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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第7章 第16話:同じ箱には入らない


 学園長室の扉が開くまでの数秒が、アルト・レインフォードにはやけに長く感じられた。


 廊下には、午後の光が斜めに差している。


 窓の外では、青い布で塞がれた鐘楼への道が風に揺れていた。布の端がひらりとめくれ、また戻る。


 鐘は鳴らない。


 それでも、アルトの左手首は少し熱い。


 痛みはない。


 声もない。


 ただ、王宮からの文書を読んだ時の嫌な感覚が、まだ布の下に残っていた。


 相互反応を示す保護対象二名。


 その言葉は、紙の上に書かれただけの分類だった。


 けれど、紙の上の言葉は人を動かす。


 行動範囲を決める。


 会わせる人を決める。


 会わせない人を決める。


 反応を記録し、危険を判定し、本人の声より先に意味を与える。


 だからこそ、あの言葉はただの言葉ではなかった。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。学園長室前」


 隣に立つエリアナ・ルクス・ヴェルグラントが、それを聞いて自分の手をそっと重ねた。


「身体異常なし。疲労あり。感情、緊張。怒りはまだ少しあります」


 リゼ・グレイスが頷く。


「良好です」


 その言葉に、エリアナは以前より自然に頷いた。


「はい」


 カイ・ロックハートは扉の前で腕を組みかけて、やめた。


「今、腕組んだら威圧っぽいか?」


 ミリア・ファルネーゼが微笑む。


「少し」


「じゃあやめる」


「良好です」


 リゼが真面目に言う。


「俺も良好になった」


 その小さなやり取りで、アルトの胸の硬さが少しだけ緩んだ。


 怖い文書を前にしても、いつもの声がある。


 それは大事だった。


 ユリウス・エインズワースが扉を叩く。


「ユリウスです。王宮監察局補助室からの照会文書および学園側回答草案を持参しました」


 中から学園長の声が返る。


「入れ」


 扉が開く。


 学園長室には、学園長とロウ教師がいた。


 クラウス・ヴァイゼルも一度先に入っていたらしく、窓際に立っている。


 机の上には、すでに数枚の資料が置かれていた。


 王宮からの文書の写し。


 学園祭襲撃後の報告書。


 白鐘関連断片の暫定整理。


 そして、アルトとエリアナの本人発言を含む回答草案。


 学園長は全員が入るのを待ち、視線を一人ずつ確認した。


「座れ。立ったまま聞く内容ではない」


 椅子が用意されていた。


 アルトとエリアナは隣同士ではなく、机を挟んで斜め向かいに座る配置だった。


 近すぎず、離れすぎない。


 一組の観察対象として並べられないように。


 でも、互いの顔が見えるように。


 その配置に、アルトは少し安心した。


 エリアナも気づいたのか、椅子に座る前に少しだけ視線を動かした。


「配置意図、確認しました」


 彼女が小さく言う。


 ミリアが微笑む。


「気づいたのね」


「はい。不快ではありません」


 エレオノーラ・ヴィンスフェルトが記録板を構える。


「配置意図確認。不快なし」


 カイが小声で言った。


「記録される配置」


 ロウ教師が短く言う。


「黙って座れ」


「はい」


 カイは素直に座った。


 学園長はユリウスから草案を受け取った。


 目を通す。


 部屋は静かだった。


 紙をめくる音だけが響く。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 学園長の眉は一度も動かなかった。


