都封印管理室へ。
護送確認補助、灰銀一七。
アルトの左手首が、じわりと熱を持った。
「痛みなし。熱少し上昇。声なし。“灰銀一七”で反応しました」
隣に座るリゼが頷く。
「確認しました」
その声は静かだった。
静かすぎるほどに。
リゼは資料をまっすぐ見ている。
灰銀の髪は整えられ、姿勢も変わらない。指先も震えていない。
だが、アルトにはわかった。
彼女は今、戦場の道と現在の生徒会室の床を同時に踏んでいる。
だから、言葉を間違えてはいけない。
呼び戻す言葉が必要だった。
「リゼさん」
「はい」
「現在地は」
「王立学園、生徒会室」
「名前は」
「リゼ・グレイス」
「今は」
「王立学園の生徒です。戦時記録を確認しています」
アルトは頷いた。
リゼも、ほんの少しだけ頷き返した。
生徒会室には、いつもの面々が揃っていた。
ユリウス・エインズワースが机の中央で資料を管理し、エレオノーラが記録板を持っている。
ミリア・ファルネーゼは、エリアナの斜め横に座っていた。
カイ・ロックハートは、今日は最初から口を結んでいる。
ロウ教師は窓際に立ち、クラウス・ヴァイゼルは王宮封印管理室の古い符号表を広げていた。
学園長は別室で王宮照会文の確認をしているが、必要があればすぐ来られるようになっている。
エリアナは、灰色封箱護送の文字から目を離せずにいた。
薄紫の瞳は静かだ。
しかし、静かさの下には明らかな怒りと恐怖がある。
母の手帳があったかもしれない箱。
その箱を、リゼが運んだかもしれない。
中身を知らずに。
灰銀の戦乙女として。
エレオノーラが確認範囲を読み上げた。
「本日の確認対象。灰色封箱護送記録。確認項目は、出発地、到着地、外装確認者、護送担当、積載分類。注意事項。箱の中身は現時点で未確認。個人手帳類三との同一性は断定しない。リゼさんの責任範囲を確認前に確定しない。エリアナさんの母の手帳との関連は可能性として扱う」
エリアナが頷く。
「はい」
リゼも頷いた。
「了解しました」
アルトは左手首に触れる。
「聞けます」
ユリウスは資料を一枚めくった。
「まず、記録の由来から説明する。この写しは、王宮から今回返答されたものではない。過去の学園保護案件に関連して、王都封印管理室の旧符号一覧が一部学園へ提供された時の控えだ。その中に、灰色封箱護送の記述があった」
ミリアが問う。
「なぜ学園保護案件の資料に、戦時護送記録が?」
ユリウスは少し表情を険しくした。
「白鐘関連ではなく、封印管理対象者の照会に使われていた可能性がある。つまり、王宮は以前から、灰色封箱の記録を何らかの保護対象管理と関連づけていたかもしれない」
アルトの左手首が熱を持つ。
痛みはない。
声なし。
クラウスが苦い顔で頷いた。
「王宮では珍しいことではない。過去の封印資料、血統資料、保護対象情報が、後年の管理案件に紐づけられる」
エリアナが低く言った。
「また、対象ですか」
その言葉には疲れがあった。
ミリアが静かに言う。
「今は、対象としてではなく、記録として確認しましょう」
「はい」
エリアナは頷いた。
「でも、不快です」
「記録しましょう」
エレオノーラがペンを動かす。
「灰色封箱記録が保護対象管理資料に紐づけられていた可能性に、エリアナさん不快感あり」
ユリウスは次の項目を読む。
「任務符号。灰色封箱護送。出発地、北西街道臨時保護集積所。到着地、王都封印管理室。護送区間、臨時保護集積所から王都南門管理口まで。到着後、封印管理室へ引き渡し」
リゼの指が、記録帳の端を押さえる。
アルトが見ると、リゼは小さく頷いた。
まだ大丈夫、という合図。
ユリウスは続けた。
「外装確認補助。灰銀一七」
その言葉が、二度目に部屋へ落ちる。
今度は誰も息を飲まなかった。
すでに知っている。
だが、知っていることと、改めて読むことは違う。
リゼは静かに言った。
「私です」
エレオノーラが確認する。
「記録してよろしいですか」
「はい。灰銀一七は、私の戦時識別符号です」
ペンが走る。
エリアナの視線がリゼへ向かう。
