第7章 第12話:故国の甘いパン
調理場の朝は、教室より早く始まる。
まだ廊下の空気に夜の冷たさが残っている時間から、厨房には火が入る。大鍋の底が温まり、パン生地をこねる台には白い粉が薄く広げられ、焼き窯の奥では赤い光がじわじわと息をする。
王立学園の調理場は、戦場のように忙しい。
ただし、誰も剣は持っていない。
あるのは包丁と木べらと水差しと、山のような野菜と、焼き上がりを待つパン生地だ。
カイ・ロックハートは、その入口でいつになく真剣な顔をしていた。
「突撃しない」
彼は自分に言い聞かせるように言った。
隣でミリア・ファルネーゼが微笑む。
「ええ。今日は事前に許可を取ってあるわ」
「確認済み」
「照合済み、の方がいいかしら」
「じゃあ、照合済み」
カイは深く頷いた。
アルト・レインフォードは、そのやり取りを聞きながら左手首に触れた。
痛みはない。
熱は少し。
声もない。
今日の予定は、セリーネ草の代用品探しと、故国の甘いパンの試作。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントが昼食で話した、ヴェルグラントの祝祭のパン。
蜂蜜と香草。
小さな灯。
鐘を鳴らさない祝祭。
灯と香りで、帰ってこられなかった人に道を示す日。
それを、王国の学園で作ってみる。
ただし、見世物にはしない。
政治的な掲示もしない。
旧敗戦国の料理を珍しいものとして並べるのではなく、本人の記憶を本人の確認のもとで扱う。
そのため、場所は一般食堂ではなく、調理場の試作用小部屋になった。
同席者も限られている。
エリアナ。
ミリア。
カイ。
アルト。
リゼ・グレイス。
調理場側から、年配の調理主任と補助の生徒が一人。
記録担当としてエレオノーラ・ヴィンスフェルト。
ただし記録は料理工程中心。
エリアナの過去や感情は、本人が許可した範囲だけ。
リゼは入口の少し後ろに立ち、周囲を確認していた。
灰銀の髪はきっちり結ばれている。
制服の袖は邪魔にならないよう留めてある。
剣には触れていない。
だが、調理場という場所に慣れていないのか、少しだけ動きが慎重だった。
「リゼさん」
アルトが小声で呼ぶ。
「はい」
「状態は」
リゼは一拍置いた。
「身体異常なし。感情、警戒少し。調理場の動線が複雑です」
カイが得意げに言う。
「調理場は戦場だからな」
調理主任が奥から声を飛ばした。
「戦場じゃないよ。焦がしたら怒るけどね」
カイの背筋が伸びる。
「はい!」
ミリアが小さく笑った。
「大丈夫そうね」
「大丈夫です」
カイは真剣だった。
エリアナは、その少し後ろに立っていた。
制服の袖を丁寧に留め、髪はいつもより高めにまとめている。
淡い亜麻色の髪が、朝の光を受けて柔らかく見えた。
薄紫の瞳は調理場の中を静かに見ている。
警戒もある。
懐かしさもある。
戸惑いもある。
けれど、逃げたいというより、近づくのが怖いという顔だった。
アルトはそれを見て、小さく言った。
「痛みなし。熱少し。声なし。今日は、少し緊張しています」
エリアナがこちらを見る。
「私もです」
少し迷ってから、彼女は続けた。
「身体異常なし。緊張。懐かしさ、少し。怖さ、少し。不快ではありません」
リゼが静かに頷く。
「良好です」
エリアナはその言葉に、以前より自然に頷いた。
「はい」
調理主任は、丸い木の台の上にいくつかの小皿を並べた。
「さて。セリーネ草だったね。王国では聞かない名前だ。だから、近い香りのものをいくつか用意したよ」
小皿には、乾燥した香草が少しずつ置かれている。
一つは薄い緑。
一つは灰がかった葉。
一つは黄色みを帯びた細い茎。
一つはほとんど白に近い小さな花びら。
エリアナの指が、ほんの少し動いた。
リゼがすぐに確認する。
「負荷は」
エリアナは香草から目を離さずに答えた。
「身体異常なし。感情、少し揺れています。でも、続けられます」
調理主任が柔らかく言う。
「香りを見るだけでもいい。触らなくてもいい。嫌ならすぐ下げるよ」
エリアナはその言葉を受け取った。