 最後まで読み終えると、彼は紙を机に置いた。


「結論から言う。学園として、この草案の方針を採用する」


 アルトの胸が少し軽くなった。


 エリアナの指先も、ほんの少し緩んだ。


 だが、学園長は続ける。


「ただし、文面はさらに強くする」


 ユリウスが顔を上げる。


「強く、ですか」


「そうだ」


 学園長は王宮からの文書を指先で叩いた。


「“相互反応を示す保護対象二名”。この表現は、単なる不適切表現ではない。学園の基本方針に対する明確な侵害だ」


 室内の空気が引き締まる。


 ロウ教師が腕を組む。


「二人を同じ箱に入れるな、ということだ」


 カイが小さく反応した。


 自分の言葉が、ロウ教師の口から出たからだ。


 学園長は頷く。


「その通りだ。王宮が管理上の利便性で分類したい事情は理解する。だが、学園内の生徒を、本人意思を飛ばして一括管理の対象にすることは認めない」


 アルトは机の下で手を握った。


 生徒。


 学園長は、まずその言葉を使った。


 保護対象より先に。


 王家血統より先に。


 銀環より先に。


 エリアナを見ると、彼女も静かに学園長を見ていた。


 学園長は文書を手に取る。


「エリアナ・ルクス・ヴェルグラント」


「はい」


「君は王立学園の短期留学生であり、隣国外交局保護下にある。王宮との取り決め上、完全に自由な立場ではない」


「はい」


「だが、この学園にいる間、君は保護観察対象だけではない」


 エリアナの瞳が少し揺れる。


「はい」


「アルト・レインフォード」


「はい」


「君も、保護対象であり、銀環を持ち、王家血統に関わる可能性がある。王宮の関心が向くのは避けられない」


「はい」


「だが、君も対象だけではない」


 アルトは頷いた。


「はい。僕は、対象だけではありません」


 言えた。


 何度も言ってきた言葉だ。


 けれど、学園長室で、王宮文書を前に、改めて言うと少し違った重さがあった。


 学園長は二人を見た。


「二人を同じ箱には入れない」


 その言葉は、部屋の中央にまっすぐ落ちた。


「反応がある。接触がある。白鐘に関する知識と身体反応が交差する。だからといって、二人を一組の実験対象として扱うことはない」


 エリアナが息を吸った。


「ありがとうございます」


「礼を言う前に、確認しておくことがある」


 学園長は厳しい声で言った。


「この回答を出せば、王宮側は反発する。追加照会、直接面談要求、場合によっては臨時立会人の派遣もあり得る。君たちの発言は、王宮文書の中で引用される可能性がある」


 アルトの左手首が少し熱を持つ。


 痛みはない。


 声なし。


 エリアナの指も硬くなる。


 学園長は続ける。


「それでも、本人発言を回答に入れるか。最終確認だ」


 部屋が静かになる。


 アルトは草案の中の自分の言葉を思い出した。


 僕たちは実験ではありません。


 エリアナさんの故国の味まで、反応記録にされるのが嫌です。


 反応は情報です。でも、判決ではありません。


 それを王宮へ出す。


 怖くないわけがない。


 でも、出さなければ、王宮の文書だけが残る。


 相互反応を示す保護対象二名。


 その言葉に、自分たちの声が負ける。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。怖いです」


 リゼが頷く。


「はい」


「でも、僕の発言を入れてください」


 学園長が見つめる。


「理由は」


「僕のことを、僕のいないところだけで決めないでほしいからです」


 声は震えなかった。


 アルト自身が少し驚くくらい、まっすぐ出た。


「僕は白鐘に反応します。銀環もあります。でも、実験ではありません。王宮が僕の反応を必要とするなら、僕の声も一緒に扱ってほしいです」


 学園長は頷いた。


「記録」


 エレオノーラのペンが走る。


 次に、学園長はエリアナを見る。


「エリアナ」


 エリアナはゆっくり顔を上げた。


「はい」


「君はどうする」


 エリアナの手は、机の上で重なっている。


 その指先は少し白い。


 それでも、彼女は逃げなかった。


「怖いです」


 最初に、そう言った。