リゼはそれを受け止めた。
「私は、灰色封箱護送任務に関わっていました」
自分から言った。
「ただし、現時点で確認できるのは外装確認補助です。中身の確認者ではありません」
ロウ教師が低く言う。
「そこを分けろ」
「はい」
リゼは頷く。
「私は、中身を知りませんでした。ですが、箱を確認し、護送に関わりました」
エリアナがゆっくり口を開いた。
「知らなかった」
「はい」
「また、その言葉ですね」
「はい」
リゼの声は揺れない。
でも、逃げてもいない。
「私は、知らなかったことを理由に終わらせません」
エリアナは資料を見た。
灰色封箱護送。
王都封印管理室へ。
「その箱の中に、誰かの手帳があったかもしれない」
「はい」
「母のものかもしれない」
「はい。可能性があります」
「あなたは、それを運んだかもしれない」
「はい」
短い返答が続く。
しかし、それは機械的ではなかった。
リゼは一つ一つ受け取っている。
エリアナも、一つ一つ確認している。
アルトは左手首に触れた。
「痛みなし。熱少し。声なし。重いです。でも、聞けます」
ミリアが頷いた。
「良好」
カイは拳を膝の上で握っていた。
動かないようにしている。
ユリウスが次の欄へ進む。
「積載分類。封印関連資料箱二。地方記録紙束箱一。儀礼物品箱一。個人記録類、小型封箱一。合計五箱」
エリアナの息が止まった。
小型封箱。
個人記録類。
クラウスが資料を覗き込む。
「個人記録類、小型封箱一……」
声が低くなる。
ミリアがすぐにエリアナへ確認する。
「状態は」
エリアナは少し時間をかけて答えた。
「身体異常なし。感情、強い緊張。怒り。怖さ。聞けます」
エレオノーラが記録する。
リゼは資料から目を離さなかった。
「その小型封箱が、個人手帳類三と関連する可能性があります」
クラウスが頷く。
「ある。むしろ分類上は近い。ただし、ここには中身の一覧がない」
エリアナが低く言った。
「箱の中身を知らずに、また箱だけが残っている」
カイが小さく言う。
「奪われた箱を勝手に開けない用って、昨日言ったけど」
全員がカイを見る。
カイは少し苦しそうな顔をしていた。
「でも、開けなきゃわかんないんだな」
ミリアが頷く。
「ええ。問題は、誰が、どうやって、何のために開けるかよ」
エリアナが静かに言う。
「私のいないところで開けないでください」
その声は、細いが強かった。
「もし、その箱が母の手帳に関わるなら、私のいないところで決めないでください」
ユリウスはすぐに頷く。
「学園側の照会方針に入れる。個人記録類小型封箱については、現所在確認と開封履歴確認までを求める。内容閲覧が必要な場合、本人関係者確認を要求する」
クラウスが眉を寄せる。
「王宮が認めるかはわからない」
ユリウスは答える。
「認めさせる前提で文面を作る」
ロウ教師が少しだけ口元を動かした。
「強気だな」
「生徒会長なので」
カイが小声で言う。
「こういう時、ユリウス先輩すごいよな」
ミリアが微笑む。
「ええ」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、資料の重さは変わらない。
ユリウスは次の項目を読む。
「封印状態。出発時、五箱すべて外装封印 intact。到着時、王都南門管理口で外装確認。異常なし。灰銀一七確認補助印あり」
リゼが静かに目を伏せた。
外装確認。
異常なし。
彼女が確認したのは、箱の中ではない。
外側だ。
封印が破れていないか。
荷車から落ちていないか。
誰かに奪われていないか。
それを確認した。
その確認が、後に何を保証することになったのか。
リゼ自身も知らなかった。
「私は」
リゼは言った。
「外装封印を確認しました」
声は低い。
「箱が開けられていないこと、封印が破損していないこと、護送中に損失がないことを確認しました」
エリアナが言う。
「中身ではない」
「はい」
「中身が何かも知らない」
「はい」
「でも、王都に届いたことを確認した」
「はい」
