第7章 第15話:二人の保護対象
その文書が届いたのは、昼前だった。
王立学園の生徒会室には、薄い冬めいた光が差し込んでいた。机の上には通常の申請書と、学園祭後の修繕予定表と、食堂調理場の試作用食材申請書が並んでいる。
その一番上に、硬い封蝋の押された白い封筒が置かれた。
王宮監察局補助室。
封蝋の印を見た瞬間、室内の空気が少し冷えた。
ユリウス・エインズワースは封筒を開く前に、視線を上げた。
「全員、先に確認する。これは王宮からの正式照会だ。内容によっては負荷が高い可能性がある。ここで読むか、学園長室へ移すか、選べる」
机の周りには、アルト・レインフォード、リゼ・グレイス、ミリア・ファルネーゼ、カイ・ロックハート、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントがいた。
エレオノーラ・ヴィンスフェルトは記録板を持っている。
クラウス・ヴァイゼルも同席していた。
王宮側の人物ではあるが、今日は学園から依頼された封印知識の確認者としての立場だった。表情はいつもより苦い。
アルトは左手首に触れた。
痛みはない。
熱は少し。
声はない。
王宮監察局という言葉だけで、銀環が少し温かくなる。
白鐘の時とは違う熱。
紙の向こうから、誰かが自分を測ろうとしているような感覚。
「痛みなし。熱少し上昇。声なし。王宮監察局の文書で緊張しています」
リゼがすぐに頷く。
「確認しました」
エリアナも、自分の手を机の上で重ねた。
「身体異常なし。感情、警戒。文書内容への不安があります」
ミリアが静かに言う。
「ここで読む場合も、途中で止められるわ」
エリアナは頷いた。
「はい。ここで確認します」
アルトも頷く。
「僕も、ここで聞きます」
ユリウスは全員を見た。
「では開封する。内容はまず僕が読む。不適切な表現があれば、その時点で止める」
封蝋が割られる音がした。
小さな音だった。
鐘ではない。
それでも、アルトの左手首が少しだけ熱くなる。
文書を広げたユリウスの眉が、最初の数行でわずかに動いた。
エレオノーラがペンを構える。
クラウスが口を結ぶ。
ユリウスは少しだけ息を吐いた。
「読む」
室内が静まる。
「王宮監察局補助室より、王立学園長宛。先日の白鐘関連事案および旧ヴェルグラント王家傍系留学生受け入れに伴い、学園内におけるアルト・レインフォード氏およびエリアナ・ルクス・ヴェルグラント氏の接触状況、身体反応、発言要約、白鐘関連情報共有範囲について照会する」
アルトの左手首が熱を持つ。
痛みはまだない。
声もない。
エリアナの指がわずかに硬くなる。
接触状況。
身体反応。
発言要約。
白鐘関連情報共有範囲。
ひとつひとつの言葉が、二人を机の上へ並べようとしている。
ミリアの表情が静かに引き締まった。
ユリウスは続けようとして、紙面を見て止まった。
目がさらに冷える。
「ここから表現が悪い。読む前に言っておく。これは学園方針には反する」
アルトは息を吸った。
「聞きます」
エリアナも言う。
「私も聞きます」
ユリウスは頷き、読み上げた。
「なお、両名は白鐘系統情報への反応および相互接触時の安定または変化が確認されている可能性があり、暫定的に“相互反応を示す保護対象二名”として扱う必要がある」
部屋の空気が、凍った。
アルトの左手首に痛みが走った。
鋭くはない。
だが、はっきりした痛み。
熱は中へ上がる。
声はない。
「痛み少し。熱中。声なし。“相互反応を示す保護対象二名”で反応しました」
リゼが即座に一歩近づく。
「現在地」
「生徒会室」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「声」
「なし」
「感情」
「嫌です。怖いです。怒っています」
「良好です。中止しますか」
アルトは文書を見た。
王宮監察局補助室。
保護対象二名。
二名。
そこには、アルトもエリアナもいなかった。
ただ、反応する二つの対象がある。
白鐘に関わる二つの材料がある。
そう書かれているように見えた。
「続けます」
アルトは言った。
「でも、その言葉は嫌です」
エリアナがゆっくり息を吸った。