「王宮文書の中に、私の言葉が入ることが怖いです。母の記憶や故国の味が、また別の意味に変えられるのではないかと思います」


 ミリアが静かに見守っている。


 リゼも、カイも、アルトも、誰も急かさない。


 エリアナは続けた。


「ですが、私の言葉を入れなければ、私は“保護観察対象”のままです。香草パンも、母の言葉も、私が食べたいと思ったことも、すべて誰かの記録の材料にされるだけです」


 薄紫の瞳が、まっすぐ学園長を見る。


「入れてください」


 声は静かだった。


「私は、実験ではありません」


 学園長は深く頷いた。


「承認した」


 エレオノーラが記録する。


「アルトさん、本人発言挿入を希望。エリアナさん、本人発言挿入を希望。双方、最終確認済み」


 カイが小さく息を吐いた。


「強いな」


 今度はエリアナも、その言葉に少しだけ目元を緩めた。


「怖いです」


「怖くても言ったら、強いです」


「……はい」


 リゼが静かに言う。


「非常に良好です」


 カイがすぐに反応する。


「今日は俺じゃなくてエリアナさんだな」


「はい」


 エリアナは少しだけ笑った。


 学園長は王宮への正式回答文を作るため、ユリウスとエレオノーラに修正を指示した。


 文面は明確になった。


 一括分類の拒否。


 本人意思の個別確認。


 身体反応を危険判定の単独根拠にしないこと。


 香草パン試作および故国の祝祭記憶を反応実験記録として扱わないこと。


 必要な安全情報は学園内で管理し、王宮へは要約のみ共有すること。


 王宮が直接面談を求める場合は、学園長立会いと本人同意を必須とすること。


 そして、最後に学園長は自ら一文を加えた。


 両名は、同じ箱に収められる対象ではなく、それぞれの名と意思を持つ生徒である。


 その文を聞いた時、アルトの左手首の熱がすっと下がった。


 痛みはない。


 声もない。


 ただ、胸の奥が少し温かくなった。


 エリアナも、その文をじっと見ていた。


「それは」


 彼女は小さく言った。


「学園長の言葉ですか」


 学園長は頷く。


「学園の方針だ。そして、私の意思でもある」


 エリアナは少しだけ目を伏せた。


「受け取ります」


「受け取っておけ」


 ロウ教師が横から言った。


「重すぎると思ったら、後で文句を言え」


 エリアナが少し驚いた顔をする。


「文句を」


「言葉が合わん場合もある。方針は押しつけられるものではない」


 エリアナはしばらく考えた。


「今は、合っています」


「ならよし」


 そのやり取りで、部屋の空気が少しだけ緩んだ。


 正式回答は学園長名義でその日のうちに発送されることになった。


 ただし、王宮に渡す前に、本人発言部分の写しがアルトとエリアナへ渡される。


 自分の言葉が、どう書かれて出ていくのかを確認するために。


 それもまた、学園長の判断だった。


 確認が終わった頃、アルトは少し疲れていた。


 エリアナも、背筋は伸びているが、指先に疲労が出ている。


 ミリアはそれを見て、すぐに言った。


「休憩が必要ね」


 カイが待っていたように布包みを取り出す。


 ロウ教師が眉を上げる。


「学園長室で食う気か」


 カイが固まる。


「駄目ですか」


「普通は駄目だ」


 学園長がため息をついた。


「今回だけだ。机を汚すな」


 カイの顔が明るくなる。


「ありがとうございます!」


 ミリアが即座に言う。


「声」


「ありがとうございます」


 カイは小声で言い直した。


 リゼが頷く。


「良好です」


 布包みの中には、いつもの焼き菓子と、香草パンの改良試作品が少し入っていた。


 昨日の夕方、調理主任が短時間で焼いてくれたものだ。


 蜂蜜を減らし、香草候補三を少し増やした。


 エリアナがまだ香草を砕く段階には入っていないので、正式な次回試作ではない。


 けれど、味の方向を確認するための小さな試作。


 アルトは成分表示を読み上げた。


「小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版です」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 カイは香草パンをエリアナへ差し出す。


