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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第7章 第11話:視線の刃


 午後の授業が終わった後、廊下にはいつもの放課後のざわめきが戻っていた。


 窓の外では、薄い雲が太陽を隠したり、また光を落としたりしている。中庭の芝生は昼より少し暗く、鐘楼へ続く道を塞ぐ青い布だけが、風に小さく揺れていた。


 鐘は鳴らない。


 それにも、もう何人かの生徒は慣れ始めている。


 授業終了を知らせる生徒会補助の声が廊下を通り過ぎると、教室から生徒たちが一斉に出てくる。


 課題の話をする者。


 食堂の夕食を気にする者。


 訓練場へ急ぐ者。


 図書室へ向かう者。


 その流れの中に、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントもいた。


 制服の袖は整えられ、淡い亜麻色の髪は乱れていない。


 薄紫の瞳は前を見ている。


 歩幅は一定。


 王宮や外交局の礼法で固められたような歩き方は、昨日より少しだけ柔らかくなっていた。


 昼休みに、彼女は故国の香草パンの話をした。


 セリーネ草。


 蜂蜜。


 小さな灯。


 鐘を鳴らさない祝祭。


 そして、午後の授業へ自分の足で戻った。


 その小さな変化を、アルト・レインフォードは覚えている。


 今も左手首は静かだった。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 エリアナと同じ廊下を歩いていても、銀環は暴れない。


