第7章 第10話:姫の昼食
昼の食堂は、戦争の地図よりずっと正直だった。
どれほど重い授業があっても、どれほど苦い言葉が交わされても、鍋は湯気を立てる。
焼きたてのパンは香ばしい匂いを漂わせ、スープの表面には細かな油が金色に光る。調理場の奥では、大きな木べらが鍋底をこする音がして、給仕の生徒が皿を両手に抱えて通路を行き来している。
鐘は鳴らない。
食堂の入口にあった小さな合図鈴も、学園祭襲撃の後から外されたままだ。
けれど、食堂は動いている。
生徒たちは手を挙げて給仕を呼び、声で礼を言い、皿を受け取る。
金属の音が減ったぶん、人の声が少し増えた。
アルト・レインフォードは、それが少し不思議だった。
鐘が消えた場所に、別の音が入る。
怖い音を避けても、静寂だけが残るわけではない。
人は、別の合図を作る。
「痛みなし。熱少し。声なし。現在地、食堂」
アルトは左手首に触れて、小さく確認した。
布の下の銀環は、朝よりも落ち着いている。
昨日の王国史の授業で見た地図。
リゼが歩いたかもしれない北西街道。
エリアナが語った、集められた子どもたち。
それらの重さはまだ残っている。
だが今、目の前には昼食がある。
温かいスープ。
丸いパン。
白身魚の香草焼き。
林檎の薄切りが添えられた小さな皿。
食べることは、時々、戻ることに似ている。
アルトの向かいには、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントが座っていた。
今日の席は、昨日までより少し中央寄りだ。
完全に目立たない場所ではない。
だが、壁際に押し込められたわけでもない。
隣にはミリア・ファルネーゼ。
斜め向かいにリゼ・グレイス。
アルトの隣にはカイ・ロックハートがいて、なぜか自分の皿とエリアナの皿を見比べないように努力している。
努力は顔に出ていた。
「カイ」
ミリアが微笑みながら言った。
「見比べたいの?」
「いや」
カイは即答した。
「見比べたい顔をしているわ」
「顔ってそんなに出るのか」
「ええ」
「俺はただ、今日の魚、俺の方がちょっと小さい気がしただけで」
リゼが真面目に皿を確認した。
「誤差範囲内です」
「リゼまで見るなよ」
「本人が申告したため確認しました」
エリアナが静かにカイの皿を見た。
カイが固まる。
エリアナは自分の皿へ視線を戻し、少しだけ首を傾けた。
「交換しますか」
「しません!」
カイの返事は食堂に響きかけたが、途中で声量を落とした。
「しません。大丈夫です。俺の魚は俺の魚です」
「そうですか」
エリアナはそう言い、白身魚を小さく切った。
その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
笑っている。
いや、笑いかけている。
アルトはそれを見て、左手首の熱が少しだけ下がるのを感じた。
エリアナの笑みは、まだ控えめだ。
誰かに見せるための笑顔ではない。
気を抜くと消えてしまうような、細い光。
それでも、最初に学園長室へ入ってきた時の作られた口元とは違った。
ミリアもそれに気づいたはずだが、何も言わない。
大事な変化を、大げさに扱わない。
それも彼女の配慮だった。
エリアナは魚を口に運び、少しの間、味を確かめるように咀嚼した。
「香草が違います」
静かな声だった。
カイがすぐに身を乗り出しかける。
「違う?」
ミリアが手で制する。
「カイ、声」
「小声で聞く。違うって、故国のと?」
エリアナは頷いた。
「はい。ヴェルグラントで使っていた香草とは、少し香りが違います。これは……王国北部のものですか」
リゼが答える。
「食堂の記録では、北部農園からの乾燥香草が使用されています」
カイが驚く。
「なんで知ってるんだ」
「以前、食材搬入記録を確認しました」
「いつ」
「学園祭準備中です」
