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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第8章 第1話:北西街道の封筒


 茶色い封筒は、学園長室の机の中央に置かれていた。


 王宮から届く白い封筒とは違う。


 硬い封蝋も、監察局の印もない。紙は古く、角が少しだけ擦れている。表面には几帳面な字で、ただ一行だけ記されていた。


 旧ヴェルグラント北部、白鐘関連遺構候補地について。


 その文字を見てから、アルト・レインフォードの左手首はずっと薄く温かい。


 痛みはない。


 声もない。


 けれど、布の下の銀環が、遠くの何かに気づいているような熱を持っていた。


「痛みなし。熱少し。声なし。現在地、学園長室」


 アルトが小さく確認すると、隣に立っていたリゼ・グレイスが頷いた。


「良好です」


 リゼの声はいつも通り静かだった。


 だが、視線は封筒に向いている。


 灰銀の髪はきっちり整っている。姿勢も乱れていない。剣には触れていない。記録帳もまだ開いていない。


 それでも、アルトにはわかった。


 リゼは緊張している。


 あの封筒は、白鐘の謎だけではない。


 旧ヴェルグラント北部。


 北西街道。


 リゼがかつて戦場として歩いた可能性のある場所。


 第7章の最後に、ユリウス・エインズワースがその表題だけを告げた時、リゼはすぐに言った。


 確認したいです。


 一人では行きません。


 その言葉から、まだ一日しか経っていない。


 けれど、学園長室の空気は、その一日の間にさらに重くなっていた。


 机の向こうには学園長が座っている。


 横にはロウ教師。


 ユリウスは封筒の横に資料整理用の白紙を並べている。


 エレオノーラ・ヴィンスフェルトは記録板を持ち、ペン先を紙から少し浮かせて待っていた。


 クラウス・ヴァイゼルは窓際に立っている。


 白鐘や封印に関わる話である以上、彼の同席は避けられなかった。


 ただし、今日は王宮側としてではなく、学園に依頼された確認者としての立場だ。


 ミリア・ファルネーゼは、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントの少し斜め後ろに座っている。


 近すぎず、遠すぎない位置。


 カイ・ロックハートは椅子に座っているが、足が落ち着かない。


 本人も自覚しているらしく、机の下で何度もつま先を止めていた。


 そして、エリアナ。


 彼女は封筒を見ていた。


 薄紫の瞳は静かで、顔色も大きくは変わらない。


 だが、机の上で重ねた指が硬い。


 淡い亜麻色の髪はいつも通り丁寧にまとめられている。制服も乱れていない。


 それでも、彼女の周りだけ空気が少し冷えているように感じた。


 旧ヴェルグラント北部。


 それは彼女の故国の名前だった。


 王国の地図上では、すでに別の管理名で呼ばれている場所も多い。


 しかし、エリアナにとってはただの地図ではない。


 母方の記録。


 白鐘の祝祭。


 香草と蜂蜜のパン。


 鳴らさない鐘。


 そして、敗戦後に接収されたかもしれない記憶。


 その一部が、今、茶色い封筒の中にある。


 学園長が全員を見渡した。


「開封前に確認する」


 低い声が室内に落ちる。


「この封筒の中身は、旧ヴェルグラント北部の白鐘関連遺構候補地に関する資料だ。隣国外交局のハルベルト氏から、学園長宛に提出された。王宮監察局からのものではない」


 エリアナの指がわずかに緩んだ。


 王宮ではない。


 それだけで、少し呼吸が変わる。


 学園長は続ける。


「ただし、内容が白鐘、旧ヴェルグラント王家、戦時記録、アルトの銀環、リゼの戦時任務に接続する可能性がある。負荷は高い」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