 白鐘の話をしなければ、彼女の存在そのものが強い刺激になるわけではない。


 それを確認できることは、少し安心だった。


 エリアナは危険そのものではない。


 反応は情報であって、判決ではない。


 アルトはその言葉を、歩きながら心の中で繰り返した。


 隣ではカイ・ロックハートが、放課後の予定を真剣に考えている。


「調理場に聞く前に、ミリアに確認。ミリアに確認する前に、リゼの搬入記録確認。アルトは成分表示。エリアナさんはセリーネ草の匂い確認。これで合ってるか?」


 ミリア・ファルネーゼが微笑む。


「概ね合っているわ。ただし、今日はまず調理場に“聞いてよいか”の確認からね」


「聞く前に、聞いてよいかを聞くのか」


「ええ」


 カイは少し難しい顔をした。


「確認が多い」


 リゼ・グレイスが真面目に頷く。


「調理場は学園内の食材管理区域です。突然の要求は混乱を招きます」


「突撃しない」


「良好です」


「言われる前に言った」


 エリアナが、そのやり取りを見てほんの少し口元を緩めた。


 最初の日なら、ここで戸惑うだけだったかもしれない。


 今は、少しだけこの会話の調子を掴み始めている。


 アルトはそれが嬉しかった。


 だからだろう。


 次の角を曲がった先の廊下で、空気が変わった時、余計にはっきりと感じた。


 細い視線。


 抑えた声。


 笑いを飲み込んだ気配。


 廊下の窓際に、三人の生徒がいた。


 一人はオスカー・ベイルではない。


 だが、同じような貴族家の生徒たちだ。


 制服の仕立てが良く、立ち方にどこか余裕がある。


 その余裕は、今は少しだけ嫌な形をしていた。


 彼らはエリアナたちが近づくと、会話を止めた。


 止めたが、視線は止めなかった。


 エリアナは気づいている。


 気づいていながら、歩調を変えない。


 慣れている。


 それが、アルトには嫌だった。


 嫌な視線に慣れている人の歩き方。


「痛みなし。熱少し。声なし。視線が嫌です」


 アルトが小さく言うと、リゼがすぐに頷いた。


「確認しました」


 ミリアの表情が柔らかく変わる。


 いつもの微笑み。


 しかし、目は冷静だった。


 そのまま通り過ぎられればよかった。


 だが、窓際の一人が声を落として言った。


「王国の廊下を、敗戦国の姫が歩くのか」


 言葉は小さかった。


 しかし、届くように作られていた。


 エリアナの足が止まらなかった。


 止まらないようにしたのだ。


 指先だけが、ほんの少し硬くなる。


 カイの足が止まりかけた。


 リゼの視線が鋭くなる。


 ミリアが一歩前へ出ようとした。


 だが、その前に、もう一人が言った。


「姫というより、人質だろう。旧王家の残り香を学園で飼うとは、王宮も物好きだ」


 アルトの左手首が熱を持った。


 痛みはない。


 でも、胸が一気に重くなる。


 残り香。


 飼う。


 人を、そんなふうに呼ぶ。


 エリアナの表情は変わらない。


 変わらなさすぎた。


 その無表情が、平気ではないことを示していた。


 カイが低く言う。


「おい」


 声が危ない。


 廊下の空気が固まる。


 相手の生徒の一人が、カイを見て薄く笑った。


「何か?」


 カイの拳が握られる。


 だが、彼は動かなかった。


 突撃しない。


 確認。


 歯を食いしばりながら、それを守っている。


 リゼが一歩前へ出た。


 その瞬間、相手の三人の顔色がわずかに変わる。


 灰銀の髪。


 戦場で知られた名。


 剣を抜いていなくても、リゼが前に出るだけで空気は変わる。


 しかし、リゼは剣に触れなかった。


 声も荒げなかった。


 ただ、相手とエリアナの間に立つ。


 近すぎない距離。


 逃げ道を塞がない位置。


 それでも、はっきりと遮る立ち位置。


「その呼称は、本人への侮辱です」


 リゼの声は静かだった。


 廊下にいた数人の生徒が足を止める。


 相手の生徒が口元を歪めた。


「灰銀の戦乙女が、敗戦国の姫を庇うのか」


 その言葉で、廊下の空気がさらに冷えた。


 灰銀の戦乙女。


 敗戦国の姫。


 二つの役割名が、わざと並べられる。


 見世物の構図。


 対立の絵。


 その中に、リゼとエリアナを押し込める言葉。


 アルトの左手首が熱くなる。


「痛みなし。熱中。声なし。呼称で反応しました」


 ミリアがすぐにアルトの横へ来る。


「現在地」


「王立学園二階廊下」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「声」


「なし」


「感情」


「嫌です。怒っています」


「良好。後ろへ半歩」


 アルトは半歩下がった。


 その間にも、リゼは相手を見ている。


「私は、侮辱を止めています」


 リゼは言った。


「庇う、という語を使う前に、あなたの発言内容を確認してください」


 相手の眉が動く。


「侮辱? 事実だろう。彼女は旧敗戦国王家の血筋だ」


 ミリアが静かに前へ出た。


