長閑(五)
約三時間前——。
「……すごい!!!」
眼前に広がる光景に、ルナリーシアは思わず歓声を上げた。
パラスを東西に分断する大運河。
大量の物資を運ぶために使われていることは本で知っていた。けれど、実際に目の当たりにすると、もはや河というより湖に近い。
対岸は遥か遠く。故郷ロシャスを流れていた河など、比べものにならなかった。
「壮観ですねえ……。」
隣では、ナディフ神官長まで目を輝かせている。
ルナリーシアたちが泊まっている城は、ロシャス方面――つまり、この大運河より西側に位置している。
昨晩は城へ直行したため、大運河を見る機会がなかったのだ。
「あ、あれ。食糧を運ぶ船ですかね。」
「おや。あちらの船には牛が乗っていますよ。」
「本当だ!」
二人はしばし時間を忘れ、目に入るものほとんど全てに歓声を上げた。
河岸には大小様々な船がひっきりなしに行き交っている。
船着場では荷運び人たちが威勢のいい声を掛け合いながら、次々と積荷を降ろし、また新しい荷を積み込んでいた。
ロシャスでは到底見られない活気である。
「さすが、王家直轄地……」
ルナリーシアが腕を組んでうむむと唸る横で、ナディフ神官長は木材を山ほど積んだ巨大な商船に釘付けになっていた。
どうやたこの神官長様は、本当に旅が好きらしい。
「ナディフ神官長様。そろそろ街の中も見に行きません?」
「……名残惜しいですが、そうしましょうか。」
声を掛けられ、ナディフ神官長がようやく我に返る。
気がつけば、日はすっかり高くなっていた。
◇
「パラスの街に張り巡らされた水路は、ほとんどがこの大運河へ繋がっています。」
「碁盤みたいに水路が走っているって、何かの本で読みました。」
「ええ。街中を水路が通っていますから、場所によっては馬車より舟の方が便利なのだそうですよ。」
街中を流れる小さな人工河川に沿って歩きながら、ナディフ神官長が説明してくれる。
ただし、普段は穏やかだというその水路も、今日は様子が違った。
先日の嵐の影響だろう。水嵩は増し、茶色く濁った水が普段よりも速く流れている。
「あまり近づきすぎないでくださいね。」
「分かってます。」
ナディフ神官長にしっかり釘を刺され、ルナリーシアは水際から一歩離れた。
それからしばらく歩いた頃だった。
「……何でしょう?」
前方の船着場に、人だかりができている。
何事かと近づいたルナリーシアは、息を呑んだ。
「――っ!」
子どもがいる。
轟々と流れる濁流の中、水面からかろうじて突き出した杭に、小さな少年が必死にしがみついていた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!!」
岸辺では、妹らしき幼い少女が泣き叫んでいる。
「舟を出せ!」
「駄目だ、流れが速すぎる!」
「縄を持ってこい!」
大人たちも必死に動いている。
だが、少年の腕は今にも杭から離れてしまいそうだった。
————間に合わない。
そう思った瞬間には、ルナリーシアの身体は動いていた。
「ルナリーシアさん!?」
積荷のそばに置かれていた太いロープを掴み、自分の身体へ巻きつける。
「何を——やめなさい!」
ナディフ神官長の制止も耳に入らない。もう一方の端を、船着場を支える太い柱へきつく結びつける。
「このロープ、お願いします!!」
「ルナリーシアさん、待ちなさい!」
そして————。
止める間もなく、ルナリーシアは濁流へ飛び込んだ。
「っ……!」
冷たい。想像していた以上の水圧に、一瞬息が詰まる。
けれど、流れは読めていた。
ロープに身体を預けながら、流れに逆らわず斜めに進む。狙い通り、身体が少年のいる杭へ近づいていった。
「掴まって!!」
少年が必死に手を伸ばす。
(あと少し。)
ルナリーシアも腕を伸ばし————その手を掴んだ。
「よし……!」
その瞬間。
――ぶちり。
嫌な音がした。
「へ?」
濁流に運ばれてきた大きな木片が、張り詰めたロープへ勢いよく衝突したのだ。 次の瞬間、身体を支えていた力が消える。
「————っ!」
ルナリーシアの身体は、糸の切れた凧のように濁流へ放り出された。
(ダメ!)