「中止はいつでも可能だ。資料の全文を今日読む必要はない。表題、地図、地名、符号の確認に留めることもできる」


 学園長の視線がまずエリアナへ向く。


「エリアナ。君は同席を望むか」


 エリアナはすぐには答えなかった。


 封筒を見る。


 それから、自分の手を見る。


 そして、顔を上げた。


「望みます」


 声は静かだった。


「私の故国の記録である可能性があります。私のいないところだけで開かれることの方が、怖いです」


 エレオノーラのペンが動く。


 学園長は頷いた。


「記録した。アルト」


「はい」


「君は」


 アルトは左手首を押さえた。


 銀環は熱い。


 けれど、今は自分の声がある。


「同席します」


「理由は」


「僕の銀環が反応するかもしれないからです。でも、その反応だけで地図の意味を決められたくありません。僕も、ここで確認したいです」


 学園長は頷いた。


「よし。リゼ」


「はい」


「君は」


 リゼは封筒から目を離さず、言った。


「同席します。怖いです」


 室内がほんの少し静かになる。


 リゼが、自分から怖いと言った。


 彼女は続ける。


「旧ヴェルグラント北部と北西街道封鎖線が接続する可能性があります。私の戦時記録と関わる可能性があります。怖いですが、確認したいです。一人では確認しません」


 ミリアが静かに頷いた。


 エリアナも、少しだけリゼを見た。


 学園長は深く頷く。


「よし」


 カイが小さく息を吐いた。


 自分の番を待っていたわけではないのに、なぜか緊張していたらしい。


 ロウ教師が一瞥する。


「ロックハート。足を止めろ」


「止めました」


「今止めたな」


「はい」


 リゼが真面目に言う。


「停止成功、良好です」


「それ今いるか?」


「緊張緩和に有効です」


 ミリアが少しだけ笑った。


 エリアナの目元も、ほんのわずかに緩む。


 その小さな緩みを待っていたように、学園長が封筒に手を置いた。


「開封する」


 古い紙がこすれる音がした。


 封筒の口はすでに一度開けられていたが、中の資料は薄紙に包まれている。


 学園長は丁寧にそれを取り出した。


 一枚目は、写しの地図だった。


 古い地図を写し直したものらしく、線はやや粗い。


 山の稜線。


 街道。


 谷。


 村落らしき印。


 そして、端に小さく描かれた鐘と蔦の印。


 アルトの左手首が熱を持った。


 痛みはない。


 声もない。


「痛みなし。熱中より弱い。声なし。鐘と蔦の印で反応しました」


 リゼが即座に確認する。


「継続可能ですか」


「はい」


 エリアナも地図を見て、息を止めた。


 ミリアがすぐに声をかける。


「エリアナさん」


 エリアナは少し遅れて答えた。


「身体異常なし。感情、緊張。見覚えはありません。ですが、母の話に出た印と似ています」


 エレオノーラが記録する。


 学園長は地図を机の中央へ置いた。


 その上に、透明な保護板を重ねる。


 手で直接触れないためだ。


 ユリウスが別の紙を取り出す。


「ハルベルト氏の添付説明によると、この地図は旧ヴェルグラント北部の地方礼拝堂配置記録の断片です。原本は損傷しており、これは外交局保護資料内の写し。年代は戦前または戦中直前」