「同じ箱には入らない用」


 その名前に、部屋の全員が一瞬黙った。


 ミリアが少しだけ笑う。


「今日の名前としては、正しいわね」


 エリアナは小さなパンを受け取った。


「同じ箱には入らない用」


 彼女は繰り返した。


「はい。それでお願いします」


 アルトも焼き菓子を受け取る。


 リゼも、ミリアも、カイも。


 学園長は食べなかったが、止めもしなかった。


 ロウ教師は腕を組んだまま、なぜか一つ受け取っていた。


「先生も食べるんですか」


 カイが小声で聞く。


「検分だ」


「味見ですよね」


「検分だ」


 エリアナは香草パンを小さく割った。


 湯気はない。


 冷めている。


 けれど、香りは残っていた。


 前回より甘さが少し控えめで、香草の奥にある苦味が柔らかい。


 エリアナは香りを確かめ、口に入れた。


 少し噛む。


 飲み込む。


 沈黙。


 カイが息を止めている。


 エリアナはゆっくり言った。


「近づきました」


 カイの顔がぱっと明るくなる。


「本当ですか」


「はい。蜂蜜は、このくらいの方がよいです。ただ、香草候補三はもう少し細かく砕いた方がよいかもしれません」


 カイが深く頷く。


「次、エリアナさんが砕く」


 エリアナは少しだけ頷いた。


「はい。次は、私が砕きます」


 その言葉は、学園長室の中に小さな灯のように置かれた。


 王宮への回答文。


 同じ箱に入れないという拒否。


 その直後に、次は自分が香草を砕くと言えること。


 それは、分類への反論と同じくらい大事な本人意思だった。


 学園長もその意味を理解したのか、静かに頷いた。


「料理記録として残せ」


 エレオノーラが少しだけ目を開く。


「はい」


 ロウ教師が香草パンを食べ、短く言った。


「悪くない」


 カイが嬉しそうに拳を握った。


「よし」


「だが蜂蜜を減らした分、焼きが少し強い」


 カイが固まる。


「そこまでわかるんですか」


「舌はある」


 ミリアが笑った。


 エリアナも、ほんの少し笑った。


 アルトはその笑顔を見て、左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。同じ箱には入らない用を食べています」


