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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第8章 第8話:接収資料庫


 接収資料庫、という言葉は、扉の奥に積み上げられた沈黙を思わせた。


 王宮の地下深く。


 石造りの壁。


 鍵のかかった棚。


 分類札。


 封印紙。


 誰かの家から持ち出された箱。


 誰かの祈りを記した紙。


 誰かの母が書いた手帳。


 そういうものが、王国の管理番号を貼られて眠っている場所。


 アルト・レインフォードは、その言葉を聞くだけで左手首が熱を持つのを感じた。


 痛みはない。


 声もない。


 けれど、布の下の銀環が、遠くの閉じた棚へ反応しているようだった。


「痛みなし。熱少し。声なし。現在地、生徒会室」


 アルトが小さく言うと、リゼ・グレイスが頷いた。


「良好です」


 今日は、生徒会室の机の上に王宮の見取り図はない。


 代わりにあるのは、クラウス・ヴァイゼルが持ち込んだ数枚の目録写しと、学園側で作成した確認項目表だった。


 目録写しの一枚には、王宮戦後接収資料庫という見出しがある。


 その下に、古い分類名が並んでいた。


 旧ヴェルグラント北部民間資料。


 白鐘関連儀礼物。


 地方記録管理家族所蔵紙束。


 布覆儀礼注記。


 香草乾燥標本。


 小型灯皿。


 個人手帳類。


 その文字列を見た時、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントの指先が硬くなった。


 彼女は黙っている。


 淡い亜麻色の髪はいつものように整っているが、薄紫の瞳は目録から離れない。


 そこに母の手帳があるかもしれない。


 あるいは、あったのにもう失われているかもしれない。


 その可能性だけで、室内の空気は重かった。


 ミリア・ファルネーゼは、エリアナの斜め横に座っている。


 カイ・ロックハートは、今日は布包みを持ってきているが、椅子の横へ置いたままだ。


 休憩の時までは出さない。


 ユリウス・エインズワースは、学園長名義で王宮へ出す照会案を準備している。


 エレオノーラ・ヴィンスフェルトは記録板を開き、確認範囲を読み上げた。


「本日の確認対象。王宮戦後接収資料庫の概要、白鐘関連資料の保管可能性、資料閲覧権限、学園側の限定照会案。注意事項。王宮全体を敵対対象として断定しない。接収資料を白鐘反応実験の材料として扱わない。エリアナさんの母方記憶、アルトさんの銀環反応、リゼさんの戦時任務記録は分けて扱う」


 ロウ教師が窓際で腕を組んでいた。


 授業ではないが、今日も彼は同席している。


 必要なところで、言葉を切るために。


 クラウスは資料の上に手を置いた。


「まず、王宮戦後接収資料庫について説明する」


 彼の声は、いつもより少し苦かった。


「戦争後、王国軍や王宮管理局は、旧敵対地域から多くの資料を接収した。軍事文書、土地記録、家系図、宗教資料、儀礼物、通信記録、封印関連資料。種類は多い。そのうち、封印や血統、旧王家に関わる可能性があるものは、王宮内の複数部署で管理された」


 カイが眉を寄せる。


「複数部署?」


「そうだ」


 クラウスは頷いた。


「一か所ではない。軍務局、監察局、封印管理室、王宮文書院。資料によって担当が変わる。さらに、戦後すぐは臨時分類が多く、後から移管されたものもある」


 ミリアが静かに言う。


「つまり、どこに何があるか、王宮内でも完全には整理されていない可能性があるのですね」


「ある」


 クラウスは認めた。


「むしろ、かなり高い」


 エリアナが小さく言った。


「奪った側も、何を奪ったのかわからなくなっているのですね」


 室内が静かになる。


 クラウスはすぐに反論しなかった。


 その言葉には、事実の一部があるからだ。


「そういう場合もある」


 彼は言った。


「ただし、意図的に隠されているものもある。混乱と隠蔽が混ざると、さらに見えにくくなる」


 アルトの左手首が少し熱を持つ。


「痛みなし。熱少し上昇。声なし。隠されている、で反応しました」


 リゼが確認する。


「継続可能ですか」


「はい」


 クラウスは目録写しの一枚を中央へ置いた。


「今回問題になるのは、旧ヴェルグラント北部から接収された白鐘関連資料だ。鳴らさぬ谷/北西第三補給枝道周辺の記録管理家族三戸から接収された可能性があるもの。紙束、白布、香草束、小型灯皿、儀礼注記、家系記録、個人手帳類」