 クラウスが地図を覗き込む。


「白鐘と蔦の印がある。白鐘紙工房の透かしと意匠が近いな」


 アルトの左手首がまた温かくなる。


 白鐘紙工房。


 自分の出生記録にも関わっていた可能性のある名。


 白鐘は、いつもどこかで繋がる。


 自分だけではなく、エリアナの故国とも。


 リゼの戦場とも。


 それが怖かった。


 ユリウスは続けた。


「印の横に、旧地名らしき記述があります。読み取りは不完全ですが、ハルベルト氏は“鳴らさぬ谷”と推定しています」


 その言葉で、アルトの銀環がはっきり熱を持った。


 痛みはない。


 熱は中。


 声はない。


「痛みなし。熱中。声なし。“鳴らさぬ谷”で反応しました」


 エリアナの指も硬くなる。


「鳴らさぬ谷」


 彼女は小さく繰り返した。


「故国語では、たぶん……鐘を呼ばない谷、に近い意味です」


 ロウ教師が問う。


「知っている地名か」


 エリアナは首を横に振った。


「直接は知りません。でも、“鳴らさない祝祭”に近い言葉です」


 ミリアが静かに言う。


「白鐘礼拝堂の鳴らさない儀礼と繋がる可能性があるわね」


 クラウスが頷く。


「高い。少なくとも、王国資料にある“鐘を鳴らす境界儀礼”だけでは説明しにくい地名だ」


 リゼは地図を見ていた。


 じっと。


 呼吸が浅くなっているわけではない。


 でも、瞳が少しだけ戦場へ行きかけている。


 アルトはそれに気づいた。


「リゼさん」


「はい」


「状態は」


 リゼは瞬きをした。


 戻ってくる。


「身体異常なし。感情、緊張。地図の街道線に見覚えがあります」


 室内が静まる。


 学園長が静かに問う。


「どの線だ」


 リゼは地図の端へ視線を向ける。


 指で示そうとして、止める。


 直接触れないために、ユリウスが細い指示棒を渡した。


 リゼはそれを受け取り、地図の西側から谷へ伸びる線を指した。


「この街道線です。王国軍記録では、北西第三補給枝道と呼ばれていました」


 エリアナの目がリゼへ向く。


「北西第三補給枝道」


 リゼは頷いた。


「はい。私が見た地図では、その名前でした」


「鳴らさぬ谷ではなく」


「はい」


 その返答が、机の上に落ちる。


 同じ場所。


 違う名前。


 王国軍にとっては、敵補給線の枝道。


 旧ヴェルグラント側では、鳴らさぬ谷。


 名前が違うだけで、地図の色が変わる。


 アルトは自分の名前を思い出した。


 エルディア・レインフォード。


 アルト。


 鍵。


 保護対象。


 同じ人でも、呼ばれ方で意味が変わる。


 場所も同じなのだ。


 ロウ教師が低く言った。


「地名の上書きだな」


 ミリアが静かに頷く。


「王国軍記録では、軍事上の役割名が残った。旧地名は消えた」


 エリアナは地図を見ている。


「名前が消えると、そこで何をしていた場所かも消えます」


「はい」


 リゼは言った。


 声は少し硬い。


「私は、この場所を補給枝道として記録しました。鳴らさぬ谷としては、見ていませんでした」


 エリアナはすぐには答えなかった。


 その沈黙は、責めているようでもあり、言葉を選んでいるようでもあった。


 やがて、彼女は静かに言った。


「あなたがそう見たことは、事実なのでしょう」


「はい」


「でも、私の故国では、別の名前があった」


「はい」


「その別の名前を、今は消さないでください」


 リゼは深く頷いた。


「消しません」


 エレオノーラが記録する。


「同一地点について、王国軍記録名“北西第三補給枝道”、旧地名推定“鳴らさぬ谷”。旧名を消さないこと、本人間で確認」


 カイが小さく言った。


「地名も名前なんだな」


 ロウ教師が頷く。


「そうだ。だから扱いを間違えると、人と同じように傷つける」


 カイは少し黙った。


「じゃあ、鳴らさぬ谷って呼んだ方がいいのか?」


 ミリアが答える。


「場面によるわ。王国軍記録を照合する時は、北西第三補給枝道という名も必要。旧記録を見る時は、鳴らさぬ谷が必要。どちらか一つにしてしまうと、また消えるものが出る」


 リゼが頷く。


「併記が適切です」


 エリアナも静かに言った。


「併記なら、受け取れます」


 学園長は地図の下に別紙を置いた。


「併記する。以後この地点は、学園内資料では“鳴らさぬ谷/北西第三補給枝道”と記す」


 エレオノーラがすぐに記録した。


 アルトの左手首の熱が少し下がる。


 痛みなし。


 声なし。


 名前を消さない。


 それだけで、少し落ち着く。


 ユリウスが二枚目の資料を開いた。


 そこには、別の地図があった。


 こちらは王国軍の戦時記録の写しだ。


 線は整っている。


 符号も明確だ。


 補給路、封鎖線、敵軍移動推定、橋、退避地点。


 そして、王国軍の作戦符号。


 リゼの顔がほんの少しだけ硬くなった。


 アルトにも、地図の空気が変わったのがわかった。


 さっきの古い地図は、壊れた祈りの匂いがした。


 今の地図は、命令の匂いがする。


 ロウ教師がリゼを見る。


「見覚えは」


 リゼはすぐに答えなかった。


 数秒。


 その間に、彼女は戦場から現在地へ何度か戻っているように見えた。


「あります」


 静かな声。


「これは、戦時作戦地図の形式です。北西街道封鎖線。私は、少なくとも一部を見ています」


 エリアナの呼吸が少し変わった。


「封鎖線」


 その言葉に、アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みはない。


 声なし。


 リゼは地図の上の赤い線を指示棒でなぞった。


「この線が、当時の王国軍封鎖線です。北西街道から谷へ向かう枝道を塞いでいます」