彼女の表情は整っている。
整いすぎている。
アルトには、その硬さが痛かった。
「身体異常なし」
エリアナは自分で言った。
「感情、強い不快。怒り。恐怖。ですが、聞けます」
ミリアが静かに頷いた。
「言えたわ」
エリアナは小さく頷く。
「はい」
カイは拳を握っていた。
だが、机は叩かない。
声も張り上げない。
ただ、低く言った。
「最悪だな」
リゼが文書を見る。
灰銀の瞳が冷えている。
戦場の冷たさではない。
人を物にする言葉への怒りだった。
「その分類は不適切です」
彼女は静かに言った。
ユリウスが頷く。
「同意する」
クラウスも低く言った。
「王宮側の封印管理文書で使う表現だ。人に使うべきではない」
エレオノーラが記録する。
「王宮文書内表現“相互反応を示す保護対象二名”。学園側、分類不適切と判断」
ユリウスは文書の続きを確認する。
「続きは要点だけにする。王宮は、アルト君とエリアナさんが同席した際の銀環反応、白鐘用語への双方反応、エリアナさんの伝承知識提供時のアルト君の身体反応、香草パン試作後の白鐘礼拝堂情報想起、王の血を拒む扉に関する授業時反応を求めている」
アルトの左手首がさらに熱を持つ。
痛みは少し。
声はない。
エリアナの顔から、わずかに血の気が引いた。
「香草パンも」
彼女は小さく言った。
ミリアがすぐに答える。
「料理記録として扱うと確認したわ」
「はい」
「王宮へ勝手に白鐘資料として出さない」
「はい」
エリアナは頷いた。
だが、声は少し硬い。
「でも、求められたのですね」
ユリウスが文書を見る。
「求められている。だが、出すとは言っていない」
エリアナは彼を見る。
「拒否できますか」
「拒否できる部分と、要約で返す部分を分ける」
ユリウスは明確に答えた。
「出席や行動範囲、重大事案への対応は学園として報告する義務がある。ただし、私的会話、料理記録、身体反応詳細、感情状態、母上の個人的記憶は本人同意なしに出さない」
エレオノーラが記録する。
「報告範囲案。出席、行動範囲、重大事案対応は学園報告。私的会話、料理記録、身体反応詳細、感情状態、個人記憶は本人同意なしに不共有」
リゼが頷いた。
「適切です」
カイが低く言う。
「香草パンまで持っていこうとするの、嫌すぎる」
エリアナは机の上の自分の手を見ていた。
「故国の味が、また資料にされるのかと思いました」
その声は小さかった。
しかし、部屋の全員に届いた。
アルトの胸が痛んだ。
香草パン。
遠くから近づいてくる香り。
母の言葉。
次は自分で香草を砕いてみたい。
その小さな本人意思まで、王宮の文書は白鐘反応の材料にしようとしている。
アルトは左手首を押さえた。
「僕も、嫌です」
全員がアルトを見る。
「僕の銀環反応だけではなくて、エリアナさんの故国の味まで、反応記録にされるのが嫌です」
エリアナの薄紫の瞳が揺れた。
アルトは続けた。
「僕たちは、白鐘に関係しているかもしれません。でも、白鐘のためだけに話したわけではありません」
リゼの表情が少し柔らかくなる。
ミリアも静かに頷く。
アルトは言った。
「僕たちは実験ではありません」
その言葉が、生徒会室の中に落ちた。
静かに。
しかし、はっきりと。
エリアナの指が止まった。
彼女はアルトを見ていた。
そして、ゆっくり同じ言葉を口にした。
「私たちは、実験ではありません」
声は震えていなかった。
薄紫の瞳が、王宮の文書ではなく、机の向こうの全員を見ている。
「私は、保護観察対象です。そう扱われる現実があることも、理解しています」
彼女は続けた。
「ですが、私の記憶、母の言葉、故国の香り、食べたいと思ったパンまで、すべて反応確認の材料にされることは拒否します」
ユリウスが静かに頷いた。
「記録する」
エレオノーラのペンが走る。
エリアナはまだ続けた。
「アルトさんと同席した時の反応についても、私は実験として同席したわけではありません。食堂で食事をし、授業を受け、廊下で話し、香草パンを作りました。それらは、白鐘反応確認のためだけに行われたことではありません」
カイが小さく「そうだ」と言った。
リゼも頷く。
エリアナの声が少しだけ強くなる。