「ありがとうございます」
まず、薄い緑の香草。
調理主任が小皿を近づける。
エリアナは直接触れず、少しだけ顔を近づけて香りを確かめた。
すぐに首を横に振る。
「違います。これは爽やかすぎます」
カイがすぐにメモを見た。
「爽やかすぎる」
エレオノーラが記録する。
「候補一、爽やかすぎる」
次に灰がかった葉。
エリアナは少し長く香りを確かめた。
「苦味は近いです。でも、甘さがありません」
カイが頷く。
「苦味近い。甘さなし」
リゼも記録帳を開きかけた。
ミリアがそっと言う。
「今日はエレオノーラ先輩が料理記録を取ってくださるわ」
リゼは少し止まり、記録帳を閉じた。
「了解しました。覚えます」
エリアナがそれを見て、少しだけ目元を緩めた。
三つ目の黄色みを帯びた茎。
エリアナは香りを嗅いだ瞬間、わずかに息を止めた。
アルトの左手首が、ほんの少し温かくなる。
痛みはない。
声もない。
ただ、その反応がエリアナの揺れに引っ張られたような気がした。
「痛みなし。熱少し。声なし。エリアナさんの反応で少し熱が上がりました」
リゼが頷く。
「確認しました」
ミリアがエリアナへ声をかける。
「近い?」
エリアナは小皿を見つめたまま、ゆっくり頷いた。
「少し近いです。乾いた時の甘さが、少し」
カイの顔が明るくなる。
「これか?」
「でも、焼いた時の苦味がわかりません」
調理主任が頷く。
「じゃあ、小さく火を通してみよう。直接焼くと香りが飛ぶかもしれないから、まず温めるだけ」
エリアナは少し迷った。
「お願いします」
四つ目の白い花びらは、香りが柔らかすぎて違った。
結果、黄色みを帯びた茎と、灰がかった葉を少し混ぜることになった。
完全に同じではない。
エリアナもそう言った。
「セリーネ草ではありません」
カイが少し肩を落とす。
だが、エリアナは続けた。
「でも、近づけることはできるかもしれません」
カイの顔が再び明るくなる。
「じゃあ、近づける」
ミリアが頷く。
「完璧な再現ではなく、始められる状態ね」
エリアナがミリアを見る。
「その言い方を、以前にも聞きました」
「学園祭準備でよく使ったわ」
「完璧ではなく、始められる状態」
エリアナは小さく繰り返した。
「今日には、合っている気がします」
パン生地の準備が始まった。
調理主任が小麦粉、塩、少量の酵母、温めた乳、卵、蜂蜜を並べる。
アルトは成分表示用の紙を広げた。
小麦。
卵。
乳。
蜂蜜。
香草候補二、三。
ただし正式名称は調理場記録に準ずる。
杏は入れない。
林檎も入れない。
小さな灯の焼き菓子とは違う。
これはエリアナの故国の味に近づくための試作だ。
アルトはそれを書きながら、不思議な気持ちになった。
成分表示を書くこと。
それはただの実務だ。
でも、誰かが安心して食べるために必要な紙でもある。
学園祭の時もそうだった。
今もそうだ。
アルトは左手首に触れた。
「痛みなし。熱少し。声なし。成分表示作成中」
エリアナがその紙を見た。
「本当に書いてくださるのですね」
「はい。食べる前にわかると、安心するので」
「はい」
エリアナは小さく頷いた。
「安心します」
カイは腕まくりをして、生地をこね始めた。
力が入りすぎて、調理主任にすぐ止められる。
「ロックハート、敵を倒すんじゃない。生地をまとめるんだ」
「はい!」
「力を入れるなとは言ってない。押して、返して、待つ。押しっぱなしにするな」
「押して、返して、待つ」
カイは真剣に繰り返す。
リゼが小さく言った。
「剣術の足運びに近いです」
調理主任が笑う。
「パン生地を斬らないでおくれよ」
「了解しました」
リゼは真面目に頷いた。
エリアナがその様子を見て、またほんの少し口元を緩めた。
生地に蜂蜜を混ぜる時、エリアナが声をかけた。
「多すぎます」
カイの手が止まる。
「これで多い?」
「はい。香りが死にます」
その言葉を聞いた瞬間、カイは真剣な顔で蜂蜜の器を下げた。
「香りを殺さない」
ミリアが微笑む。
「料理人みたいになってきたわね」
「重要だろ」
「ええ。とても」