「そこで食堂のも見たのか」
「はい。混入経路確認のためです」
ミリアが少し笑った。
「リゼさんらしいわ」
エリアナはリゼを見た。
「食材まで確認するのですね」
「必要でした」
リゼは一拍置き、言い直す。
「安心して食べるために、知りたかったです」
エリアナの表情が少し変わった。
必要だからではなく、知りたかった。
その言い直しに気づいたのだろう。
「安心して食べるため」
エリアナは小さく繰り返した。
「はい」
アルトが言った。
「何が入っているかわかると、少し安心します」
エリアナは頷く。
「それは、わかります」
彼女の手元には、まだ少しパンが残っている。
彼女はいつも、食べる前に香りと形を確認する。
毒見を求めるわけではない。
だが、無意識に確かめている。
それは礼儀ではなく、身についた警戒だった。
カイが魚を口に放り込み、すぐに言った。
「ヴェルグラントの香草って、どんな匂いなんですか」
ミリアが少し目を向ける。
質問の勢いが強すぎたかもしれない。
カイも気づいて、慌てて付け足す。
「答えたくなかったら、いいです」
エリアナはカイを見た。
前ならその真っ直ぐさに戸惑ったかもしれない。
今は、少し考えてから答える。
「少し甘くて、少し苦い香りです。乾かすと蜂蜜に似た匂いがします。でも、焼くと苦味が出ます」
カイの目が明るくなる。
「蜂蜜っぽくて、焼くと苦い」
「はい」
「魚に使うんですか」
「魚にも、パンにも。祝祭の時には、蜂蜜と一緒に練り込んだ甘いパンを焼きました」
ミリアが興味を示す。
「祝祭のパン?」
エリアナは少しだけ目を伏せた。
警戒ではない。
遠いものを見る目。
「はい。春の終わりに、小さな灯を窓辺に置いて、香草と蜂蜜のパンを食べる日がありました」
小さな灯。
その言葉に、アルトの胸が淡く温かくなる。
小さな灯の焼き菓子店。
学園祭。
戻る場所。
エリアナは続けた。
「灯と香りで、帰ってこられなかった人に道を示すのだと聞いていました」
食堂の音が、少し遠くなる。
リゼの手が止まった。
ミリアの表情も柔らかく引き締まる。
カイも黙った。
帰ってこられなかった人。
ヴェルグラントの祝祭。
敗戦国にも、当然、祝祭がある。
家族があり、味があり、帰りを待つ灯があった。
リゼはそれを、戦場の地図としては知らなかった。
アルトは左手首に触れた。
「痛みなし。熱少し。声なし。小さな灯という言葉で、学園祭を思い出しました」
エリアナがアルトを見る。
「あなた方の店も、小さな灯でしたね」
「はい。小さな灯の焼き菓子店です」
カイが少し誇らしげに言う。
「完売しました」
エリアナは頷いた。
「聞きました」
カイの顔がさらに明るくなる。
「誰から?」
「昨日、リリアさんが話していました。看板もずっと立っていた、と」
アルトの胸が温かくなる。
リリアが、そう言ってくれた。
看板もずっと立っていました。
あの日の言葉が戻ってくる。
ミリアが静かに言う。
「ヴェルグラントにも、小さな灯の祝祭があったのね」
「はい」
エリアナは頷いた。
「ただ、敗戦後は縮小されました。集まること、灯を置くこと、古い歌を歌うことが、政治的な意味を持つようになったので」
リゼの灰銀の瞳が揺れる。
祝祭が、危険になる。
学園祭もそうだった。
境界を開く祝祭。
誰かがそこに入り込む。
でも、だからといって祝祭そのものが悪いわけではない。
「ロウ先生が言っていました」
アルトは言った。
「祝祭は境界を開く。開くなら、閉じ方も知れ、と」
エリアナは少しだけ目を細める。
「その先生は、よく本質を言いますね」
カイが頷く。
「厳しいけどな」
ミリアが微笑む。
「厳しいけれど、見てくださるわ」
エリアナはスープを一口飲んだ。
少し温くなっている。
それでも、彼女は残さず飲んだ。
「故国の祝祭では」
彼女はゆっくり言った。