エリアナは少しだけ目を伏せた。
「それは、母の手帳が王都に届いた可能性を示すのですね」
クラウスが慎重に言う。
「もし個人手帳類三が小型封箱に含まれていたなら、そうなる」
「届いた後、どうなったかは」
「別記録が必要だ」
エリアナは拳を握った。
「王都に届いたなら、消えたのはその後かもしれない」
リゼの表情がさらに重くなる。
アルトがすぐに言った。
「リゼさん」
「はい」
「全部持たないでください」
リゼは息を止めた。
それから、ゆっくり吸う。
「はい」
エリアナも静かに言った。
「あなたの確認印が、母の手帳を消した証拠ではありません」
リゼの瞳が大きく揺れた。
エリアナは続ける。
「まだ、確認です」
その言葉は、第8章の先で必要になるものだった。
だが、この時点でも十分に重い。
リゼは深く頷いた。
「はい。まだ、確認です」
ロウ教師が静かに言う。
「よく言った」
誰に向けた言葉かは、全員にわかった。
エリアナに。
リゼに。
そして、この部屋にいる全員に。
ユリウスは資料をめくった。
「王都南門管理口での受領後、封印管理室への移送担当は別班。記録名は一部伏せられている。ただし、受領欄に管理符号が残っている」
クラウスが身を乗り出した。
「見せてくれ」
ユリウスは紙を渡す。
クラウスは目を細め、古い符号表と照合する。
「これは……封印管理室の臨時受領符号だ。正式受領印ではない。仮置き扱いかもしれない」
ミリアが問う。
「仮置き?」
「正式目録に入る前、一時的に保管する扱いだ。混乱期にはよくある」
エリアナが低く言う。
「仮置きのまま、消えることもあるのですか」
クラウスは答えにくそうだった。
「ある」
室内が静かになる。
エリアナは目を閉じた。
怒りを抑えるためではなく、範囲を確認するために。
「身体異常なし。感情、怒り。続けられます」
自分で言った。
ミリアが頷く。
「言えたわ」
クラウスは続けた。
「仮置き状態の資料は、正式目録に入る前に別部署が閲覧したり、分類変更されたりすることがある。もちろん、本来は記録が残る。だが戦後直後は混乱していた」
カイが苦々しく言う。
「混乱って便利な言葉だな」
ロウ教師が頷く。
「便利だ。だから疑え。ただし、すべてを悪意と決めるな」
カイは頷いた。
「はい」
エレオノーラが記録する。
「王都南門管理口到着後、封印管理室へ仮置き受領された可能性。正式目録登録前に移管・閲覧・分類変更の可能性あり」
リゼが静かに言った。
「私の任務範囲は、王都南門管理口までです」
ユリウスが頷く。
「記録上はそうだ」
「その後の消失があるなら、私の護送後です」
リゼはそこで一度言葉を止めた。
「ただし、私が運んだことは消えません」
エリアナが彼女を見る。
リゼは続ける。
「私は、灰色封箱を王都へ届ける任務に関わりました。中身を知りませんでした。到着後の扱いは、まだ知りません。だから、知りたいです」
エリアナは静かに頷いた。
「はい」
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
重いが、少しだけ整理された気がした。
灰色封箱は、臨時保護集積所から王都へ運ばれた。
リゼは外装を確認した。
王都南門管理口までは異常なし。
その後、封印管理室へ仮置き。
中身はまだ不明。
個人記録類小型封箱が含まれていた。
母の手帳かもしれないものは、王都に届いた可能性がある。
そして、もし消えたなら、その後かもしれない。
ユリウスは整理した。
「次の照会項目を追加する。灰色封箱護送記録の正式写し。王都南門管理口の受領記録。封印管理室の仮置き記録。正式目録登録日。個人記録類小型封箱の内容一覧。開封履歴。閲覧者履歴。移管履歴」
エレオノーラがすばやく書く。
ミリアが加える。
「そして、本人関係者確認なしの内容閲覧を避けること」
ユリウスが頷く。
「入れる」
クラウスが少し苦い顔をする。
「王宮は抵抗するだろうな」
「抵抗するでしょうね」
ユリウスは平然と言った。
「でも、照会しない理由にはなりません」