 エリアナも、少し間を置いて言った。


「身体異常なし。疲労あり。感情、少し落ち着いています。次に香草を砕くことを考えています」


 リゼが静かに頷く。


「非常に良好です」


 休憩の後、学園長室を出る時には、午後の光がさらに傾いていた。


 廊下は少し静かだ。


 授業中なのだろう。


 窓の外の中庭には、数人の生徒が資料を抱えて歩いているだけだった。


 アルトたちは、生徒会室へ戻る前に、少しだけ中庭を通る許可を得た。


 エリアナの行動範囲は、学園側同席者ありで中庭まで。


 今日の同席者はリゼ、ミリア、ユリウス。


 アルトとカイは同行。


 エレオノーラは記録板を持ったまま少し後ろを歩く。


 中庭の空気は冷たかった。


 芝生の上には、学園祭の跡がもうほとんどない。


 小さな灯の焼き菓子店があった場所も、ただの芝生に戻っている。


 だが、アルトにはそこに看板が見える気がした。


 小さな灯。


 怖い記憶だけで終わらせなかった日。


 エリアナはその場所を見て、静かに言った。


「ここで、焼き菓子を売ったのですね」


「はい」


 アルトが答える。


「看板がありました。成分表示も」


 カイが胸を張る。


「完売しました」


「六十個ですね」


 エリアナが言う。


 カイが驚いた顔をした。


「覚えてたんですか」


「聞きました」


「すごい」


 エリアナの目元が少し緩む。


「記録するほどではありません」


 エレオノーラが一瞬だけペンを止めた。


 カイが慌てて言う。


「今のは記録しないでいいです」


「はい。会話として保持します」


「保持はするんだな」


 ミリアが笑った。


 リゼは中庭の向こう、鐘楼へ続く道の方を見ていた。


 青い布が風に揺れている。


 その先には、未調査の痕跡がまだ残っている。


 小鐘。


 黒変紙片。


 実行犯。


 旧王宮式に似た封片。


 王宮からの照会。


 白鐘。


 まだ何も終わっていない。


 だが、リゼの視線はその先へ行きすぎてはいなかった。


 今は、中庭にいる。


 アルトが隣にいる。


 エリアナがいる。


 ミリアとカイがいる。


 戻る場所を確認しながら先を見る。


 それが、今のリゼだった。


 その時、ユリウスが懐から別の封筒を取り出した。


 白い封筒ではない。


 古い茶色の紙封筒。


 封蝋はない。


 エリアナがそれを見ると、表情が少し変わった。


「それは」


 ユリウスは頷いた。


「昨日、隣国外交局のハルベルト氏から学園長宛に届いたものだ。王宮文書とは別件として保留していた」


 アルトの左手首が少し熱を持つ。


 痛みはない。


 声なし。


 ミリアの表情が引き締まる。


「今、開いてよい内容ですか」


「表題だけ共有する。詳細は、学園長、ロウ先生、クラウス卿を交えて確認する必要がある」


 ユリウスは封筒の表を見た。


「旧ヴェルグラント北部、白鐘関連遺構候補地について」


 エリアナの息が止まった。


 リゼの灰銀の瞳が鋭くなる。


 アルトの左手首が熱を帯びる。


 痛みはない。


 だが、胸が強く反応した。


「痛みなし。熱中。声なし。旧ヴェルグラント北部、白鐘関連遺構候補地で反応しました」


 リゼがすぐにアルトを見る。


「継続可能ですか」


「はい。聞けます」


 ユリウスは慎重に続けた。


「ハルベルト氏によれば、旧ヴェルグラント北部に、白鐘礼拝堂の分祠または関連遺構と見られる地点がある。戦後、地元記録では失われた扱いになっていたが、最近になって外交局保護資料の中から位置記録の断片が見つかった」