「私たちを“相互反応を示す保護対象二名”としてまとめないでください」
アルトの左手首の熱が、少し下がった。
痛みはほとんどない。
声はない。
エリアナが言えた。
自分も言えた。
そのことが、銀環を少し落ち着かせたようだった。
ミリアが静かに言う。
「今の本人発言は、正式回答に入れるべきだと思います」
ユリウスは頷いた。
「入れる。ただし、文面は本人確認を取る」
クラウスが文書を見ながら苦い顔をした。
「王宮は、二人を同じ箱に入れようとしている」
カイが眉を寄せる。
「同じ箱?」
クラウスは説明する。
「管理上の分類だ。白鐘反応を示す者、王家血統関連、旧王家系統知識保持者、相互反応あり。そういう条件を重ねて、“二名一組”として扱う。以後、接触、隔離、移送、観察、照会がまとめて行われる危険がある」
エリアナの表情が硬くなる。
アルトの左手首が少し熱を持つ。
リゼが低く言う。
「危険です」
クラウスは頷く。
「極めて危険だ。本人意思が消えやすくなる。さらに、片方の反応をもう片方の危険根拠にされる可能性がある」
ミリアが言う。
「アルトさんの銀環が反応したから、エリアナさんが危険。エリアナさんが白鐘伝承を話したから、アルトさんの隔離が必要。そういう使われ方ね」
「そうだ」
クラウスは苦々しく答えた。
アルトの胸が冷える。
反応は情報であって、判決ではない。
何度も確認してきた。
だが、王宮の文書は反応を判決にしようとしている。
リゼは静かに言った。
「反応を判決にしない、と正式回答に入れる必要があります」
エレオノーラが記録する。
「回答方針案。身体反応は危険判定の単独根拠としない。相手方の責任根拠にも用いない」
ユリウスが頷く。
「入れよう」
エリアナがアルトを見る。
「私が何かを話すことで、あなたの隔離理由にされるのは嫌です」
アルトは頷いた。
「僕も、僕の銀環が反応したことで、エリアナさんが危険だと決められるのは嫌です」
「はい」
「でも、反応があることを全部隠すのも違うと思います」
エリアナは少し考える。
「はい。危険があるなら、知る必要はあります」
アルトは左手首に触れた。
「だから、反応は情報です。でも、判決ではありません」
エリアナはその言葉を受け取った。
「反応は情報。判決ではない」
「はい」
リゼが小さく頷く。
「第2話の確認と一致します」
ミリアが微笑む。
「積み重なっているわね」
カイが言う。
「積み重なってるなら、王宮にもわかるように書けばいい」
「簡単に言うわね」
ミリアは少し笑った。
「でも、その通りよ」
ユリウスは新しい紙を出した。
「正式回答の草案を作る。ここで全員の同意を取る。まず、分類への拒否」
エレオノーラが別紙を用意する。
ユリウスは口述し始めた。
「一、アルト・レインフォード氏およびエリアナ・ルクス・ヴェルグラント氏を“相互反応を示す保護対象二名”として一括分類することを、王立学園は不適切と判断する」
アルトは頷く。
エリアナも頷いた。
ユリウスは続ける。
「二、両名はそれぞれ独立した本人意思を有する生徒であり、身体反応、血統、伝承知識、接触状況のみをもって一組の観察対象として扱わない」
リゼが言う。
「“生徒”を先に置いてください」
ユリウスが頷く。
「そうしよう。“両名は王立学園に在籍または参加する生徒であり”に変更」
エレオノーラが修正する。
「三、白鐘関連語への反応は安全管理上の情報として扱うが、危険判定、責任判定、隔離判断の単独根拠としない」
クラウスが頷く。
「妥当だ」
ミリアが言う。
「四に、料理記録と私的会話を入れましょう」
ユリウスは頷いた。
「四、香草パン試作を含む料理記録、私的会話、故国の祝祭に関する個人記憶は、封印情報または反応実験記録として扱わない。本人同意なく詳細共有しない」
エリアナの指が少し緩む。
「それは、入れてください」
「入れる」
ユリウスは次の項目を考える。
アルトが口を開いた。
「僕の銀環反応も、全部は出さないでください」
「もちろん」
「でも、安全に必要なことは、学園の中では共有していいです」
ユリウスはアルトを見る。
「どこまで」
アルトは少し考えた。
