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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第7章 第13話:香草と白鐘礼拝堂


 焼き上がった香草パンの匂いは、調理場を出た後も、しばらく指先に残っていた。


 蜂蜜の甘さ。


 乾いた草の青さ。


 焼いたことで立ち上がった、ほのかな苦味。


 完全なセリーネ草ではない。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、そう言った。


 母が焼いたものとは違う。


 故国の祝祭のパンとも違う。


 それでも、遠くから近づいてくる香りだと。


 アルト・レインフォードは、廊下を歩きながら左手首に触れた。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声はない。


 白鐘の話をした時とは違う熱だった。


 銀環が危険を知らせているというより、どこか遠い記憶の縁に触れたような、薄く温かな反応。


 それが安心なのか、警戒なのか、まだわからない。


 でも、怖いだけではなかった。


「痛みなし。熱少し。声なし。香草パン試作後」


 小さく言うと、隣を歩いていたリゼ・グレイスが頷いた。


「良好です」


 リゼの手にも、香草の匂いが少し残っている。


 彼女は調理にはほとんど手を出さなかった。


 動線確認、材料確認、記録の補助。


 そのくらいだ。


 けれど、最後に小さなパンを一口食べた。


 甘いです。苦いです。温かいです。


 戦場の地図には、ありませんでした。


 その言葉を、アルトは覚えている。


 エリアナも覚えているはずだ。


 リゼが言った「知れてよかったです」は、軽くなかった。


 理解したとは言わない。


 それでも、知ることを避けない。


 今のリゼらしい言葉だった。


 カイ・ロックハートは、調理場から出たばかりなのに、すでに次の試作のことで頭がいっぱいの顔をしていた。


「蜂蜜は減らす。候補二は少なめ。候補三をちょっと増やす。温度は少し下げる。焼き時間は……主任に聞く」


 ミリア・ファルネーゼが微笑む。


「良いわ。突撃ではなく?」


「確認」


「よろしい」


 カイは得意げに頷いた。


「あと、香草の砕き方。急がない。強く潰しすぎない。祝祭は急いで呼ぶものではありません」


 エリアナの足が、ほんの少しだけ緩んだ。


 カイが母の言葉を覚えていたからだろう。


 エリアナはすぐには何も言わなかった。


 ただ、静かにカイを見た。


 カイは気づいて、少し慌てる。


「いや、勝手に使って悪かったです」


「いいえ」


 エリアナは首を横に振った。


「覚えていてくださったのですね」


「大事そうだったので」


「……はい。大事でした」


 彼女の声は、少しだけ柔らかかった。


 廊下の窓から中庭が見える。


 学園祭の跡はもうほとんど消え、芝生はいつもの緑に戻りつつある。


 ただ、鐘楼へ続く道を塞ぐ青い布だけがまだ残っていた。


 風に揺れるその布を、エリアナが見た。


 そして、ふと立ち止まる。


「香草の匂い」


 彼女は小さく言った。


 ミリアが問い返す。


「どうしたの?」


「思い出しました。白鐘礼拝堂にも、似た香りがありました」


 アルトの左手首が、淡く熱を持った。


 痛みはない。


 声もない。


 だが、白鐘礼拝堂という言葉に銀環が反応する。


「痛みなし。熱少し上昇。声なし。白鐘礼拝堂という言葉で反応しました」


 リゼがすぐに確認する。


「継続可能ですか」


「はい。今は大丈夫です」


 エリアナはアルトを見る。


「ここで話すのは、負荷が高いでしょうか」


 ミリアが周囲を見た。


 廊下は放課後の生徒で少し騒がしい。


 だが、白鐘礼拝堂の話をするには開けすぎている。


「場所を変えましょう」


 彼女は言った。


「図書室の指定区画か、生徒会室。どちらがいいかしら」


 アルトは少し考えた。


 図書室は前にも白鐘の話をした場所だ。


 記憶が残っているが、手順もある。


「図書室がいいです」


 エリアナも頷いた。


「私も、図書室なら話しやすいです」


 カイが小さく言う。


「じゃあ、図書室。香草パン後の白鐘話用」


 ミリアが少しだけ笑う。


「名前は長いけれど、用途は合っているわ」


 リゼが言う。


「ユリウス先輩とエレオノーラ先輩へ報告します」


「ええ。記録範囲も先に決めましょう」


 図書室の指定区画は、午後の光で少し金色に見えた。


 高い窓から差す光が本棚の縁を照らし、古い紙の匂いと、調理場から持ち込まれたわずかな香草の匂いが混ざる。


 エレオノーラ・ヴィンスフェルトは、すぐに記録板を準備した。


「本日の追加確認。発端は香草パン試作後、エリアナさんの白鐘礼拝堂に関する記憶想起。記録範囲は、儀礼・香草・祝祭関連。個人的記憶の詳細は本人許可範囲。封印図なし。歌唱なし。刺激語が出た場合は中止可能」