エリアナは少し戸惑ったようにカイを見た。
「あなたは、本当にその言葉を覚えていたのですね」
「そりゃ覚えるだろ。大事そうだったし」
「私にとっては、大事でした」
「じゃあ大事です」
あまりにも単純な返事だった。
だが、その単純さがエリアナには少し眩しかったのかもしれない。
彼女はすぐに答えず、手元の香草を見た。
「そうですか」
小さな声。
だが、嫌ではなさそうだった。
生地がまとまると、香草を混ぜる。
黄色みを帯びた茎を細かく砕き、灰がかった葉をほんの少しだけ加える。
調理場に、柔らかな香りが広がり始めた。
最初は草の匂い。
次に、蜂蜜に似た甘さ。
その奥に、ほんの少しだけ苦味を思わせる深い香り。
エリアナの指が止まった。
アルトの左手首も淡く温かくなる。
痛みはない。
声もない。
リゼがエリアナを見る。
「状態」
エリアナは目を伏せたまま答えた。
「身体異常なし。感情……懐かしいです」
その一言で、調理場の音が少し遠くなった。
懐かしい。
エリアナが、故国に関わる感情を、恐怖や警戒ではなくそう言った。
ミリアが静かに頷く。
「続けられる?」
「はい」
エリアナは香りをもう一度吸い込んだ。
「少し違います。でも、遠くから近づいてくる感じがします」
カイが小声で言う。
「遠くから近づいてくる香り」
エレオノーラが記録する。
「本人評価。完全一致ではないが、遠くから近づいてくる感じ」
エリアナはその記録を見て、少しだけ笑った。
「それも記録するのですね」
「料理評価として重要です」
エレオノーラは真面目だった。
「そうですか」
発酵を待つ時間は、短い休憩になった。
調理主任が湯を出してくれた。
調理場の隅の小さな机に、五人とエレオノーラが座る。
リゼは最初立っていようとしたが、ミリアに視線で促され、椅子に座った。
カイは発酵中の生地を何度も見ようとして、調理主任に「見すぎると膨らまないわけじゃないけど、落ち着きな」と言われた。
「見守りが多すぎると駄目ですか」
カイが真剣に聞く。
調理主任は笑った。
「パンも人も、見張られすぎると居心地が悪いだろ」
その言葉に、エリアナが少しだけ反応した。
見張られすぎる。
保護観察対象。
行動範囲。
同席者。
見守りと監視の境目。
アルトも左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
ミリアが話題を柔らかく受け取る。
「では、待つ間は少し離れましょう」
カイは生地から視線を剥がした。
「わかった。見張らない。待つ」
リゼが頷く。
「待機に移行」
「言い方が固い」
エリアナが小さく言った。
「でも、嫌いではありません」
リゼが少しだけ瞬きをした。
「ありがとうございます」
湯気の立つ杯を両手で包みながら、エリアナは少し黙っていた。
香草の匂いが調理場の奥から漂ってくる。
完全に同じではない。
でも、近い。
その香りは、彼女の中のどこを呼んでいるのだろう。
アルトは尋ねるべきか迷った。
ミリアが何も言わないので、アルトも待った。
しばらくして、エリアナの方から口を開いた。
「母は、祝祭の前夜に生地を仕込んでいました」
誰も急かさない。
エリアナは続けた。
「私は、香草を砕く役でした。小さな鉢と木の棒で、少しずつ。強く潰すと苦味が出すぎるから、急いではいけないと言われました」
カイが真剣に聞いている。
「急ぐと苦味が出すぎる」
「はい」
エリアナは少しだけ目を細めた。
「私は幼い頃、早く終わらせたくて強く潰しました。母に止められて、祝祭は急いで呼ぶものではありません、と言われました」
ミリアが柔らかく微笑む。
「素敵な言葉ね」
「当時は、退屈でした」
エリアナの口元が少し動く。
「早く食べたかったので」
カイが深く頷く。
「それはわかる」
リゼが真面目に言う。
「食欲による作業速度上昇」
「記録しなくていいからな」
カイが即座に言った。
エレオノーラはすでに少し書きかけていた手を止めた。
「料理工程に関係する可能性があります」
「いや、いいです」
エリアナが小さく笑った。