 エリアナの指がさらに硬くなる。


 ミリアがすぐに声をかけた。


「状態は」


 エリアナは少しだけ息を吸った。


「身体異常なし。感情、怒り。怖さ。母の手帳がその中にあるかもしれないことへの緊張があります」


 エレオノーラが記録する。


 ミリアは頷いた。


「続けられる?」


「はい。止めたくありません」


 ロウ教師が静かに言う。


「止めたくないと、止められないは違う」


 エリアナは少しだけ目を伏せる。


「はい。止められます。でも、今は続けたいです」


「よし」


 クラウスは続けた。


「資料庫の閲覧権限は複雑だ。白鐘関連資料は、封印管理室が中心だが、旧王家血統に関わる家系記録は監察局、戦時接収経緯は軍務局、原本文書の保存は文書院が持っている場合がある」


 カイが頭を抱えかける。


「ややこしい」


「ややこしくしてある、とも言える」


 クラウスは低く言った。


「権限が分かれると、一つの部署が全体像を持ちにくくなる。逆に、複数部署へ顔が利く者なら、断片を集められる」


 リゼが目を細めた。


「敵勢力、または王宮内部の協力者」


「可能性だ」


 クラウスはすぐに言った。


「断定はしない。だが、封信蔦のような術式を作るには、白鐘周辺儀礼の実践手順をある程度知る必要がある。王宮公式資料だけでは足りない可能性が高い」


 アルトはノートに書いた。


 公式資料だけでは足りない。


 接収資料。


 閲覧者。


 断片を集められる人。


 その文字が、少し怖い。


 エリアナが静かに問う。


「母の手帳が、そこにある可能性は」


 クラウスはすぐには答えなかった。


 慎重に資料をめくる。


「ある」


 短い答えだった。


 エリアナの顔色がわずかに変わる。


「根拠は」


「この旧目録だ」


 クラウスは一枚の写しを示した。


 そこには、薄い文字でこう書かれている。


 旧ヴェルグラント北部祈祷記録。


 白鐘布覆儀礼注記。


 地方記録管理家族家系記録。


 個人手帳類 三。


 香草保存記録。


「個人手帳類、三」


 エリアナが小さく読み上げた。


 声が少し震えている。


「三冊」


 ミリアがそっと言う。


「母上のものかは、まだわからないわ」


「はい」


 エリアナは頷いた。


「でも、個人手帳があった」


「はい」


「誰かの手帳が、接収された」


 その言葉は、母のものと断定しないための努力だった。


 だが、それでも痛い。


 誰かの手帳。


 個人の言葉。


 家の中で書かれたもの。


 祈りの覚書かもしれない。


 子どものことかもしれない。


 香草の量かもしれない。


 誰かの名かもしれない。


 それが、王宮の目録で「個人手帳類 三」とされている。


 カイが低く言った。


「類、って嫌だな」


 ロウ教師が頷く。


「便利な分類だ。人の筆跡も、母の言葉も、三冊まとめて“類”になる」


 エリアナの唇が少し硬くなる。


「私も、嫌です」


 エレオノーラが確認する。


「今の感情を記録してよろしいですか」


 エリアナは頷いた。


「はい。“個人手帳類”という分類に不快感がある、と記録してください」


「了解しました」


 リゼは資料を見ていた。


 灰銀の瞳に、別の記憶が浮かびかけている。


 アルトはすぐに気づいた。


「リゼさん」


「はい」


「状態は」


 リゼは少し瞬きをした。


「身体異常なし。感情、重い。戦時任務記憶への接近あり。ですが、現在地を保持しています」


 ロウ教師が低く問う。


「思い出したか」


 リゼは頷く。


「一部です」


 室内が静まる。


「灰色の封箱を見た記憶があります」


 エリアナがリゼを見る。


 クラウスの表情も変わった。