 アルトは頷いた。


「痛みなし。熱少し。声なし。聞けます」


 エリアナも少し緊張した顔で言った。


「身体異常なし。疲労少し。感情、懐かしさと緊張。話せる範囲で話します」


 リゼが頷く。


「良好です」


 ユリウス・エインズワースは机の端に座り、白鐘礼拝堂の公開資料を出した。


 クラウス・ヴァイゼルはまだ呼ばれていない。


 今日はまず、エリアナ本人の記憶を王宮側の解釈で塗り替えないために、学園側だけで聞くことになった。


 それはミリアの提案だった。


 エリアナの記憶を「封印情報」としてだけ扱わない。


 まず、祝祭と香りの記憶として聞く。


 エリアナは机の上に置かれた小さな包みを見た。


 カイが持ってきた試作パンの残りだった。


 食べるためではなく、香りの確認のために一つだけ残してある。


 アルトが成分表示の紙も添えていた。


 小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二・三。


 セリーネ草代用。


 本人確認済み。


 完全一致ではない。近い。遠くから近づいてくる香り。


 エリアナはその紙を見て、少しだけ目元を緩めた。


「料理の記録として残っているのですね」


 エレオノーラが答える。


「はい」


「ありがとうございます」


「記録の扱いは、料理記録です。白鐘関連資料へ転用する場合は、再度本人確認を取ります」


 エリアナは少し驚いた顔をした。


 それから、静かに頷く。


「その確認は、助かります」


 ミリアが優しく言う。


「香りの話から始めましょう」


「はい」


 エリアナは試作パンの包みを少しだけ開いた。


 ふわりと香りが立つ。


 もう焼きたてではない。


 それでも、蜂蜜と香草の匂いは残っている。


 彼女は目を閉じた。


「白鐘礼拝堂の祭壇近くに、この香りに似たものがありました」


 アルトの左手首が少し温かくなる。


 痛みなし。


 声なし。


 エリアナは続けた。


「私が見たのは、礼拝堂そのものではありません。母の話と、手帳に残っていた絵だけです。実際に行った記憶はありません」


 エレオノーラが記録する。


「本人の直接体験ではなく、母の話および手帳の絵による記憶」


「はい」


 エリアナは頷いた。


「礼拝堂の祭壇には、鐘ではなく灯と香草を置く場所があったそうです」


 リゼが小さく反応した。


「鐘ではなく」


「はい」


 エリアナは机の上の公開資料を見る。


 そこには、白鐘礼拝堂は王家の鐘を用いた境界儀礼の場として説明されている。


 鐘を鳴らす儀礼。


 王家の血統確認。


 封印の響き。


 そういう言葉が並ぶ。


 エリアナは静かに言った。


「王国の資料では、白鐘は鳴るものとして書かれていますね」


 ユリウスが頷く。


「そうだね」


「母の話では、鳴らさないことの方が多かったそうです」


 アルトの左手首が淡く熱を持つ。


 痛みはない。


「鳴らさない祝祭」


 アルトが小さく言う。


 エリアナは頷いた。


「はい。鐘を鳴らさない祝祭です」


 図書室の静けさが深くなる。


 エリアナの声は、前に子守歌を語った時より少し柔らかかった。


 怖い封印の話ではなく、古い祝祭の話だからかもしれない。


「灯を置き、香草を焚き、蜂蜜を使ったパンを供えます。鐘は布で覆います。鳴らさないことで、境目を荒らさないようにする、と母は言っていました」


 リゼが少しだけ目を伏せた。


「境目を荒らさない」


「はい」


 エリアナは続ける。


「鐘を鳴らせば、遠くまで届きます。でも、届きすぎる。呼ばなくてよいものまで呼ぶ。だから、白鐘に近い家では、普段の祈りは灯と香りで行ったそうです」


 アルトはその言葉を聞きながら、第6章の閉会を思い出していた。


 鐘を鳴らさず、手拍子で終えた学園祭。


 音はあった。


 でも、人の手が作った音だった。


 白い小鐘ではない。


 封印の響きではない。


 誰かを孤独にする音でもない。


「痛みなし。熱少し。声なし。怖くありません」


 アルトは言った。


 エリアナが少しだけこちらを見る。


「怖くないのですか」


「はい。今の白鐘の話は、怖いだけではありません」


 エリアナの表情が、少し揺れた。


「私も、そう思います」


 ミリアが静かに微笑む。


「白鐘に、怖さ以外の記憶があるのね」


「はい」


 エリアナは頷いた。


「母は、白鐘を恐れていました。でも、憎んではいませんでした。扱いを間違えれば危険だと知っていて、それでも、祈りの場所として覚えていました」