「鐘を鳴らしませんでした」
アルトの左手首が少し熱を持つ。
痛みなし。
声なし。
エリアナはすぐにこちらを見た。
「続けても?」
アルトは頷いた。
「はい。熱少し。痛みなし。声なし。聞けます」
エリアナは頷き、言葉を選ぶ。
「灯と香りと、手を合わせる音だけでした。拍手ではありません。祈る前に、手のひらを一度だけ合わせるのです」
アルトは第6章の閉会を思い出した。
鐘ではなく、手拍子。
みんなの手が作った音。
人の音。
怖くなかった音。
「鐘を鳴らさない祝祭」
リゼが小さく言った。
「はい」
エリアナは頷く。
「白鐘に関わる古い家では、特にそうでした。鐘は境界を呼びすぎるから、普段は鳴らさない。灯と香りで十分だと」
ミリアが静かに言う。
「昨日の白鐘の話と繋がるわね」
「はい」
エリアナは少しだけ表情を硬くした。
「母も、祝祭の日には香草のパンを焼きました」
母。
その言葉が出るたび、エリアナの声はほんの少しだけ変わる。
丁寧な殻の内側にある、少女の声。
アルトはそれを感じた。
カイはすでに完全に料理の話に戻っている顔だった。
重い由来を聞きながらも、同時に作り方を考えている。
「それ、材料って何ですか」
ミリアが今度は止めなかった。
エリアナが少し驚く。
「作るつもりですか」
「作れるかもしれないなら」
「なぜ」
カイは少し考えた。
「食べてみたいから」
あまりにも率直だった。
エリアナは瞬きをする。
カイはさらに言う。
「あと、エリアナさんが食べたいなら、作れた方がいいだろ」
エリアナの指が止まった。
ミリアも、リゼも、アルトも、少し黙る。
カイだけが、自分の言葉の重さに気づいていない顔をしている。
エリアナは視線を落とした。
「食べたいかどうか」
小さく呟く。
「考えたことが、ありませんでした」
ミリアが静かに問いかける。
「故国の味なのに?」
「故国の味だからです」
エリアナは答えた。
「食べたいと思うことが、危険な時期がありました。戻りたいと思っていると見なされる。旧王家の祝祭を懐かしんでいると見なされる。政治的な意思だと扱われる」
アルトの左手首が淡く熱を持つ。
食べたい。
それすら政治になる。
エリアナは静かに続けた。
「だから、私は自分が食べたいかどうかを、あまり考えないようにしていました」
カイの顔が強張る。
「……悪い」
「いいえ」
エリアナは首を横に振った。
「今の問いは、少し驚きました。でも、不快ではありません」
カイはほっとしたように息を吐いた。
ミリアが優しく言う。
「今、考えてもいいのよ」
エリアナはミリアを見る。
「今?」
「ええ。ここで答えを決めなくてもいいけれど、食べたいかどうかを考えること自体は、ここでは禁止されていないわ」
エリアナの目が少し揺れた。
食堂のざわめきが、周囲で続いている。
他の生徒たちは、それぞれの昼食を食べている。
誰かが笑い、誰かが課題の話をし、誰かがスープをこぼして慌てている。
そんな中で、エリアナは自分の皿のパンを見た。
「食べたい」
小さな声だった。
だが、聞こえた。
「かもしれません」
カイの顔が明るくなりかける。
ミリアが視線で「騒がない」と伝える。
カイは必死で抑えた。
「じゃあ、作ります」
声は小さかった。
しかし、熱は大きかった。
「ただし、材料わかんないと無理です。あと、変な意味に取られないように、ミリアに確認します」
ミリアが頷く。
「ええ。故国の祝祭料理を学園内で作るなら、扱い方は慎重にしましょう。勝手に再現して見世物にしない。本人の確認を取る。政治的な掲示にはしない。まずは少人数で試作ね」
リゼが言う。
「材料調達経路も確認が必要です」
「それはリゼが見てくれ」
「了解しました」
リゼは言ってから、少し間を置いた。
「私も、知りたいです。ヴェルグラントの祝祭の味を」