「事実を含む呼称でも、使い方によって侮辱になります」


 彼女の声は柔らかい。


 だが、廊下の空気を逃がさない。


「授業で扱ったはずよ。血統情報と、本人を貶める言葉は別です」


 相手の一人が少し気まずそうに視線を逸らした。


 ロウ教師の授業を思い出したのだろう。


 だが、最初に言った生徒は引かなかった。


「ファルネーゼ嬢は随分と寛大ですね。王国貴族が旧敗戦国の姫にそこまで気を遣う必要が?」


 ミリアは微笑んだまま答える。


「王国貴族だからこそ、言葉の扱いには気を遣います」


 その返しに、相手の顔が少し歪んだ。


 ミリアは続ける。


「それに、彼女の名前はエリアナ・ルクス・ヴェルグラントさんです。呼称が必要なら、まず名前を使いましょう」


 エリアナは黙っていた。


 リゼの後ろ。


 守られている位置。


 だが、彼女の表情は複雑だった。


 守られることに慣れていないのか。


 リゼに守られることが複雑なのか。


 それとも、自分で何も言えないことが嫌なのか。


 アルトには、その全部のように見えた。


 相手の生徒がリゼを見る。


「では、リゼ・グレイス。あなたは本当に、彼女を敵ではないと言えるのですか」


 リゼは動かない。


「言えます」


「故国ではあなたを憎んでいるかもしれないのに?」


「それは、彼女が決めることです」


「王国に害をなす可能性があっても?」


「可能性と侮辱は別です」


 リゼの声は少しも揺れない。


「警戒は手順で行います。廊下での侮辱は警戒ではありません」


 カイが小さく「そうだ」と言う。


 声を抑えている。


 良好だった。


 相手は少し苛立ったようだった。


「ずいぶん変わったものだ。灰銀が敗戦国の血を守るとは」


 その言葉は、リゼを刺すためのものだった。


 だが、エリアナにも刺さる。


 敗戦国の血。


 血を、人の代わりに置く言葉。


 アルトは左手首を強く押さえた。


「痛み少し。熱中。声なし」


 リゼがそれを聞いた。


 一瞬、彼女の視線がアルトへ向く。


 次に、エリアナへ。


 そして、相手へ戻る。


「血を侮辱の対象にしないでください」


 リゼは言った。


「血統情報は、本人を傷つけるための道具ではありません」


 相手が笑いかける。


「戦場でさんざん血を流したあなたが?」


 廊下の空気が凍った。


 カイが動きかける。


 ミリアがすぐに手で止めた。


 リゼの瞳が、一瞬だけ遠くなる。


 戦場。


 血。


 灰銀。


 だが、彼女は戻った。


 自分で戻った。


「はい」


 リゼは言った。


「私は戦場で血を流しました。敵を斬りました。その記録があります」


 相手の顔から、少し余裕が消える。


 リゼは続けた。


「だからこそ、ここで血統を侮辱の道具として扱うことを止めます」


 静かな声。


 剣よりも重い。


「ここは戦場ではありません。彼女は現在、王立学園の短期留学生です」


 エリアナの指が動いた。


 リゼはさらに言う。


「そして、私はリゼ・グレイスです。王立学園の生徒です。廊下で生徒が侮辱されているため、止めています」


 ミリアが頷く。


「私も同意します」


 カイが言う。


「俺も」


 アルトも、左手首を押さえながら言った。


「僕もです」


 相手の三人は、少し周囲を見た。


 廊下に足を止めている生徒が増えている。


 ラウル・ヴァレンシュタインもいた。


 彼は少し離れた位置で立ち止まり、何も言わずに見ている。


 その沈黙が、騎士家の圧力のように働いていた。


 セレナ・アイゼンベルグも廊下の反対側にいた。


 彼女は窓辺に立ち、静かにこちらを見ている。


 証人が増えている。


 ミリアがそれを確認して、さらに一歩進めた。


「この発言は、学園内の呼称方針に反します。必要なら、私から生徒会へ報告します」


 相手の一人が慌てたように言う。


「そこまでする話では」


「本人への侮辱がありました」


 ミリアは微笑みを崩さない。


「記録するには十分です」


 その言葉で、空気が変わった。


 噂なら逃げられる。


 廊下の軽口なら、言っていないと誤魔化せる。


 だが、記録されるとなれば違う。


 相手の生徒たちは互いに視線を交わした。


 最初に言った生徒が、ようやく口を閉じる。


「……不適切な表現でした」


 謝罪の形を取った言葉。


 だが、目はまだ納得していない。


 ミリアが静かに言う。


「誰に向けた言葉かしら」


 相手の顔が歪む。


 逃がさない。


 ミリアは柔らかく、しかし確実に逃げ道を塞いでいる。


 生徒はエリアナを見る。


「エリアナ・ルクス・ヴェルグラントさん。不適切な表現でした」


 エリアナはその言葉を受けた。


 すぐには答えない。


 廊下が静かになる。


 エリアナはリゼの後ろから、一歩横へ出た。


 完全に前へは出ない。


 しかし、隠れたままでもない。


「受け取りました」


 彼女は言った。


 声は静かだった。


「許すとは言いません」


 相手の生徒が少し目を見開く。