「痛みの有無、熱が上がったか、声があったか。中止が必要か。そのくらいは共有していいです。でも、僕がどう感じたかを、王宮へ全部出すのは嫌です」
エリアナが頷いた。
「私も同じです。身体異常や中止必要性は安全情報として共有して構いません。でも、母の記憶を話した時の私の感情まで、王宮へ出したくありません」
エレオノーラが記録する。
「本人同意範囲。安全管理上必要な反応概要は学園内共有可。王宮へは詳細感情、私的記憶、身体反応詳細を出さない」
ユリウスが言う。
「五、本人同意範囲を超える身体反応詳細、感情記録、私的記憶の共有は拒否する。必要な安全情報は学園内で管理し、王宮へは要約のみとする」
リゼが頷く。
「良好です」
カイが机に肘をつきかけ、ミリアに視線で止められた。
慌てて姿勢を正す。
「俺も言っていいか」
ユリウスが少しだけ表情を和らげる。
「もちろん」
「二人を同じ箱に入れるなって、ちゃんと書いてほしい」
エレオノーラがペンを止める。
「表現としては不正式ですが、意味は重要です」
ミリアが考える。
「一括管理ではなく、個別の本人意思を確認する、と書けばいいかしら」
カイが頷く。
「それ」
ユリウスは文面に加える。
「六、両名の接触制限、同席、情報共有、面談等を行う場合は、一括管理ではなく、それぞれ個別に本人意思を確認する」
アルトの胸が少し温かくなる。
エリアナも静かに頷いた。
「それは必要です」
クラウスが低く言う。
「王宮は反発するだろう」
ユリウスはあっさり頷いた。
「するだろうね」
「特に、“香草パンを反応実験記録として扱わない”は、向こうから見れば情報隠しに見える」
ミリアが静かに返す。
「情報隠しではなく、情報の性質を間違えないためです」
クラウスはミリアを見る。
そして、少しだけ口元を苦く緩めた。
「その言い方は、王宮文書にも使える」
エレオノーラがすぐ記録した。
「情報の性質を間違えないため」
リゼが言う。
「重要です」
エリアナはその言葉をじっと聞いていた。
「情報の性質」
小さく繰り返す。
「私の故国の味は、白鐘情報でもあるかもしれません。でも、それだけではありません」
アルトが頷く。
「僕の銀環も、封印情報かもしれません。でも、僕の体でもあります」
エリアナはアルトを見る。
「はい」
「だから、扱い方を間違えないでほしいです」
「はい」
二人の言葉は、少し似ていた。
同じではない。
だが、重なる部分がある。
同じ箱に入れられるためではなく、互いの境界線を確認するために。
ミリアが静かに言った。
「ここまでを草案として、学園長に提出しましょう。正式回答は学園長名義で出す。本人発言の引用部分は、二人で確認してから」
ユリウスが頷く。
「そうする」
エレオノーラが草案を書き終え、アルトとエリアナの前に置いた。
アルトは文面を読んだ。
字が少しにじんで見える。
緊張のせいかもしれない。
“相互反応を示す保護対象二名”として一括分類することを不適切と判断する。
両名は生徒であり、身体反応、血統、伝承知識、接触状況のみをもって一組の観察対象として扱わない。
私たちは実験ではありません。
その引用文が、途中に置かれていた。
アルトは息を吸う。
「この文、入れてください」
ユリウスが頷く。
「わかった」
エリアナも草案を見る。
彼女の指が、自分の発言の部分で止まる。
私は、保護観察対象です。そう扱われる現実があることも、理解しています。ですが、私の記憶、母の言葉、故国の香り、食べたいと思ったパンまで、すべて反応確認の材料にされることは拒否します。
エリアナは長く黙った。
ミリアが静かに言う。
「削ってもいいわ」
「いえ」
エリアナは首を横に振った。
「入れてください」
声は静かだった。
「私が言ったことです」
エレオノーラが頷く。
「本人確認、記録します」
カイが小さく息を吐いた。
「強いな」
エリアナは少しだけカイを見る。
「怖いです」
カイはすぐに頷いた。
「怖くても言ったのが強いんだと思います」
エリアナの瞳が少し揺れる。
それから、ほんの少しだけ目元が緩んだ。
「そうですか」
「はい」
リゼが言う。
「非常に良好です」