エリアナの瞳がリゼへ向いた。
食堂の音が、少しだけ遠くなる。
リゼの言葉は、軽くはなかった。
あなたの故国の味を知りたい。
それは、戦場の地図ではなく、そこに暮らしていた人々の生活を知りたいということでもある。
エリアナはすぐには答えなかった。
昨日の王国史の授業。
勝利の後にも、人は残る。
敗北の後にも、人は残る。
その人たちは、何を食べ、何を灯し、誰を待っていたのか。
リゼは、それを知ろうとしている。
エリアナは静かに言った。
「あなたが知ることは、私にはまだ少し怖いです」
リゼは頷いた。
「はい」
「王国の英雄が、故国の祝祭を知ることが」
「はい」
「でも、知られないまま、戦場の地図だけで終わることも嫌です」
リゼの瞳が少し揺れる。
「はい」
「だから、少しずつなら」
エリアナは言った。
「少しずつなら、話せるかもしれません」
リゼは深く頷いた。
「ありがとうございます」
「感謝されることかは、まだわかりません」
「それでも、受け取ります」
エリアナは目を伏せた。
「はい」
カイがそっと手を挙げた。
「香草、名前は?」
ミリアが少し笑う。
「本当に料理へ戻すのね」
「戻した方がいいだろ」
エリアナは少しだけ考える。
「王国語では、同じ名前がないかもしれません。ヴェルグラントでは、セリーネ草と呼んでいました」
カイは真剣に繰り返す。
「セリーネ草」
「乾かすと甘く、焼くと苦い香りです」
「蜂蜜と混ぜる」
「はい。ただし、蜂蜜を入れすぎると香りが死にます」
カイの目が真剣になる。
「香りが死ぬ」
リゼが記録しようとする。
ミリアが止めるか迷う。
今回は止めなかった。
リゼは短く書いた。
セリーネ草。乾燥時甘香。焼成時苦味。蜂蜜過多で香り低下。
エリアナがそれを見る。
「本当に記録するのですね」
リゼは少しだけ不安そうに問う。
「不快ですか」
エリアナは記録帳を見た。
戦場記録ではない。
封印記録でもない。
反応記録でもない。
故国のパンの作り方。
香草の特徴。
「いいえ」
彼女は静かに言った。
「これは、少し嬉しいです」
リゼの指が止まる。
「嬉しい」
「はい」
エリアナは少しだけ目を伏せた。
「私の故国の味が、危険情報ではなく、料理の記録として残るのは」
アルトの胸が温かくなった。
左手首も、淡く温かい。
痛みはない。
声もない。
ミリアが柔らかく微笑む。
「では、料理の記録として扱いましょう」
カイが頷く。
「試作用」
「まだ作っていません」
リゼが言う。
「準備記録です」
「じゃあ、故国のパン準備用」
エリアナは少し考えた。
「少し、大きすぎる名前です」
「じゃあ、セリーネ草確認用」
「それなら」
エリアナはほんの少しだけ笑った。
「悪くありません」
その笑みを、今度はアルトもはっきり見た。
小さい。
でも、確かに笑っていた。
昼食を終えた後、五人は食堂を出て中庭へ向かった。
エリアナの行動範囲は、学園側同席者ありで中庭まで認められている。
今日の同席者はミリアとリゼ。
アルトとカイは友人として同行。
ユリウスには事前に報告済み。
エレオノーラの記録では「昼食後、短時間の中庭散歩。目的、休憩」となる。
中庭には、学園祭の跡がほとんど残っていなかった。
台の跡も薄くなり、花壇の縁も整えられている。
ただ、青い布で塞がれた鐘楼側の道だけが、まだあの日を示していた。
エリアナはその布を見て、少し立ち止まった。
「ここが、襲撃のあった場所ですか」
アルトが答える。
「近くです。小さな灯の焼き菓子店は、あちらでした」
彼は指で示す。
中庭の一角。
今は何もない場所。
「何もないのですね」
エリアナが言った。
「はい。でも、ありました」
アルトは答える。
「看板があって、焼き菓子があって、列ができました。怖いこともありました。でも、最後は完売しました」
カイがすぐに言う。
「六十個」