 リゼが言った。


「王宮資料には、その視点がありません」


 ユリウスが資料を見下ろす。


「王宮管理下に入った時点で、封印と王家儀礼の記録が中心になったんだろうね」


 ミリアが言う。


「勝った側の記録、というだけでなく、管理する側の記録でもあるわね」


 エリアナは静かに頷く。


「管理する人は、危険を先に見ます。祈る人は、帰ってこなかった人を先に見ることもあります」


 その言葉に、リゼの肩がわずかに揺れた。


 帰ってこなかった人。


 戦場で帰れなかった人。


 帰れなかった理由の一部に、自分の剣があるかもしれない。


 アルトはリゼを見た。


 リゼは沈みかけたが、戻った。


 自分の中で、今の言葉を「全部背負う」方向へ持っていかないようにしているのだろう。


「状態」


 アルトが小声で聞く。


 リゼは少しだけ瞬きをした。


「身体異常なし。感情、重い。ですが、沈みすぎてはいません」


 エリアナがリゼを見る。


「重いのですね」


「はい」


「私の話が」


「あなたの話と、私の記録の不足が」


 エリアナは少し黙った。


 それから言う。


「不足を全部あなた一人で埋める必要はありません」


「はい」


 リゼは頷く。


「ですが、見ます」


 エリアナも頷いた。


「はい」


 エレオノーラのペンが静かに走る。


 ミリアは試作パンの包みを少し閉じた。


「香りで思い出したのは、祭壇の供え物?」


「はい。それと、白い布です」


「白い布?」


 エリアナは少し考えた。


「鐘を覆う布です。母の手帳の絵では、鐘そのものは描かれていませんでした。布で覆われた形だけ。横に、小さな灯皿と香草束がありました」


 アルトの銀環が少し温かくなる。


 痛みなし。


 声なし。


 布で覆われた鐘。


 鳴らさない鐘。


 それは、白い小鐘とは違う。


 第6章で見つかった小鐘は、鳴らすために仕掛けられていた。


 誰かを反応させるために。


 しかしエリアナの記憶の中の鐘は、覆われ、鳴らされない。


 そこには、止める意思がある。


「鳴らさないための手順があったんですね」


 アルトが言うと、エリアナは頷いた。


「はい。布をかける人、灯を置く人、香草を焚く人。役割が決まっていたそうです」


 カイが少し身を乗り出す。


「祝祭係みたいなものか」


 エリアナは一瞬考え、それから小さく頷いた。


「近いかもしれません」


「学園祭の準備委員みたいな」


「……そう言うと、不思議ですね」


 エリアナの口元が少し動く。


「でも、役割があったという意味では、似ています」


 ミリアが微笑む。


「役割は、人を閉じ込めることもあるけれど、支えることもあるわ」


 リゼが頷く。


「役割を選べる場合、安全性が上がります」


「リゼさんらしい表現ね」


「はい」


 エリアナが静かに言った。


「私は、祝祭の役割を選んだことはありません」


 部屋が少し静かになる。


 エリアナはパンの包みを見ている。


「母の話を聞いただけです。実際の祝祭に、私が役割を持ったことはありません。敗戦後、そういう集まりは縮小され、監視されました」


 アルトの胸が重くなる。


 祝祭は境界を開く。


 だから危険にもなる。


 でも、閉ざされれば、戻る場所の味も失われる。


 カイが小さく言った。


「じゃあ、次の試作の時、何か役割やりますか」


 エリアナが顔を上げる。


「役割」


「香草確認係、とか。味見係はもちろんだけど、それだけじゃなくて」


 リゼが真面目に言う。


「香草砕き係が適切では」


 カイが頷く。


「それだ。急がないやつ」


 エリアナの瞳が揺れた。


「私が、香草を砕くのですか」


 ミリアが優しく言う。


「やりたければ」


 エリアナは指先を見た。


「母がしていたように」


 小さな声だった。


 ミリアは首を横に振らなかった。


 ただ、言った。


「あなたが、あなたの手で」


 エリアナはその言葉を受けた。


 母の代わりではない。


 故国の象徴としてでもない。


 自分の手で。


「……考えます」


 彼女は言った。


「はい」


 カイが頷く。


「考えてください」


 エリアナは少しだけ笑った。


「命令のようですね」


「あ、すみません」


「不快ではありません」


 エリアナの声は柔らかかった。


 ユリウスが資料を確認しながら言った。


「白鐘礼拝堂が王国だけの管理対象ではなかった可能性は、かなり重要だ。王宮資料の偏りを正式に指摘できる」


