長閑(三)
自室の机に向かったルナリーシアは、ペンを手にして、思わずうなった。書けないことが多すぎるのだ。
『お母さんへ
突然いなくなってしまって、ごめんなさい。
心配していると思うけど、私は元気です。
訳あって、しばらく神殿に行くことになりました。
怖いことをされたり、悪いことをしたりしたわけじゃないから、心配しないでね。
偉い神官様も一緒にいて、とても親切にしてもらっています。
今はパラスという街にいます。
この間の嵐で土砂崩れがあったみたいで、道が通れるようになるまで、ここで何日か泊まることになりました。
ちゃんと食べて、ちゃんと寝てね。
私もちゃんと食べます。
また手紙を書きます。
ルナリーシア』
四苦八苦して何とかそこまで捻り出し、ルナリーシアは筆を止めた。
本当なら、書きたいことは山ほどあった。
あの嵐の夜、精霊の力を使ったところを神官に見られてしまったこと。
ずっと隠してきた秘密が、とうとう知られてしまったこと。
————自分が『精霊の巫女』と呼ばれる存在であるらしいこと。
けれど、そのどれも書くことは許されていない。
神殿へ行くことや、今いる場所、無事であることまでは知らせて構わない。
だが、その理由については伏せるようにと、ナディフ神官長から念を押されていた。
「……訳あって、ねえ」
我ながら、何とも便利な言葉である。
こんな手紙を受け取って、本当に母が安心してくれるのかは怪しかった。
それでも何も知らせないよりは、ずっといい。
(やっぱり、後で精霊に声を届けてもらおうかな。)
この手紙と一緒に、声も届ければ母も少しは安心してくれるだろう。
◇
「これで全部か?」
「そうよ」
夕食前、書き上げた手紙をガーディアスへ差し出した。
母へ送る前に、機密に触れる内容が書かれていないか確認するためである。
「……」
ガーディアスは黙って読み進めていく。
自分の手紙を目の前で読まれるというのは、思っていた以上に居心地が悪い。
「そんなにじっくり読まなくても、書いちゃいけないことは書いてないわよ。」
「分かっている。確認しているだけだ。」
「……。」
「規則だ。」
「はいはい。」
やがて、ガーディアスの視線が止まった。
「ここだな。」
「何?」
彼は手紙の一節を指した。
「『訳あって、しばらく神殿に行くことになりました』だけでは、母君も余計な心配をするだろう。」
「……じゃあ、どう書けばいいのよ。」
ガーディアスは少し考えてから、机の上に置かれていた新しい便箋を一枚取った。
「王家と神殿から話があり、しばらく神殿で世話になることになった――その程度なら書いて構わない。危険な目に遭っているわけではないことも付け加えておけ。」
「分かった。じゃあ、そこだけ書き直す。」
「いや、全文を書き直せ。」
「えっ。」
ルナリーシアは思わず声を上げた。
「何で!? そこだけ直せばいいじゃない。」
「書き足せば不自然になるだろう。新しいものを使え。」
「勿体ない!」
即答だった。平民にとって紙は贅沢品だ。ルナリーシアの勿体無い精神が叫んでいる。
今度はガーディアスが目を瞬かせた。
「……紙が?」
「紙が!」
何を当たり前のことを、とルナリーシアは眉を寄せた。
「まだこんなに余白があるのよ? たった数行直すだけなのに、捨てるなんて勿体ないじゃない。」
「……そういうものか。」
「そういうものよ。」
ルナリーシアは最初の便箋を取り返すと、しばらく考えてから、空いている場所へ文章を収められないか眺め始めた。
その様子を見ていたガーディアスは何も言わず、新しい便箋へ手を伸ばした。
さらさらと、そこへ何かを書きつける。
「ここを、こう直せ。」
「だから、新しい紙を――」
文句を言いながら覗き込んだルナリーシアは、そこで言葉を止めた。
(……字、綺麗)
端正な文字だった。
ただ整っているというだけではない。
一つ一つの線に癖がなく、文字の大きさも間隔も、驚くほど揃っている。
商会で働いていたから、字の上手い人間ならいくらでも見てきた。
帳簿を任される者など、読みやすく整った文字を書く。
けれど、ガーディアスのそれは少し違った。
正しい型というものを、幼い頃から繰り返し叩き込まれてきた人間の字だ。
そこでようやく、ルナリーシアはあることを思い出した。
(……そういえば、この人、貴族だったわね)
改めて見れば、どこからどう見てもお貴族様だった。
綺麗に整えられた黒髪に、手入れの行き届いた爪。
皺一つない上等な衣服からは、ほんのりと香水の香りがする。
背筋は真っ直ぐに伸び、筆を走らせる何気ない所作まで妙に様になっていた。
――もちろん、忘れていたわけではない。
ただ、ルナリーシアの中ではいつの間にか、『偉い貴族様』よりも『死ぬほど気の合わない頑固者』という認識の方が勝っていただけである。
(私、手討ちにされたりしないわよね……?)