 ユリウスが古い地図と重ねる。


 透明板越しに、二つの線がほぼ同じ位置を通る。


 鳴らさぬ谷。


 北西第三補給枝道。


 白鐘関連遺構候補地。


 王国軍封鎖線。


 同じ場所へ、線が集まっていく。


 室内に重い沈黙が落ちた。


 カイですら声を出さなかった。


 ミリアはエリアナを見ている。


 リゼも、アルトも、地図を見ている。


 学園長が低く言った。


「一致は完全ではないが、重なりは大きい」


 クラウスが頷く。


「少なくとも偶然とは言い切れない」


 リゼの指が硬くなる。


 彼女は自分でそれに気づいたのか、ゆっくり手を開いた。


「状態」


 アルトが小さく言う。


 リゼは地図から視線を外さずに答えた。


「身体異常なし。感情、重い。戦場記憶の接近あり。ですが、現在地を保持しています」


「名前」


「リゼ・グレイス」


「今は」


「王立学園の生徒です」


 アルトは頷いた。


 エリアナがそのやり取りを聞いていた。


 薄紫の瞳に、複雑な色が浮かぶ。


 リゼを心配しているのか。


 それとも、自分の故国の記録とリゼの戦場記録が重なることに耐えているのか。


 きっと、両方だ。


 ユリウスは三枚目の紙を取り出した。


「地図端の注記です。読み取り可能な部分だけ」


 紙には、古い文字の写しと、隣国外交局による解読メモが添えられている。


 白鐘北……。


 分祠。


 灯皿。


 布覆い。


 鳴らさぬ谷。


 そして、損傷した一文。


 王の……を持ち込むな。


 アルトの左手首が熱くなった。


 痛みが少し走る。


 声はない。


「痛み少し。熱中。声なし。“王の”で反応しました」


 リゼがすぐに確認する。


「中止しますか」


 アルトは息を整える。


「一度、止めてください」


 学園長が即座に言った。


「停止」


 ユリウスは紙を伏せた。


 エリアナも口を閉じる。


 誰も続きを読まない。


 アルトは左手首を押さえて、深く息を吸った。


「現在地、学園長室。名前、アルト・レインフォード。声なし。痛み少し。熱中。感情、怖いです」


 ミリアが静かに言う。


「戻れそう?」


「はい」


 カイが小さく声をかける。


「今、一人じゃない」


 アルトはカイを見る。


「はい」


 リゼが続ける。


「継続可否」


 アルトは少し考えた。


 怖い。


 王の血。


 扉。


 白鐘。


 全部が近づいている。


 でも、今は止めてもらえた。


 止めてもらえるなら、聞ける。


「続けられます。でも、“王の”の後はゆっくりお願いします」


 学園長は頷いた。


「よし。ユリウス、読み上げは一語ずつだ」


 ユリウスが紙を少しだけ開く。


「注記は欠損しています。完全ではありません。推定を含みます」


 エレオノーラが記録する。


「不完全資料。推定扱い」


 ユリウスはゆっくり読んだ。


「王の……を、持ち込むな」


 アルトの左手首が熱い。


 痛み少し。


 声なし。


 エリアナが小さく言った。


「血、ではないでしょうか」


 室内が静まる。


 ユリウスは頷いた。


「ハルベルト氏の推定も、“王の血を持ち込むな”または“王の印を持ち込むな”です」


 クラウスが腕を組む。


「白鐘礼拝堂の“王の血を拒む扉”と繋がる可能性がある」


 ロウ教師が低く言う。


「だが断定するな。欠損だ」


 リゼが頷く。


「推定として扱います」


 エリアナは地図を見つめていた。


「王の血を持ち込むな」


 その声は、少し遠かった。


「それは、王家血統者を拒む言葉ではなく、王の血だけで扉を扱うことを拒む言葉かもしれないと、前に確認しました」


 アルトは頷く。


「はい」


「でも、もしこの場所にその注記があったなら」


 エリアナは言葉を選ぶ。


「この谷は、本当に白鐘の儀礼に関わる場所だったのかもしれません」


 学園長はゆっくり頷いた。


「その可能性は高まった」


 リゼは地図の赤い線を見ている。


 王国軍封鎖線。


 そのすぐ近くにある、白鐘関連遺構候補地。


 鳴らさぬ谷。


 リゼは静かに言った。


「私は、この線を封鎖しました」


 誰も遮らない。


「正確には、封鎖線の一部を維持しました。直接この谷へ入ったかは、まだ記録確認が必要です」


 彼女の声は淡々としている。


 だが、逃げてはいない。


「当時、私はこの場所を白鐘関連遺構として認識していませんでした」


 エリアナが言う。


「でしょうね」


 その言葉は、冷たかった。


 だが、以前ほど突き放す響きではない。


 事実の確認に近い。


 リゼは頷いた。


「はい」


「でも、知らなかっただけで終わらせないでください」


「はい」


「私も、ここが何だったのかを知りません。母方の記録かもしれない。でも、私の記憶にもありません」


「はい」


 エリアナは地図を見る。


「だから、あなたの戦場記録だけにも、王国の封鎖線だけにも、私の故国の祈りだけにも、しないでください」


 リゼは少しだけ息を吸った。


「はい」


 アルトは二人を見ていた。


 同じ地図を、違う痛みで見ている。


 リゼには戦場の線。


 エリアナには故国の消えた名前。


 アルトには白鐘と銀環へ繋がる熱。


 同じ紙。


 違う反応。


 やはり、同じ箱には入らない。


 学園長が言った。


「この地図の扱いを決める」


 全員の視線が集まる。


「一、旧名と王国軍記録名は併記する。二、アルトの銀環反応は参考情報とするが、地図解釈の決定根拠にはしない。三、エリアナの母方記録に関わる可能性があるため、本人確認なしに王宮へ詳細共有しない。四、リゼの戦時記録と照合するが、リゼ個人への責任確定資料として扱わない」