 エリアナの表情が少し硬くなる。


 政治的な話に戻ると、彼女の警戒がすぐに戻る。


 ミリアがすぐに言った。


「ただし、今日の話を王宮へ出す場合は、料理記録と個人記憶の扱いを分けましょう」


 ユリウスは頷いた。


「もちろん。白鐘礼拝堂に複数儀礼があった可能性として、要点だけ出す。エリアナさんの母上や祝祭の個人的記憶は、本人確認なしには出さない」


 エリアナは少しだけ息を吐いた。


「ありがとうございます」


 エレオノーラが記録する。


「王宮共有時は、複数儀礼可能性のみ。個人記憶詳細は本人確認なしに共有しない」


 アルトは、その記録を見て安心した。


 記憶が、勝手に資料へ変えられない。


 味が、封印情報としてだけ扱われない。


 エリアナが今日話したことは、エリアナのものとして残る。


 その上で、必要な情報だけが共有される。


 それは難しい。


 でも、今この場では、みんながそれをやろうとしている。


 リゼが静かに言った。


「白鐘は、王国だけのものではありません」


 エリアナがリゼを見る。


「はい」


「私は、今まで王宮資料と王国側記録を中心に見ていました」


「でしょうね」


 その言葉は以前にも聞いた。


 だが、今の響きは少し違う。


 リゼは頷いた。


「記録の偏りを確認します」


 エリアナは少しだけ目を伏せる。


「王国の記録に、私の母の祈りは残っていません」


「はい」


「でも、今日ここで少し話しました」


「はい」


「それが、すべてを埋めるわけではありません」


「はい」


 リゼは静かに言った。


「ですが、空白があると知りました」


 エリアナはゆっくり頷いた。


「それなら、今は十分です」


 図書室の窓の外で、風が木の葉を揺らした。


 鐘は鳴らない。


 代わりに、紙をめくる音がする。


 誰かの足音。


 遠くの話し声。


 そして、机の上から立ち上る、わずかな香草と蜂蜜の匂い。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。白鐘の話をしましたが、怖いだけではありません」


 エリアナが微かに微笑む。


「私もです」


 カイが包みを見て言った。


「これ、もう一口いけますか」


 ミリアがすぐに確認する。


「記録用に残す分は?」


 エレオノーラが答える。


「香り確認済みのため、残量を食べても問題ありません。ただし、成分表示は添付済みです」


 カイは目を輝かせた。


「じゃあ」


 調子よく手を伸ばしかけて、止まる。


 エリアナを見る。


「エリアナさんが先です」


 エリアナは少し驚いたようにカイを見る。


「私が?」


「エリアナさんの味なので」


 以前も言った言葉。


 でも、エリアナは今回も少しだけ黙った。


 それから、小さく頷く。


「では、一口」


 彼女は小さなパンの欠けを手に取った。


 香りを確かめ、口に入れる。


 少し噛んで、飲み込む。


「やはり、蜂蜜が少し多いです」


 カイが真剣に頷く。


「次は減らす」


「香草候補三は、少し増やしてください」


「了解」


 リゼが言う。


「次回試作条件、確認」


 ミリアが微笑む。


「料理記録としてね」


「はい。料理記録として」


 エリアナが、今度は自分から言った。


「それから」


 全員が彼女を見る。


 エリアナは少しだけ迷い、それでも言葉を続けた。


「次は、香草を砕くところを、私がやってみたいです」


 カイの顔が明るくなる。


 ミリアが柔らかく頷く。


 アルトの胸が温かくなる。


 リゼは静かに言った。


「本人意思、確認しました」


 エリアナは少しだけ笑った。


「はい。本人意思です」


 それは、祝祭の役割を取り戻すための大きな宣言ではなかった。


 故国を背負う姫の言葉でもない。


 ただ、一人の少女が、次の試作で香草を砕いてみたいと言っただけだった。


 でも、その小さな言葉は、図書室の静けさの中で、灯のように残った。


 鐘を鳴らさない祝祭。


 灯と香りで祈る白鐘。


 王国の資料にはなかった記録。


 それが今、パンの香りと一緒に、少しずつこの学園の中へ入ってきている。


 アルトは最後にもう一度、左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 白鐘は、怖いだけではなかった。


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