「灰色の封箱?」


 リゼは記録帳を開いた。


「戦時中、輸送任務の中で、灰色の封印箱が複数ありました。中身は知らされていません。私は箱の外装と封印状態を確認した記憶があります」


 カイが小さく言う。


「箱……」


 リゼは続ける。


「ただし、これが今回の接収資料と同一かは不明です。灰色封箱という呼称も、私の記憶上のものです。正式名称かは確認が必要です」


 エレオノーラが記録する。


「リゼさん、戦時中の灰色封印箱を想起。中身不明。外装と封印状態を確認した記憶。今回資料との同一性未確認」


 クラウスは険しい顔で言った。


「灰色封箱という言葉には覚えがある。封印管理室の臨時保管箱に、そう呼ばれるものがあった」


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みなし。


 声なし。


「痛みなし。熱中より弱い。声なし。灰色封箱で反応しました」


 エリアナの指が、机の縁をつかむ。


「母の手帳が、その箱に入っていた可能性があるのですか」


 クラウスはすぐに断定しない。


「可能性はある。ただし、現時点では低いとも高いとも言えない。箱の目録、移送記録、受領記録が必要だ」


 リゼが静かに言った。


「私が、その箱を運んだかもしれません」


 生徒会室に、重い沈黙が落ちた。


 エリアナはリゼを見る。


 そこには怒りがあった。


 当然の怒り。


 だが、怒りだけではない。


 怖さも、混乱も、確認したいという強さもある。


「あなたが」


 エリアナは言った。


「私の母の手帳かもしれないものを、王宮へ運んだかもしれない」


 リゼは逃げない。


「可能性があります」


「知らずに」


「はい」


「知らなかったと」


「はい。ですが、知らなかったことだけで終わらせません」


 エリアナの呼吸が少し荒くなる。


 ミリアが静かに声をかけた。


「止める?」


 エリアナは首を横に振った。


「いいえ。続けます」


 ロウ教師が言う。


「怒りを急いで判決にするな」


 エリアナは目を閉じた。


 一呼吸。


 二呼吸。


 そして、目を開ける。


「私は、怒っています」


 エレオノーラが記録する。


「はい」


「でも、今ここでリゼさんが母の手帳を奪ったと決めることはしません」


 リゼの表情がわずかに揺れる。


 エリアナは続けた。


「ただし、あなたが運んだ可能性は確認してください」


「はい」


「中身を知らなかったなら、今度は中身を知ろうとしてください」


 リゼは深く頷いた。


「はい。知りたいです」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 今のやり取りは、とても痛い。


 でも、必要だった。


 怒りを消さない。


 でも、判決にしない。


 それは今まで何度も確認してきたことだった。


 ミリアが静かに言う。


「求める情報を整理しましょう。王宮へ何を照会するか」


 ユリウスが頷く。


「学園長名義で限定照会を出す。だが、こちらの情報を出しすぎないことが重要だ」


 クラウスが同意する。


「王宮へ“エリアナの母の手帳を探している”と出せば、不要な注目を集める。“白鐘関連接収資料の所在確認”として出すべきだ」


 エリアナの表情が少し硬くなる。


「母の手帳と書かないのですか」


 ミリアが答える。


「書かない方が、守れる場合があるわ」


「隠すのですか」


「奪われないように、範囲を絞るの」


 エリアナは黙った。


 その違いは難しい。


 自分の母の手帳かもしれないものを探すのに、母の手帳と書けない。


 でも、書けば王宮がそれを目印にして、また勝手に分類するかもしれない。


 エリアナは少し考えた。