今度は、はっきり笑い声が混じった。
すぐに本人も気づいたのか、少し驚いた顔をする。
笑ってしまったことに驚いている。
ミリアは何も言わない。
アルトも何も言わない。
カイも、たぶん何か言いたかったが、珍しく黙った。
その沈黙が、エリアナの笑いをそのまま置いておく。
見世物にしない。
過度に喜ばない。
ただ、そこにあるものとして受け取る。
リゼが静かに言った。
「良好です」
言ってから、少しだけ不安そうにエリアナを見る。
エリアナは少し目を伏せた。
「はい」
それだけ答えた。
やがて生地が膨らみ、小さく丸められた。
大きなパンではない。
試作用の、小さな丸パン。
上に薄く蜂蜜を塗り、香草をほんの少し散らす。
窯に入れる時、エリアナは少しだけ立ち上がった。
調理主任が尋ねる。
「見るかい?」
「はい」
エリアナは窯の近くへ行く。
熱気が頬に当たる。
リゼも少し離れて見守る。
アルトは距離を取ったまま、左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
窯の中で、小さなパンが膨らみ始める。
蜂蜜が温まり、香草の香りが変わる。
甘い匂い。
その奥に、少し焦げるような苦味。
調理場の空気が、さっきまでと違う色を持った。
エリアナの瞳が揺れる。
薄紫の目の奥に、懐かしさだけではなく、痛みも見えた。
ミリアがそっと問う。
「大丈夫?」
エリアナは窯を見たまま答える。
「身体異常なし。感情、懐かしいです。少し、痛いです」
「止める?」
エリアナは首を横に振った。
「いいえ。今は、見たいです」
リゼが静かに頷く。
「本人意思、確認」
エリアナは少しだけ笑った。
「はい。本人意思です」
焼き上がったパンは、少し不格好だった。
表面の色はきれいだが、香草の散らし方が均一ではない。
カイが力を入れすぎたせいか、一つだけ形がやや平たい。
それでも、香りは確かだった。
甘く、少し苦く、温かい。
調理主任が小皿に一つずつ置いた。
「熱いから、少し待つよ」
カイが待ちきれない顔をしている。
エリアナも、パンを見つめたままだった。
アルトは成分表示の紙をそっと置いた。
小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二・三。
試作。セリーネ草代用。
本人確認前。
エリアナがそれを見た。
「本人確認前」
「はい。エリアナさんが味を確認するまで、完成ではないので」
エリアナは少しだけ目を伏せた。
「私が確認するのですね」
「はい」
カイが言った。
「エリアナさんの味だから」
その言葉に、調理場が少し静かになった。
エリアナの味。
旧敗戦国の料理でも、政治的な再現でもなく。
エリアナが覚えている味。
彼女が確認する味。
エリアナは小さく息を吸った。
「はい」
パンが少し冷めるのを待って、エリアナは一つ手に取った。
指先で割る。
中から湯気が立つ。
香草と蜂蜜の香りがふわりと広がる。
彼女はすぐには食べなかった。
香りを確かめる。
目を閉じる。
長い沈黙。
誰も急かさない。
カイですら、息を潜めている。
エリアナは小さく一口食べた。
噛む。
飲み込む。
表情は大きく変わらない。
だが、瞳の奥がゆっくり揺れた。
「違います」
最初の言葉だった。
カイの顔が少し落ちる。
しかし、エリアナは続けた。
「完全には、違います。セリーネ草ではありません。母の焼いたものとも違います」
彼女はもう一度、パンを見た。
「でも」
その声が少しだけ震えた。
「近いです」
カイの顔が上がる。
ミリアの表情が柔らかくなる。
リゼは静かに息を吐いた。
エリアナはパンを両手で持ったまま、言った。
「遠くから近づいてくる香りです」
エレオノーラが記録しようとして、少し止まる。
「記録しても?」
エリアナは頷いた。
「料理の記録として」
「はい」
エレオノーラは書いた。
本人確認。完全一致ではない。近い。遠くから近づいてくる香り。
エリアナはもう一口食べた。
今度は、少し長く噛んだ。
「蜂蜜が少し多いです」