「正確には販売記録六十です」
リゼが補足する。
「完売です」
カイが胸を張る。
エリアナはその場所を見つめた。
「戻る場所の味」
彼女は小さく呟いた。
アルトが見る。
「はい?」
「以前、リゼさんが私に聞きました。故国の祝祭の味は、戻る場所の味かと」
リゼが静かに頷く。
「はい」
「その時は、答えられませんでした」
エリアナは何もない中庭の一角を見ている。
「今も、はっきりとはわかりません」
風が吹く。
青い布が少し揺れる。
鐘は鳴らない。
遠くで、誰かの笑い声がする。
「でも、もしセリーネ草のパンを食べたいと思ったのなら」
エリアナはゆっくり言った。
「私は、少し戻りたいのかもしれません」
ミリアは何も言わなかった。
カイも黙っている。
リゼも、ただ聞いていた。
アルトは左手首に触れる。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
「戻るのは、危険ですか」
アルトは尋ねた。
エリアナは少し考えた。
「場所へ戻ることは、今は危険です」
「はい」
「でも、味や記憶へ少し戻ることまで、すべて危険だと思っていました」
「今は?」
エリアナは、中庭の空を見上げた。
「今は、確認中です」
リゼが一瞬、目を動かした。
自分のよく使う言葉を、エリアナが使ったからだ。
エリアナもそれに気づいたのか、少しだけ口元を緩めた。
「便利な言葉ですね」
リゼは真面目に頷く。
「はい。ですが、便利なだけにしないよう注意が必要です」
「覚えておきます」
そのやり取りに、ミリアが小さく笑う。
カイが言う。
「じゃあ、とりあえず作ってみるか。セリーネ草、探すところからだけど」
「王国で手に入るかはわかりません」
エリアナが言う。
「代用品があるかもしれないわ」
ミリアが考える。
「香りが甘く、焼くと苦味が出るもの。蜂蜜と合わせる。薬草棚か、北部商人の乾燥香草に似たものがあるかもしれないわね」
リゼが頷く。
「食材搬入記録を確認します」
カイが拳を握る。
「調理場に聞く」
「突撃前に?」
アルトが言うと、カイはすぐ答えた。
「確認」
「良好です」
リゼが言う。
エリアナが少し笑った。
今度の笑みは、もう隠しきれていなかった。
「皆さんは、本当に確認が好きなのですね」
ミリアが微笑む。
「確認しながら、少しずつ進んできたの」
「そうですか」
エリアナは中庭の、何もない場所を見た。
「私も、少しずつなら」
彼女は言った。
「故国の味を、思い出せるかもしれません」
その時、中庭の反対側から、数人の生徒が歩いてきた。
ティナ・ベルとノエル・バートン、それにリリア・ノースだ。
三人はアルトたちに気づき、少し迷ってから近づいてきた。
ミリアが柔らかく視線を送る。
大丈夫。
ただし、慎重に。
ティナが最初に口を開いた。
「こんにちは」
声は明るいが、いつもより少し抑えられている。
エリアナが礼を返す。
「こんにちは」
ノエルが少し緊張しながら言った。
「授業、一緒でしたね」
「はい」
リリアが静かに言う。
「食堂でも、お見かけしました」
「はい」
短い会話。
だが、誰も「敗戦国の姫」とは言わない。
誰も「灰銀と一緒にいる」と騒がない。
ティナは少しだけ迷ってから、笑った。
「学園の食堂、最初は量が多く感じませんか?」
エリアナは一瞬、予想外の質問を受けた顔をした。
そして、少し考える。
「はい。少し」
ティナがぱっと明るくなる。
「ですよね。私も入学した時、スープでお腹いっぱいになりました」
ノエルが頷く。
「でも慣れると、午後の授業に必要だとわかります」
リリアが小さく言う。
「特にロウ先生の後は」
カイが大きく頷く。
「わかる」
エリアナはそのやり取りを見ていた。
政治でも血統でもない。
食堂の量。
午後の授業。
ロウ教師の重さ。
そんな話を、普通に振られている。