 エリアナは続ける。


「ですが、訂正されたことは受け取ります」


 ミリアが小さく頷いた。


 リゼも表情を変えずに立っている。


 相手の三人はそれ以上何も言わず、廊下を離れていった。


 足音が遠ざかる。


 周囲の生徒たちも、少しずつ動き出す。


 ざわめきが戻る。


 だが、そのざわめきは先ほどとは違った。


 誰かが小声で言う。


「名前で呼ばないと」


「今のは、さすがに」


「記録されるんだ」


 その言葉の中には、反省もあれば、単なる警戒もある。


 完璧ではない。


 でも、何も起きなかったことにはならなかった。


 ミリアは周囲を一度見てから、静かに息を吐いた。


「ユリウス先輩へ報告しましょう」


 リゼが頷く。


「はい」


 カイがようやく大きく息を吐いた。


「殴らなかった」


 リゼが即座に言う。


「非常に良好です」


「非常にまでついた」


「はい」


 アルトは少しだけ笑いかけたが、すぐにエリアナを見た。


 彼女は廊下の窓の方を見ている。


 表情は整っている。


 だが、指先がまだ硬い。


「エリアナさん」


 アルトが声をかける。


 エリアナはゆっくり振り返った。


「はい」


「状態は」


 エリアナは少し驚いた顔をした。


 それから、自分の手を見た。


「身体異常なし。感情……怒り、少し。疲労。慣れていると思っていたのに、少し痛かったです」


 リゼの瞳が揺れる。


 ミリアが静かに頷く。


「言えたわ」


「はい」


 エリアナは自分でも少し驚いているようだった。


「痛かった、と言いました」


 アルトは頷いた。


「はい」


「言っても、よいのですね」


 カイがすぐに言う。


「いいに決まってるだろ」


 声が少し強くなり、彼は慌てて落とした。


「いいです」


 エリアナはカイを見た。


 ほんの少しだけ、目元が緩む。


「ありがとうございます」


 リゼは一歩下がった。


 エリアナを庇う位置から、隣の位置へ。


 エリアナはそれに気づいた。


「リゼさん」


「はい」


「私を庇ったのですか」


 問いは、昨日の応接室の時より少しだけ柔らかかった。


 リゼは答えた。


「あなたが侮辱される理由がありません」


「それは、方針ですか」


 エリアナの問いは、前と同じだった。


 だが、響きが違う。


 確かめている。


 責めるためではなく。


 リゼはすぐに答えた。


「私の意思です」


 エリアナはその言葉を聞いた。


 薄紫の瞳が、静かに揺れる。


「そうですか」


「はい」


「今の言葉は」


 エリアナは少しだけ目を伏せた。


「少しだけ信じます」


 リゼの表情は大きく変わらない。


 だが、肩の力がほんの少し抜けた。


「ありがとうございます」


「感謝されることではありません」


「はい。それでも、受け取ります」


 エリアナは少しだけ口元を動かした。


 疲れている。


 でも、少しだけ笑ったようにも見えた。


 その時、廊下の向こうからユリウス・エインズワースが来た。


 後ろにエレオノーラ・ヴィンスフェルトもいる。


 どうやら、誰かがすでに呼びに行ったらしい。


 ユリウスは状況を見て、すぐに尋ねた。


「何があった」


 ミリアが簡潔に説明する。


「エリアナさんへの侮辱的呼称がありました。敗戦国の姫、人質、旧王家の残り香、飼う、という表現。リゼさんが制止。私が学園呼称方針違反として指摘。本人へ訂正発言あり。ただし、正式報告が必要です」


 エレオノーラのペンが走る。


 彼女はエリアナを見る。


「詳細記録の範囲を確認します。発言内容を正式に残してよろしいですか」


 エリアナは少しだけ息を吸った。


 侮辱の言葉を記録に残す。


 それは、自分が傷ついた事実をもう一度紙に置くことでもある。


 しかし、残さなければなかったことにされる。


 エリアナはしばらく考えた。


「残してください」


 静かな声。


「ただし、私の反応については、要約で」


 エレオノーラが頷く。


「了解しました。発言内容は正式記録。本人反応は要約。身体詳細なし」


 エリアナは頷いた。


「はい」


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。記録範囲が確認されて安心しました」


 エレオノーラは一瞬だけ微笑みに近い表情をした。


「記録します」


 カイが小声で言う。


「それは記録するんだ」


「安心の理由は重要です」


 エレオノーラは真面目に答えた。


 ユリウスはリゼを見る。


「リゼ、剣には触れた?」


「いいえ」


「相手への身体接触は?」


「なし」


「発言は?」


 リゼは淡々と答える。


「その呼称は本人への侮辱です。私は侮辱を止めています。警戒は手順で行います。廊下での侮辱は警戒ではありません。血統情報は本人を傷つけるための道具ではありません。ここは戦場ではありません。彼女は現在、王立学園の短期留学生です。私はリゼ・グレイスです。王立学園の生徒です」