カイが小さく笑う。
「出た」
エリアナも、少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに落ち着いた。
文書はまだ机の上にある。
王宮から来た分類は、消えたわけではない。
これから正式回答が出される。
王宮は反発するかもしれない。
オルド・ハイマンが再び来るかもしれない。
別の立会人が派遣されるかもしれない。
王宮は、学園が情報を隠していると見るかもしれない。
アルトはその可能性を考え、左手首に触れた。
痛みはない。
熱は少し。
声もない。
怖い。
でも、声が出ている。
それは以前と違う。
ユリウスは草案を封筒に入れず、学園長へ直接持参するためにまとめた。
「今から学園長室へ行く。リゼ、ミリア、同行してくれ。アルト君とエリアナさんは、ここで休憩してもいいし、同席を希望するなら来てもいい」
アルトは少し考える。
「行きます」
エリアナも言った。
「私も行きます」
ユリウスは頷く。
「では、全員で。ただし、途中で疲れたら止める」
生徒会室を出る前に、カイが布包みを取り出した。
ミリアがすぐに目を向ける。
「今?」
「今」
「名前は?」
カイは少し考えた。
「実験じゃない用」
ミリアは一瞬黙った。
それから、静かに頷いた。
「今日は、それでいいと思うわ」
カイは布包みを開いた。
中には小さな焼き菓子と、香草パンの欠けが少しだけ入っていた。
アルトは成分を確認する。
「小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンの方は、小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二・三」
エリアナが頷く。
「確認しました」
カイは最初に、香草パンの欠けをエリアナへ差し出した。
「エリアナさんの味なので」
エリアナはそれを受け取る。
次に、焼き菓子をアルトへ。
「アルトも」
「ありがとうございます」
小さな休憩。
王宮文書の前で、焼き菓子と香草パンを食べる。
それは反応実験ではない。
誰がどう反応するかを見るための場ではない。
疲れたから食べる。
怖い文書を読んだから、少し戻る。
それだけのこと。
でも、その「それだけ」を守ることが、今はとても大事だった。
アルトは焼き菓子を口に入れた。
甘い。
いつもの味。
左手首は痛まない。
エリアナは香草パンの欠けを食べた。
少し硬くなっている。
蜂蜜はやはり多いのだろう。
それでも、彼女は静かに飲み込んだ。
「甘いです」
カイが頷く。
「甘いです」
エリアナは少しだけ笑った。
「でも、蜂蜜が多いです」
「次は減らす」
「はい」
アルトは左手首に触れた。
「痛みなし。熱少し。声なし。実験じゃない用を食べています」
エリアナも、少し間を置いて言った。
「身体異常なし。疲労あり。感情、まだ怒っています。でも、少し落ち着きました」
リゼが頷く。
「良好です」
ユリウスが文書を持ち上げる。
「では行こう」
学園長室へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。
窓の外では雲が流れている。
鐘楼へ続く道の青い布が、遠くで揺れていた。
鐘は鳴らない。
それでも、足音はある。
アルトの足音。
エリアナの足音。
リゼ、ミリア、カイ、ユリウス、エレオノーラ、クラウス。
誰か一人の反応を見るためではなく、誰かを一つの箱に入れるためでもなく。
それぞれが自分の足で歩いている。
学園長室の扉の前で、ユリウスが振り返った。
「最後に確認する。二人とも、この回答に本人発言を入れることを望むか」
アルトは頷いた。
「望みます」
エリアナも頷いた。
「望みます」
リゼが静かに言う。
「本人意思、確認しました」
ミリアが微笑む。
「ええ」
カイが小さく言う。
「実験じゃないからな」
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
「はい」
エリアナも静かに言った。
「私たちは、実験ではありません」
その言葉を持って、ユリウスは学園長室の扉を叩いた。