 エレオノーラのペンが走る。


 カイが小さく言った。


「すげえ大事な確認だな」


 ミリアが頷く。


「ええ。ここを間違えると、また全部が一つの箱に入るわ」


 エリアナが静かに言う。


「同じ箱には入らない」


 アルトも頷く。


「はい」


 リゼが続けた。


「情報の性質を間違えません」


 学園長は頷いた。


「そのための手順だ」


 ユリウスが資料の最後の一枚を取り出した。


 薄い紙だった。


 そこには、地図の端から切り取られたような記号が写されている。


 王国軍作戦符号。


 アルトには読めない。


 だが、リゼの顔が変わった。


 わずかに。


 しかし、確かに。


 灰銀の瞳が、その符号を捉えた瞬間、遠い何かを見た。


 リゼは小さく息を吸った。


「これは」


 ロウ教師が問う。


「知っているか」


 リゼはしばらく答えなかった。


 そして、ゆっくり言った。


「私の戦時任務で使用された作戦符号に近いです」


 エリアナの指が硬くなる。


 アルトの左手首も熱くなる。


 痛みなし。


 声なし。


 ユリウスが紙を見下ろす。


「ハルベルト氏のメモでは、この符号は王国軍側の後年追記であり、旧地図原本にはない可能性が高い」


 リゼは頷く。


「はい。これは王国軍記録です」


「読めるか」


 学園長が問う。


 リゼは表情を変えずに言った。


「完全ではありません。ただ、私が知る符号体系なら」


 一度言葉を切る。


「灰銀部隊通過確認、または灰銀支援線の印に近いです」


 部屋の空気が重く沈んだ。


 灰銀。


 その二文字が、地図の上に置かれる。


 エリアナの故国の地図に。


 白鐘関連遺構候補地のそばに。


 鳴らさぬ谷の端に。


 アルトは左手首を押さえた。


 痛みはない。


 熱は中。


 声なし。


 リゼは地図から目を逸らさなかった。


「私は、この符号を確認する必要があります」


 すぐに言い直す。


「確認したいです」


 エリアナが彼女を見た。


「怖いですか」


「はい」


「私もです」


「はい」


「でも、私も確認したいです」


 リゼの瞳がわずかに揺れた。


 エリアナは続ける。


「これは、私の故国の記録です。母方の記録かもしれません。そして、あなたの戦時記録でもあるかもしれません。私たちは、同じものを同じ意味で見ることはできません」


「はい」


「でも、同じ部屋で確認することはできます」


 その言葉に、アルトの胸が温かくなった。


 同じ箱には入らない。


 けれど、同じ部屋で確認できる。


 それは、第7章から続いてきた答えのようだった。


 リゼは静かに頷いた。


「はい。同じ部屋で、確認します」


 学園長は資料を伏せた。


「本日の確認はここまでにする」


 リゼが少し顔を上げる。


 エリアナも。


 だが、学園長は譲らない。


「十分だ。これ以上続ければ、各自の負荷が上がりすぎる。次回は、王国軍記録名と旧地名の照合から始める」


 ロウ教師も頷く。


「ここで止められることも重要だ」


 ミリアが静かに言う。


「ええ。知りたいからといって、一度に全部開けない」


 カイが小さく言う。


「パンと同じだな」


 全員が一瞬彼を見る。


 カイは真面目だった。


「急いで香草潰すと、苦味が出すぎるってエリアナさんが言ってた」


 エリアナが少し目を見開いた。


 それから、ほんの少し笑った。


「はい。急いではいけません」


 リゼが頷く。


「非常に適切な比喩です」


 カイが驚いた顔をする。


「本当に?」


「はい」


 ミリアが微笑む。


「今日のカイは冴えているわ」


 カイは照れたように鼻をこすった。


 重い地図の前で、少しだけ空気が緩んだ。


 それは逃げではなかった。


 止めるための呼吸だった。


 ユリウスが資料を丁寧に包み直す。


 エレオノーラが記録の確認を行う。


 学園長は最後に全員へ言った。


「この資料は、当面学園長管理とする。王宮へは存在のみを要約報告する。内容詳細は出さない。ハルベルト氏にも、次回以降の照合に本人同席範囲を確認すると返す」