勢いに任せて、色々と失言した記憶はある。
今更ながら少しだけ不安になったが、当のガーディアスが何も言ってこないので、ルナリーシアはとりあえず考えないことにした。
「そういえば、この手紙なんだけど。」
「なんだ。」
「精霊に届けてもらってもいい?」
「……精霊に?」
ガーディアスが怪訝そうな顔をする。
「その方が早いでしょ。ロシャスまで手紙を送る方法なんて、私、よく知らないし。郵便制度で送るってのは聞いたことがあるんだけど。」
商会で働いていた時、手紙でのやり取りは見てきた。だが、実際の方法はちゃんと知らない。
今度は、ガーディアスが黙った。
「……何よ。」
「いや。」
そういえば、この少女は今日、生まれて初めてロシャスを出たのだった。
貴族であれば、幼い頃から領地と王都を行き来することも珍しくない。遠方の者と手紙を交わす機会もある。
だが、平民の多くは違う。
生まれた町で育ち、そこで職を得て、家庭を持ち、その土地で一生を終える。
隣町へすら滅多に足を運ばない者もいる。
ルナリーシアにとって、遠く離れた土地へ手紙を送る必要など、これまでの人生で一度もなかったのだ。
「通常の手段で届ける。心配するな。」
「でも、何日かかるの?」
「ロシャスなら————」
「精霊なら、たぶん今日中よ。」
「……」
さらっと言ってのけたルナリーシアにガーディアスは黙り込んだ。
「駄目?」
「……いや。機密に触れる内容がないことはこちらで確認した。確実に母君へ届けられるのなら、構わない。」
「ほんと?」
ぱっと顔を明るくしたルナリーシアを見て、ガーディアスはわずかに眉を寄せた。
「ただし、手紙だけだ。それ以外の伝言は————」
「分かってるわよ。『精霊の巫女』のことは言わない。」
「ならばいい。」
◇
ナディフ神官長との夕食は、思ったよりも緊張しなかった。ひとえに、ナディフ神官長が発する穏やかで優しい雰囲気によるところが大きいだろう。
これまで食べたこともないような、豪華な食事に舌鼓を打ちつつ、ナディフ神官長と雑談をする。
「ルナリーシアさんは、とても物知りですね。」
「神官様に自慢できる程ではないですけれど。」
苦笑してみせる。
幼い頃から、本を読み漁り、時には精霊たちから様々な話を聞いてきたルナリーシアは、同い年の平民と比べて抜きん出た知識量を持っていた。
「それでも、『精霊の巫女』なんて今日初めて知りましたし、ロシャスの外に出たのも今日初めてです。」
「……『精霊の巫女』は国家機密ですから。」
微笑んだあと、ナディフ神官長はどこか懐かしそうな表情で話を続けた。
「実は私、若い頃は全国各地を放浪しておりましてね。旅が大好きなんです。今回、ロシャスにもパラスにも滞在できて、ルナリーシアさんには悪いですが、嬉しいんです。」
「ロシャスってやっぱり田舎でしょう?」
「まあ、そうですねぇ。とってものどかで良い場所だと思います。」
微笑むナディフ神官長に、ルナリーシアはある疑問を投げかけた。
「あの……。海って本当に大きいんですか?本ではよく見かけるけど、実際に目にしたことはなくて。」
「ええ。とても大きく、雄大で。晴れていれば風が気持ち良く、天気が悪ければ恐ろしい一面を見せてくれる。対岸の見えない、どこまでも続く様は圧巻です。」
「へえ……。」
いつか見てみたいものだ。
「そう言えば、このパラスは別名「水の街」として有名ですよね。」
「確か、水路が入り組んでいて、色々なところへ船でいけるとか。」
「暫くここに滞在することになりますし、明日、冒険してみます?」
二人は顔を見合わせて、悪戯を企む子供のように笑い合った。
「あー、疲れた。」
夕食を終え、生きてきた中でお目にかかることのない大浴場に興奮して、ルナリーシアは寝室に戻った。
そのまま、ベッドに横たわる。
今日は色々あった。
そのことを思い出して、目を閉じる。目を閉じる。
静かだった。
やけに広い寝室は、一人でいるには広すぎる。
(ナディフ神官長様はとても良い方だし、あの堅物男も……まあ、それほど怖い人ではないけど)
それでも。 母に会いたい。
狭くて、隙間風が入って、あちこち傷んでいるあばら屋。
それでも、母のいるあの家は暖かかった。
帰りたい。
ふいに浮かんだその言葉を、ルナリーシアは慌てて心の奥へ押し戻した。
考えない。
考えたって、どうしようもないのだから。
心の奥からじわじわと滲み出してくる孤独と目を合わせてしまわないように、ルナリーシアは掛布を引き寄せ、小さく身体を丸めた。




