長閑(四)
「おはようございます、ナディフ神官長様。」
「お早いですね、ルナリーシアさん。昨晩はよく眠れましたか?」
「ええ、それはもうぐっすりと。」
自分で思っていた以上に、疲れていたらしい。
昨晩はベッドに入って間もなく、深い眠りの淵へ沈んでいった。
「おはようございます。朝食のご用意ができております。」
老夫婦がにこやかに、二人を食堂へ案内してくれた。
「うわぁ……」
並べられた料理を見て、ルナリーシアは思わず声を漏らした。
朝食一つとっても豪華である。
焼きたてのパンに、瑞々しい野菜。卵料理に肉、果物まで並んでいる。
平民の朝食としては、少々どころか多すぎる。
「あの、私はパンとサラダとスープだけで充分です。」
「私も、パンとスープだけで結構です。」
隣を見ると、ナディフ神官長も似たような顔をしていた。
どうやら、清貧を旨とする神官にとっても、この朝食は少々豪勢すぎるらしい。
「手をつけない分は、貴族様にも出してください。」
貴族様————とは、もちろんガーディアスのことである。
しかし、老婦人はゆっくりと首を横に振った。
「お一人で召し上がるとのことでしたので、すでにお部屋へご用意しております。」
「……そうですか。」
なんとも贅沢な男である。
となると、この大量の食事はどうなるのだろう。
昨晩に引き続き、ルナリーシアの中で『勿体ないお化け』がむくむくと顔を出した。
「じゃあ、残ったものは夕飯に出してください。」
「お客様に残り物をお出しするわけにはまいりません。」
丁寧に、しかしきっぱりと断られた。
「ええ……」
(それも、そうだよね……。)
ルナリーシアは困り果てた。
まだ誰も手をつけていないのに。
食べられるのに。
捨てるなんて、あまりにも勿体ない。
「では、いくつか包んでいただくことはできますか?」
助け船を出したのは、ナディフ神官長だった。
「今日は散策がてら、パラスの街へ出ようと思いまして。一応こちらでも朝食はいただきますが、途中で小腹も空くでしょう。持たせていただけると助かります。」
「……まあ、それでしたら。」
老婦人が少し考えてから頷く。
「ありがとうございます!」
ルナリーシアはぱっと顔を輝かせた。
これで心置きなく朝食を食べられる。
◇
「お待たせしました!」
身支度を終えたルナリーシアは、ロビーへ続く階段を駆け降りた。
「ゆっくりでいいですよ。」
ナディフ神官長は穏やかに微笑むと、手にしていたバスケットを掲げてみせた。
「ルナリーシアさんの提案通り、バゲットに朝食の食材を挟んでもらいました。」
「さすがです、神官長様!」
ルナリーシアは上機嫌でバスケットを受け取った。
外出用に用意してもらった簡素な服を着たルナリーシアと、旅装の神官。
二人並べば、どこからどう見ても、中央からやって来た神官と、それに付き従う侍女である。
「さて、参りましょうか」
そうしてロビーを出ようとした、そのとき————。
「————どこへ行かれるのです、ナディフ神官長。」
冷ややかな声が頭上から降ってきた。
ルナリーシアの足が止まる。
「……ガーディアス。」
階段の上に、シャツとベスト姿の長身の男が立っていた。
腕を組み、こちらを見下ろしている。
「いえ。部屋に籠もっているのも退屈ですから、パラスの街を見て回ろうかと。」
「報告書は終わったのですか。」
「昨晩のうちに。」
「……そうですか。」
やはりナディフ神官長は、大変有能な人物である。
「では、私も付き添いましょう。」
「却下!」
叫んだのはルナリーシアだった。
ガーディアスの眉間に、ぴくりと皺が寄る。
「なぜだ。『精霊の巫女』であるお前を、そうやすやすと外へ出せるとでも思っているのか。お前に何かあれば、王家にとっても重大な損失になる。」
「こんな平和な街で、そうそう何も起こりませんよ、ガーディアス。」
ナディフ神官長が宥めるように言った。
「それに、こちらの都合で連れてきたのです。ずっと部屋に閉じ込めておくのも可哀想でしょう。」
その通り、その通り。
ルナリーシアは隣で何度も頷いた。
「しかし、外へ出るのなら、やはり私も————」
「イヤ!」
「……なぜそこまで嫌がる?」
ルナリーシアの顔には、ありありと『断固拒否』と書かれている。
ガーディアスの眉間の皺が、ますます深くなった。
「監視されるのが嫌なのかもしれないが――」
「監視されてるのは百も承知よ! そうじゃなくて、あなたが一緒に来ると面倒なの!」
「何を――」
「いい? ガーディアス。」
反論を遮り、ルナリーシアはびしりと彼を指した。
「あなた、頭のてっぺんから爪先まで、どこからどう見てもお貴族様でしょうが!」
「……は?」
「その服、その話し方、その仕草! 何をしてても『育ちのいいお貴族様です』って全身で言ってるのよ!」
昨日、嫌というほど思い知らされたばかりである。
「神官様とそんなお貴族様が連れ立って歩いてたら、目立つでしょう? こっちは普通に街を見て回りたいの! ただでさえあなた、無駄にデカいんだから――」
そこまで言って。
「……あ。」
ルナリーシアは口を塞いだ。
しまった。
さすがに言いすぎた。
この男を相手にすると、どうにも口が滑る。
「……」
ガーディアスは呆然としていた。
対照的に、その隣ではナディフ神官長が俯き、ぷるぷると肩を震わせている。
「……神官長」
「いえ。何も」
明らかに笑っている。
「……と、いうわけです。」
何とか表情を取り繕ったナディフ神官長が、ルナリーシアの背をそっと押した。
「夕刻には戻りますから。行きましょう、ルナリーシアさん。」
「はい!」
逃げるが勝ちである。二人はそのまま、そそくさと城を後にした。
玄関先で硬直するガーディアスを残して。
◇
「ルナリーシアさん!!!」
ナディフ神官長の切羽詰まった叫び声が聞こえた。
返事をしようと口を開く。
だが、その瞬間、大量の水が口の中へ流れ込んできた。
「――っ!」
息ができない。
濁流が、ルナリーシアの身体を容赦なく押し流していく。上下も分からないまま揉みくちゃにされ、それでも必死に水面へ顔を出す。
「っ、は……!」
ようやく空気を吸い込み、ルナリーシアは必死に頭を働かせた。
どうする。
どうすれば、ここから助かる。
流されながら、ふと一つの疑問が頭をよぎった。
(……どうしてこうなったんだっけ?)