カイが小さく言う。
「生徒会長って、王宮相手でも強いんだな」
「相手が王宮だから丁寧にするだけだ」
ユリウスは答えた。
「弱くする理由にはならない」
ミリアが微笑む。
「名言ね」
ユリウスは少しだけ眉を動かした。
「記録しなくていい」
エレオノーラは一瞬ペンを止めた。
「重要発言ですが」
「照会文には不要だ」
カイが少し笑った。
その小さな笑いで、部屋の空気がわずかに戻る。
資料はまだ重い。
だが、息ができる。
ロウ教師が言った。
「今日はここまでだ」
リゼが資料を見る。
まだ確認したいという気持ちが顔に出ていた。
だが、彼女は自分で頷いた。
「了解しました」
エリアナも頷く。
「はい」
ロウ教師は二人を見る。
「どちらも急ぐな。灰色封箱は、急いで開けるほど中身を壊す」
カイが小さく言った。
「香草だけじゃなくて箱もか」
ロウ教師が頷く。
「そうだ」
エリアナがほんの少しだけ笑った。
「母は、箱についても同じようなことを言っていました」
ミリアが尋ねる。
「どんな言葉?」
エリアナは少し思い出すように目を伏せた。
「古い箱は、開ける前に周りの埃を払う。急ぐと、蓋より先に中の紙を傷つける、と」
クラウスが静かに頷いた。
「正しい」
リゼが言った。
「では、埃を払う手順から始めます」
エリアナはリゼを見る。
「はい」
そのやり取りは、ほんの少しだけ穏やかだった。
生徒会室を出ると、廊下には午後の光が差していた。
窓の外では、青い布が揺れている。
鐘は鳴らない。
遠くから、生徒会補助の声が届いた。
「午後三時限目、開始十分前です」
声はまっすぐ届いた。
封信蔦に逸らされることなく。
アルトは左手首に触れた。
「痛みなし。熱少し。声なし。確認終了後」
リゼが続ける。
「身体異常なし。感情、重い。灰色封箱護送任務への関与を確認しました。外装確認補助です。中身は未確認。知りたいです」
エリアナも言った。
「身体異常なし。疲労あり。感情、怒り、怖さ。個人記録類小型封箱の中身を確認したいです。ただし、勝手に開けられたくありません」
ミリアが頷く。
「良好よ」
カイが布包みを取り出した。
ミリアが聞く。
「名前は?」
カイは少し考えた。
「灰色の箱を急いで開けない用」
エリアナが静かに頷く。
「はい。今日は、それがよいです」
リゼも頷いた。
「適切です」
カイは布包みを開いた。
小さな焼き菓子と、香草パンの欠け。
アルトは成分を読み上げる。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
廊下の窓辺で、五人は少しずつ食べた。
香草パンは、もうかなり硬い。
それでも、噛めば香りが戻ってくる。
甘く、少し苦い。
遠くから近づいてくる香り。
エリアナは小さく噛んで、静かに言った。
「古い箱も、古い記憶も、急いで開けてはいけないのですね」
リゼが頷く。
「はい。ですが、開けないままにも、しません」
「はい」
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
「僕も、一緒に確認します」
エリアナがアルトを見る。
「あなたの反応を、箱の鍵にはしません」
「はい」
「でも、あなたの声は聞きます」
アルトは少し胸が温かくなった。
「はい」
カイが焼き菓子を食べながら言う。
「じゃあ、埃を払ってからだな」
ミリアが微笑む。
「ええ。丁寧にね」
リゼは窓の外を見た。
その横顔には、まだ灰色封箱の影が残っている。
だが、彼女は一人でその箱を持ってはいなかった。
エリアナも、アルトも、ミリアも、カイも、同じ廊下にいる。
同じ箱には入らない。
けれど、同じ場所で、開け方を確認することはできる。
アルトは最後にもう一度、左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
灰色の箱は、まだ閉じている。
けれど、その箱がどこから来て、どこまで運ばれたのかは、もう見え始めていた。