 エレオノーラが必死に書く。


 カイが小声で言った。


「一言一句いけるのすごいな」


 リゼが答える。


「必要なため記憶しています」


 ミリアが笑いそうになり、少し抑えた。


 ユリウスは頷いた。


「適切だ。学園長とロウ先生へ報告する。相手の生徒には指導が入る」


 エリアナが静かに言う。


「処罰を求めているわけではありません」


「わかっている」


 ユリウスは答えた。


「ただし、放置もしない。これは君個人の感情だけの問題ではなく、学園内の呼称方針と安全環境の問題でもある」


 エリアナは少しだけ目を伏せた。


「個人の感情だけではない」


「そうだ」


「でも、私が痛かったことも、消えないのですね」


 ユリウスは頷く。


「消さない」


 その言葉に、エリアナの指先が少し緩んだ。


「わかりました」


 エレオノーラが記録する。


「本人発言。痛かったことも消えない。学園側、消さないと回答」


 エリアナはその記録を見た。


 傷を記録されること。


 それは嫌なはずなのに、今の記録は少し違うようだった。


 傷を材料にする記録ではなく、なかったことにしない記録。


 アルトは、その違いがわかる気がした。


 報告が終わると、廊下の空気は少しずつ戻っていった。


 だが、エリアナの疲労は明らかだった。


 ミリアが言う。


「今日は調理場確認を延期しましょう」


 カイがすぐに頷く。


「そうだな」


 エリアナが顔を上げる。


「でも、セリーネ草の確認は」


「逃げないわ」


 ミリアは柔らかく言った。


「今日やらないことと、なかったことにすることは違うの」


 エリアナは黙る。


 その言葉を、ゆっくり受け取る。


「そうですね」


 リゼが言う。


「休憩が必要です」


 カイが布包みを取り出した。


 ミリアが見る。


「まさか」


「いや、これは……視線の刃の後用」


 ミリアは少しだけ目を閉じた。


「名前が直接的すぎるわ」


「じゃあ、廊下で嫌なこと言われた後用」


「さらに直接的ね」


 アルトが小さく言う。


「訂正された言葉を受け取った後用、はどうですか」


 カイが少し考える。


「長い」


 リゼが真面目に言う。


「用途は正確です」


 エリアナがそのやり取りを見ていた。


 疲れているはずなのに、ほんの少しだけ目元が緩む。


「では」


 彼女は静かに言った。


「名前で呼ばれ直した後用、ではどうでしょう」


 カイが目を丸くした。


「それ、いいな」


 ミリアが微笑む。


「ええ。とても良いわ」


 リゼが頷く。


「適切です」


 カイは布包みを開いた。


「じゃあ、名前で呼ばれ直した後用」


 中には小さな焼き菓子がいくつか入っていた。


 学園祭の残りではない。


 カイが最近、調理場の端で作らせてもらった練習用の小さな焼き菓子だ。


 成分は確認済み。


 変な紙なし。


 白い線なし。


 エリアナは一つ受け取った。


 少し迷い、アルトの方を見る。


「成分は」


 アルトがすぐに答える。


「小麦、卵、乳、林檎、杏。今日は少し蜂蜜が入っています」


 カイが驚く。


「よく覚えてるな」


「聞きました」


 エリアナは頷く。


「確認しました」


 彼女は焼き菓子を口に入れた。


 ゆっくり噛む。


 飲み込む。


「甘いです」


 カイがいつものように言う。


「甘いです」


 今度は、エリアナも少しだけ笑った。


「確認しました」


 廊下の窓の外で、青い布が風に揺れている。


 鐘は鳴らない。


 でも、人の声がある。


 侮辱の声もあった。


 それを止める声もあった。


 名前で呼び直させる声もあった。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。名前で呼ばれ直した後用を食べています」


 リゼが頷く。


「良好です」


 エリアナも、ほんの少し間を置いて言った。


「身体異常なし。疲労あり。感情、まだ痛いです」


 ミリアが静かに頷く。


「ええ」


「でも」


 エリアナは焼き菓子の欠けを見つめた。


「名前で呼ばれ直しました」


 リゼが言う。


「はい」


「それは、記録してもよいです」


 エレオノーラが少し離れたところで、ペンを構えた。


「記録します」


 エリアナは窓の外を見た。


 薄紫の瞳に、まだ痛みは残っている。


 けれど、その奥に、小さな灯のようなものもあった。


「今の言葉は」


 彼女はリゼへ向き直る。


「少しだけ信じます」


 リゼは静かに頷いた。


「はい」


 カイが小声でアルトに言った。


「少しだけって、けっこう大事だな」


 アルトは頷いた。


「はい。とても大事です」


 少しだけ信じる。


 全部ではない。


 許したわけでもない。


 でも、少しだけ。


 その少しを積み重ねるために、廊下での侮辱を見逃さなかった。


 剣ではなく、言葉で止めた。


 名前で呼び直した。


 アルトの左手首は、静かだった。


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