カイが即座に反応する。
「減らす」
「香草候補二は、もっと少なく」
「苦味が強い?」
「はい。後から残りすぎます」
「候補三を増やす?」
「少し」
カイは真剣に頷く。
リゼが小さく言う。
「改善点、明確です」
ミリアが微笑む。
「次があるわね」
次。
その言葉に、エリアナが少しだけ目を伏せた。
次がある。
失敗でも、完全でもなく、次。
それは、彼女にとって簡単な言葉ではなかったのかもしれない。
「次」
エリアナは小さく繰り返した。
「はい」
カイは当然のように言った。
「一回でできるわけないだろ。何回かやる」
エリアナはカイを見る。
「何回か」
「そう。香草の量変えて、蜂蜜減らして、焼き時間も変えて」
調理主任が頷く。
「いい勘だね。次は温度も少し下げるといい」
カイの目が輝く。
「温度も」
エリアナはパンを見つめた。
「何度も作って、よいのですか」
ミリアが優しく答える。
「あなたが望むなら」
リゼが続ける。
「調理場の許可範囲内で」
カイが言う。
「材料があれば」
アルトが付け足す。
「成分表示も更新します」
エリアナは四人を見た。
それから、手元の小さなパンへ視線を戻した。
「では」
彼女は少しだけ息を吸った。
「また作りたいです」
調理場の空気が、温かくなった気がした。
リゼが静かに言う。
「本人意思、確認しました」
エリアナは目元を緩めた。
「はい。本人意思です」
試作品は、全員で少しずつ食べた。
カイは自分の作ったパンを真剣に味わい、「蜂蜜多いな」と言った。
ミリアは「でも、香りは綺麗よ」と言った。
アルトは成分表示を見ながら食べ、左手首が痛まないことを確認した。
リゼは一口食べて、しばらく黙った。
「どうですか」
エリアナが尋ねる。
リゼは少し考えた。
「甘いです。苦いです。温かいです」
カイが小声で言う。
「そのままだな」
リゼは続けた。
「戦場の地図には、ありませんでした」
エリアナの表情が静かになる。
リゼはパンを見ていた。
「私は、ヴェルグラントを補給線、封鎖線、敵部隊、作戦区域として記録していました」
彼女はゆっくり顔を上げる。
「この味は、その記録にはありません」
エリアナは黙っている。
「知れてよかったです」
リゼは言った。
「ただし、知っただけで理解したとは言いません」
エリアナの瞳が少し揺れた。
それから、静かに頷く。
「その方が、受け取れます」
リゼも頷いた。
アルトはそのやり取りを聞きながら、パンをもう一口食べた。
甘い。
少し苦い。
温かい。
左手首は痛まない。
声もない。
白鐘の話では、銀環は反応する。
でも、同じ故国の記憶でも、香草と蜂蜜のパンは違う熱を持っていた。
怖くないわけではない。
でも、怖いだけではない。
アルトは小さく言った。
「痛みなし。熱少し。声なし。このパンは、怖いだけではありません」
エリアナがこちらを見る。
「怖いだけではない」
「はい」
「私も、そう思います」
彼女はパンの残りを見た。
「故国の味を、王国の学園で食べる日が来るとは思いませんでした」
カイがすぐに言う。
「まだ完成じゃないです」
エリアナが少し驚いたように彼を見る。
カイは真剣だった。
「次、もっと近づける」
エリアナはしばらくカイを見ていた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「はい」
その笑顔は、今までより長く残った。
調理場の窓から差し込む午後の光が、焼き上がった小さなパンを照らしている。
蜂蜜の表面が淡く光り、香草の粒が黒と緑の点になって散っている。
完全ではない。
故国そのものではない。
母の手でもない。
それでも、遠くから近づいてくる香り。
エリアナは最後の一口を食べた。
そして、静かに言った。
「戻る場所の味、かもしれません」
リゼがその言葉を受け止める。
「記録しても?」
エリアナは少し考えた。
「料理の記録としてなら」
リゼは頷いた。
「料理の記録として扱います」
エリアナは目を伏せ、もう一度小さく笑った。
「お願いします」