「では、“個人手帳類 三”の所在確認、という形なら」


 ユリウスが頷く。


「それがよい。旧目録に記載された個人手帳類三点の現所在、閲覧履歴、移管履歴、欠落の有無」


 エレオノーラが記録する。


 リゼが続けた。


「灰色封箱に関する移送記録と受領記録」


 クラウスが加える。


「封印管理室への受領記録、開封記録、閲覧者記録」


 ミリアが言う。


「ただし、アルトさんの銀環反応やエリアナさんの母方記憶は、照会理由として出さない」


「そうだ」


 ユリウスが頷く。


「出すのは、学園内で確認された戦時記録照合の必要性と、白鐘関連事案の安全確認。個人詳細は伏せる」


 アルトが言う。


「僕の反応を、王宮へ渡さないでください」


「渡さない」


 ユリウスは即答した。


 エリアナも言った。


「私の母の記憶も、渡さないでください」


「渡さない」


 リゼが静かに言う。


「私の戦時識別符号も、必要範囲に限定してください」


 ユリウスは頷く。


「灰色封箱の照会には、君の識別符号が必要になる可能性がある。その場合も、本人確認を取る」


 リゼは少しだけ息を吸った。


「はい。必要であれば、確認します。ただし、王宮の剣としてではなく、リゼ・グレイスとして」


「もちろんだ」


 カイが小さく言った。


「王宮に聞かなきゃいけないけど、王宮に渡しちゃいけないこともあるってことか」


 ミリアが頷く。


「ええ。求める情報と、渡してはいけない情報を分けるの」


 カイは眉を寄せる。


「難しいな」


「難しいわ」


 ミリアは認めた。


「でも、ここを雑にすると、また同じ箱に入れられる」


 エリアナが静かに言った。


「個人手帳類三、ではなく」


 少し間を置く。


「誰かの手帳三冊」


 部屋が静かになる。


 リゼが頷いた。


「はい」


「でも、照会文では個人手帳類三と書く」


「はい」


「守るために」


 ミリアが頷く。


「守るために」


 エリアナはゆっくり息を吐いた。


「わかりました。不快ですが、必要なら受け取ります」


 エレオノーラが記録する。


「エリアナさん、“個人手帳類三”という表現に不快感あり。ただし照会上の保護目的として使用を了承」


 クラウスは目録写しの最後の行を指した。


「もう一つ。資料庫の閲覧権限は、王宮監察局にもある。白鐘関連資料のうち、旧王家血統または危険反応に関わると判断されたものは、監察局補助室が閲覧可能だった時期がある」


 アルトの左手首が熱を持つ。


 エリアナの目も鋭くなる。


 監察局補助室。


 第7章で、アルトとエリアナを「相互反応を示す保護対象二名」として扱おうとした部署。


 リゼを王宮の剣として使おうとした圧力とも繋がる場所。


 カイが低く言う。


「そこ、絶対怪しいだろ」


 ロウ教師が即座に言った。


「断定するな」


「でも」


「怪しいと、犯人は違う。疑いとして記録しろ」


 カイは唇を結び、頷いた。


「……疑いとして」


 エレオノーラが記録する。


「王宮監察局補助室に、過去一定時期、白鐘関連資料閲覧権限あり。疑いとして記録。断定しない」


 エリアナが言う。


「また、あの部署ですか」


 声には、隠しきれない嫌悪があった。


 ミリアが静かに頷く。


「ええ。でも、部署全体か、個人か、時期か、権限だけか、まだ分けましょう」


「はい」


 エリアナは少し苦しそうに頷いた。


「分けます」


 クラウスは資料を閉じた。


「今日の結論だ。王宮戦後接収資料庫には、旧ヴェルグラント北部の白鐘関連資料が保管されていた可能性が高い。個人手帳類三点の記載あり。灰色封箱との関連可能性あり。封信蔦の情報源がこの資料庫にある可能性あり。閲覧権限に監察局補助室が関わる可能性あり」