 エリアナは、ゆっくり言った。


「母方の記録ですか」


「可能性がある。ただし、断定はできない」


 ユリウスは封筒の中身をまだ出さない。


 表題だけ。


 それでも十分だった。


 リゼの表情が変わっている。


 アルトはそれに気づいた。


「リゼさん?」


 リゼは封筒を見ていた。


「旧ヴェルグラント北部」


「はい」


「北西街道の封鎖線と、近い可能性があります」


 空気が冷えた。


 北西街道。


 第9話の王国史で扱った地図。


 リゼが戦時中に関与した可能性のある補給線と封鎖区域。


 エリアナの過去と繋がる場所。


 そして、白鐘関連遺構候補地。


 アルトの左手首が熱い。


 痛みはまだない。


 声もない。


 でも、銀環の奥が静かに震えているようだった。


 ユリウスは頷く。


「その可能性がある。だから、今ここで詳細を開けない」


 ミリアがすぐに言う。


「負荷が高すぎるわ」


「そうだ」


 ユリウスは封筒を閉じ直した。


「ただ、エリアナさんには表題だけでも共有すべきと判断した。彼女の故国と母方の記録に関わる可能性があるから」


 エリアナは封筒を見つめていた。


 薄紫の瞳が揺れている。


「私の知らないところで、また故国の記録が扱われるのは嫌です」


「だから共有した」


「はい」


 エリアナは小さく息を吸った。


「ありがとうございます」


 リゼが静かに言った。


「確認します」


 その言葉に、全員がリゼを見る。


 リゼはすぐに言い直した。


「いいえ。確認したいです」


 ロウ教師がいれば、そこで頷いただろう。


 リゼは続けた。


「旧ヴェルグラント北部の遺構候補地と、私が関与した北西街道封鎖線が一致する可能性があります。私は、その記録を確認したいです」


 エリアナがリゼを見る。


 その目には警戒があった。


 痛みもあった。


 だが、拒絶だけではなかった。


「あなたは、また全部背負おうとしていませんか」


 リゼは少しだけ黙った。


 そして答えた。


「その反応があります」


 正直な返答だった。


「ですが、全部を背負うためではなく、見なかったことにしないために確認します」


 エリアナはじっとリゼを見る。


「私の故国の記録です」


「はい」


「私の母方の記録かもしれません」


「はい」


「あなたの戦場記録でもあるかもしれません」


「はい」


 エリアナは少しだけ息を吐く。


「一人で行かないでください」


 リゼの目がわずかに開いた。


 アルトも、胸が温かくなった。


 エリアナは続けた。


「一人で確認して、あなたの記録だけにしないでください」


 リゼは静かに頷いた。


「はい。一人では行きません」


 エリアナの指が少し緩む。


「私も、今すぐ行けるとは言えません」


「はい」


「怖いです」


「はい」


「でも、知らないまま王宮や外交局の文書だけで扱われるのは、もっと嫌です」


 アルトは左手首に触れた。


 熱中。


 痛みなし。


 声なし。


 エリアナの言葉は、自分にも響く。


 自分のいないところだけで、自分のことを決めないでほしい。


 エリアナも、同じように故国の記録を扱われたくないのだ。


 同じではない。


 でも、少し似ている。


 ユリウスが言う。


「まずは資料確認だ。現地へ行く話ではない。学園長、ロウ先生、クラウス卿、ハルベルト氏を交えて、写しを確認する。そのうえで、本人同席範囲を決める」


 ミリアが頷く。


「そして、アルトさんの銀環反応も考慮する。でも、現地情報を聞くだけで隔離や移送の理由にしない」


 リゼが続ける。


「反応は情報であり、判決ではありません」


 アルトが頷く。


「はい」


 エリアナも静かに言った。


「情報の性質を間違えない」


 カイがぽつりと言う。


「同じ箱には入らない」


 その言葉に、全員の視線が集まった。


 カイは少し照れたように首をすくめた。


「いや、今のもそうだろ。リゼの戦場記録、エリアナさんの故国の記録、アルトの銀環反応、白鐘の遺構。全部一緒にして箱に詰めたら駄目だろ」


 ミリアが柔らかく笑った。


「その通りね」


 カイは少し得意げになる。


「だろ」


 リゼが真面目に頷く。


「非常に適切です」


「非常に出た」


 エリアナが、そのやり取りを見てほんの少し笑った。


 中庭の風が、香草パンの残り香をほとんど消していく。


 だが、完全には消えない。


 指先に、まだ少しだけ甘く苦い匂いが残っている。


 アルトは空を見上げた。


 雲の隙間から、薄い光が落ちている。


 白鐘礼拝堂。


 王の血を拒む扉。


 孤独な音。


 帰る音。


 旧ヴェルグラント北部の遺構。


 北西街道の封鎖線。


 次に向かう道は、きっと今までより暗い。


 リゼの戦場と、エリアナの故国と、アルトの銀環が、同じ場所で交差するかもしれない。


 それは怖い。


 だが、今は一人ではない。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。中庭にいます」


 リゼが頷く。


「私は、リゼ・グレイスです。王立学園の生徒です。確認したい記録があります。一人では行きません」


 エリアナも続けた。


「私は、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントです。保護観察対象だけではありません。故国の記録を、私のいないところだけで決められたくありません」


 アルトは息を吸った。


「僕は、アルト・レインフォードです。鍵だけではありません。反応があっても、僕のいないところだけで決めないでください」


 ミリアが静かに微笑む。


「私はミリア・ファルネーゼ。記録と関係の境目を、できるだけ整えます」


 カイが少し迷ってから言った。


「俺はカイ・ロックハート。突撃しないで確認します。あと、香草パンを次はもっと近づけます」


 リゼが言う。


「非常に良好です」


 エリアナが小さく笑う。


「はい。良好です」


 その時、遠くの廊下から生徒会補助の声が聞こえた。


「午後三時限目、終了です」


 鐘は鳴らない。


 けれど、声は届いた。


 中庭にいる五人と、その周りにいる人たちは、その声で時間を知る。


 白鐘ではない。


 封印の音でもない。


 人の声。


 帰る音を見失わないための、今の学園の音。


 ユリウスは封筒を胸元にしまった。


「資料確認は、今日の夕方。本人同席範囲は改めて確認する」


 アルトは頷く。


「はい」


 エリアナも頷いた。


「はい」


 リゼは中庭の向こうを見た。


 遠い北西街道は、ここから見えない。


 旧ヴェルグラントの遺構も見えない。


 だが、そこへ続く線が、今、確かに現れた。


 リゼは静かに言った。


「確認します」


 そして、すぐに言い直した。


「確認したいです。一人では、行きません」


 エリアナが頷く。


「私も、同席範囲を確認します」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 同じ箱には入らない。


 けれど、同じ場所に立つことはできる。


 それぞれの名と意思を持ったまま。


 中庭の風が、青い布をもう一度揺らした。


 鐘は、まだ鳴らなかった。


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