「そうですね」
エリアナは言った。
「午後の授業には、必要だと思いました」
ティナは嬉しそうに笑った。
「ですよね」
会話は短く終わった。
三人は長居せず、「また授業で」と言って去っていく。
エリアナはその背中を見送った。
「今のは」
少し不思議そうに言う。
ミリアが尋ねる。
「嫌だった?」
「いいえ」
エリアナは首を横に振った。
「何を話せばよいかわからなくなりました」
カイが笑う。
「食堂の量の話でいいんじゃないか」
「それでよいのですか」
「たぶん」
アルトが頷く。
「僕も、最初は何を話せばいいかわかりませんでした」
エリアナがアルトを見る。
「今は?」
「今も、わからないことがあります。でも、少しずつです」
エリアナは少しだけ目を伏せた。
「少しずつ」
リゼが静かに言う。
「良好です」
エリアナは、今度はその言葉に苦笑に近い表情を浮かべた。
「その言葉も、少しずつ慣れてきました」
昼休みの終わりは、鐘ではなく声で告げられた。
廊下の方から、生徒会補助の生徒が歩いてくる。
「午後二時限目、開始十分前です」
中庭にいた生徒たちが動き出す。
エリアナも教室へ戻るために歩き出した。
その足取りは、朝よりほんの少しだけ軽かった。
アルトは左手首に触れた。
「痛みなし。熱少し。声なし。昼休み終了前」
エリアナが隣で、小さく言った。
「身体異常なし。疲労少し。感情……少し、落ち着いています」
リゼが頷く。
「良好です」
「はい」
エリアナは素直に頷いた。
カイが拳を軽く握る。
「午後終わったら、調理場にセリーネ草の確認」
ミリアが即座に言う。
「突撃ではなく?」
「確認」
「よろしい」
リゼが言う。
「食材搬入記録も確認します」
アルトが続ける。
「僕は、成分表示を作れるかもしれません」
カイが笑う。
「看板係復活か」
「必要なら」
エリアナが足を止めた。
少し驚いたように、アルトを見る。
「成分表示まで?」
「はい。小さな灯の焼き菓子店で担当しました」
エリアナは少し考えた。
それから、静かに言った。
「では、もし作るなら、お願いします」
アルトの胸が温かくなる。
「はい」
戻る場所の味。
故国の祝祭。
セリーネ草のパン。
それはまだ、形になっていない。
材料もない。
作れるかどうかもわからない。
けれど、エリアナが「食べたいかもしれない」と言った。
カイが作ると言った。
ミリアが扱い方を整えた。
リゼが記録した。
アルトが成分表示を引き受けた。
それだけで、何もない中庭に、小さな灯がまた一つ置かれたような気がした。
教室へ戻る廊下で、エリアナはふと呟いた。
「王国の学園で、故国の味を考える日が来るとは思いませんでした」
ミリアが柔らかく言う。
「不快?」
エリアナは少し考えた。
「怖くないわけではありません」
「ええ」
「でも、不快ではありません」
リゼが隣で言った。
「記録しても?」
エリアナはリゼを見る。
少しだけ目元を緩める。
「料理の記録としてなら」
リゼは真面目に頷いた。
「料理の記録として扱います」
カイが小さく笑った。
アルトも笑う。
午後の授業の前、教室の扉が見えてくる。
エリアナはその前で一度だけ立ち止まり、自分の制服の袖を整えた。
それから、顔を上げる。
もう、見られることが怖くないわけではない。
敗戦国の姫という名が消えたわけでもない。
保護観察対象という紙の分類がなくなったわけでもない。
それでも彼女は、少し前より自分の足で立っているように見えた。
「行きます」
エリアナが言った。
リゼが頷く。
「はい」
アルトも頷く。
「はい」
カイが言う。
「午後も行く用、必要だったな」
ミリアが微笑む。
「ええ。今まさにね」
エリアナは扉に手をかける前に、ほんの少しだけ笑った。
「午後も行く用」
小さく繰り返して、彼女は教室へ入った。