 エレオノーラが一つずつ記録していく。


 リゼが静かに言った。


「灰色封箱の移送任務を確認したいです」


 エリアナが彼女を見る。


 リゼは続けた。


「私が運んだ可能性があります。中身を知りませんでした。だから、今度は中身を知りたいです」


 エリアナは黙る。


 そして、ゆっくり頷いた。


「はい。知ろうとしてください」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 今日もまた、問題は増えた。


 接収資料庫。


 個人手帳類三。


 灰色封箱。


 監察局補助室。


 封信蔦の情報源。


 どれも重い。


 でも、手順はある。


 求める情報と渡してはいけない情報を分ける。


 感情を消さず、判決にしない。


 名前を探しながら、雑に名づけない。


 ユリウスが照会案をまとめた。


「今日の確認はここまでにしよう。照会文は僕とエレオノーラで草案を作る。ミリア、リゼ、エリアナさん、アルト君にも確認を取る。カイにも見せる」


 カイが驚く。


「俺も?」


「君の“わかりにくいところ”は重要だ。照会文が不自然に便利な言葉へ逃げていないか、見てほしい」


 カイは少し緊張した顔で頷いた。


「わかりました」


 ミリアが微笑む。


「頼りにされているわね」


「急に重い」


「ええ。少し重いわ」


 エリアナが、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 生徒会室を出ると、廊下には午後の終わりの光が差していた。


 窓の外の青い布は、今日も風に揺れている。


 鐘は鳴らない。


 それでも、遠くから生徒たちの声が届く。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。確認終了後」


 リゼが続ける。


「身体異常なし。感情、重い。灰色封箱の記憶あり。確認したいです」


 エリアナも言った。


「身体異常なし。疲労あり。感情、怒り、不快、怖さ。個人手帳類三という表現は嫌です。でも、所在確認を望みます」


 ミリアが頷く。


「良好よ」


 カイが布包みを持ち上げた。


 ミリアが尋ねる。


「名前は?」


 カイは少し考えた。


「奪われた箱を勝手に開けない用」


 エリアナがその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。


 リゼも静かに頷く。


「適切です」


 カイは少し不安そうにエリアナを見る。


「嫌だったら変えます」


 エリアナは首を横に振った。


「いいえ。今日は、それがよいです」


 布包みの中には、小さな焼き菓子と香草パンの欠けが入っていた。


 アルトは成分を読み上げる。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版です」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 廊下の窓辺で、五人は少しずつ食べた。


 香草パンはまた少し硬くなっている。


 でも、噛めば香りが出る。


 蜂蜜の甘さ。


 香草の苦味。


 遠くから近づいてくる香り。


 エリアナはその欠けを見つめて、静かに言った。


「母の手帳かもしれないものを、王宮に探してもらうことになるのですね」


 ミリアが答える。


「学園が照会するわ。王宮に任せきりにはしない」


「はい」


 リゼが言う。


「私の記録も照合します。一人では行いません」


「はい」


 アルトも言った。


「僕の反応も、渡しません。でも、必要なら学園の中で確認します」


 エリアナは少しだけ頷いた。


「同じ箱には入らない。でも、近くの棚には置く」


 カイが少し驚いた顔をする。


「それ、俺のやつですか」


「はい。借りました」


 カイは嬉しそうに笑いかけ、すぐに声を抑えた。


「どうぞ」


 リゼが真面目に言う。


「比喩の共有、良好です」


 ミリアが笑った。


 その小さな笑いが、廊下に届く。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 王宮の資料庫には、閉じられた箱がある。


 奪われたかもしれない手帳がある。


 誰かの祈りを歪めた術式の出どころがあるかもしれない。


 けれど、ここには開け方を確認する人たちがいる。


 勝手に開けない。


 勝手に決めない。


 必要なら、本人の声を聞く。


 閉じた資料庫へ向かうための最初の鍵は、銀環ではなく、その確認だった。


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