 エリアナが頷いた。


「ありがとうございます」


「君の同意なしには、個人記憶としての部分は出さない」


「はい」


 アルトも言った。


「僕の反応も、地図の答えにはしないでください」


 学園長は頷く。


「しない」


 リゼが静かに言う。


「私の戦時記録も、確認前に責任確定資料としないでください」


「しない」


 その一つ一つの確認で、部屋の空気が少しだけ整っていく。


 答えは出ていない。


 むしろ、問題は増えた。


 鳴らさぬ谷。


 北西第三補給枝道。


 白鐘関連遺構候補地。


 王の血を持ち込むな、あるいは王の印を持ち込むな。


 灰銀部隊通過確認に近い作戦符号。


 すべてが、まだ断片だ。


 だが、断片を断片のまま扱う手順がある。


 それが、今の学園にはある。


 学園長室を出た後、廊下の空気が少し冷たく感じられた。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。確認終了後」


 リゼが隣で言った。


「身体異常なし。感情、重い。怖さあり。ですが、中止できました」


 エリアナも、少し遅れて言う。


「身体異常なし。疲労あり。感情、怖いです。でも、私のいないところだけで開かれませんでした」


 ミリアが柔らかく頷く。


「良好ね」


 カイが布包みを取り出した。


 誰も驚かなかった。


 ミリアだけが尋ねる。


「名前は?」


 カイは少し考えた。


「急いで香草を潰さない用」


 エリアナが小さく笑った。


「それは、良い名前です」


 リゼが頷く。


「非常に良好です」


 カイは得意げに布包みを開いた。


 中には小さな焼き菓子と、改良途中の香草パンの欠けが入っている。


 アルトは成分を確認した。


「小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 廊下の窓辺で、五人は小さく休憩した。


 窓の外には中庭が見える。


 青い布が揺れている。


 鐘は鳴らない。


 けれど、遠くで誰かが名前を呼んでいる。


 アルトは焼き菓子を口に入れた。


 甘い。


 いつもの味。


 左手首は痛まない。


 エリアナは香草パンの欠けを少し食べた。


「蜂蜜は、このくらいでよいと思います」


 カイが真剣に頷く。


「次は香草を細かく」


「はい。急がずに」


「急がずに」


 リゼは窓の外を見ていた。


 その横顔に、まだ地図の赤い線が残っているように見えた。


 アルトは声をかける。


「リゼさん」


「はい」


「一人では行きませんよね」


 リゼはアルトを見る。


 そして、静かに頷いた。


「はい。一人では行きません」


 エリアナも言った。


「私も、私の故国の記録を一人で背負いません」


 アルトは左手首に触れた。


「僕も、僕の反応を一人で持ちません」


 ミリアが微笑む。


「確認しました」


 カイが焼き菓子を食べながら言った。


「じゃあ、次も同じ部屋で確認だな」


 リゼが頷く。


「はい」


 エリアナも、少しだけ遅れて頷いた。


「同じ箱ではなく、同じ部屋で」


 その言葉が、廊下の冷たい空気の中に残った。


 同じ箱には入らない。


 けれど、同じ部屋で地図を見ることはできる。


 鳴らさぬ谷と北西第三補給枝道。


 白鐘の印と灰銀の符号。


 故国の記録と戦場の記録。


 それらが重なる場所へ向かうには、まだ多くの確認が必要だった。


 急いではいけない。


 香草を強く潰しすぎると、苦味が出すぎる。


 エリアナの母の言葉が、今は地図の扱いにも当てはまる気がした。


 アルトは最後にもう一度、左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 遠い谷から、まだ鳴らない鐘の気配だけが、静かに残っていた。


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