少年だけは離してはいけない。咄嗟にその小さな身体を両腕で抱き込む。
「ルナリーシアさん!!!」
ナディフ神官長の切羽詰まった叫び声が聞こえた。
返事をしようと口を開く。
だが、その瞬間、大量の水が口の中へ流れ込んできた。
「――っ!」
息ができない。濁流が、ルナリーシアの身体を容赦なく押し流していく。上下も分からないまま揉みくちゃにされ、それでも少年を抱えたまま、必死に水面へ顔を出す。
「っ、は……!」
ようやく空気を吸い込み、ルナリーシアは必死に頭を働かせた。
どうする。
どうすれば、ここから助かる。
――危ないときほど、落ち着け。
自分に言い聞かせる。
(ここじゃ駄目。みんなに見られてる)
精霊に助けを求めれば、すぐにでもどうにかしてくれるだろう。
けれど、あれだけの人間が見ている前で精霊の力を使うわけにはいかない。
そうこうしているうちにも、船着場が遠ざかっていく。ナディフ神官長の姿も小さくなって見えなくなっていた。
——怖い。
腕の中には、ぐったりとした少年。焦りで頭が真っ白になりかけた、そのとき。
ふわりと、柔らかな風が濡れた頬を撫でた。
(————そうだ。大丈夫。)
ルナリーシアは息を整えた。
「お願い。」
濁流に掻き消されないよう、小さく、それでもはっきりと不可視の存在へ語りかける。
「誰にも見つからないところまで、助けて。」
『いいよ』
楽しげな声が返ってきた。一呼吸おいて、あれほど荒れ狂っていた水が、ルナリーシアの周囲だけ嘘のように穏やかになる。
身体がふわりと持ち上がった。水に流されているというより、何か大きなものの背中に乗せられて運ばれているようだった。
そのまま、ゆっくりと流されていく。
やがて辿り着いたのは、人影のない小さな橋の下だった。
「よいしょっ……!」
見えない何かに押し上げられ、少年とともに岸へ上がる。
「ありがとう。」
小さく礼を言ってから、すぐに腕の中の少年へ目を落とした。
(顔色が悪い。)
ぐったりとして、呼びかけにも反応しない。
「ねえ、しっかりして! 聞こえる!?」
頬を軽く叩いても、返事はなかった。
「息は……。」
口元へ顔を寄せる。
分からない。
ルナリーシアの背筋が冷たくなった。
「お願い……!」
少年を仰向けに寝かせ、胸へ両手を重ねる。かつて、本で読んだ通り、何度も強く押す。
「お願い、息して……!」
何度目かの圧迫のあと。
「――っ、げほっ!」
「!」
少年の身体が大きく震えた。
「げほっ、げほっ……!」
「よかった……!」
咳き込む少年の身体を横へ向け、ルナリーシアはほっと息を吐いた。
「聞こえる!?」
「う……。」
少年が薄く目を開ける。
「ここ……は……。」
「大丈夫。岸にひっぱりあげたから。」
意識は戻ったようだ。
けれど、濁流に長く浸かっていたせいだろう。 唇は青ざめ、身体は小刻みに震えている。
(早く、お医者様を——)
ルナリーシアが立ち上がろうとした、そのときだった。
背後で、じゃり、と靴底が地面を擦る音がした。
「これはこれは。」
知らない男の声が橋の下で反響する。
「ずいぶん綺麗なお嬢ちゃんじゃねえか。」
ルナリーシアの身体が強張った。
ゆっくりと振り返る。
橋の下へ続く道を塞ぐように、数人の男が立っていた。身なりも顔つきも、まともな人間には見えない。
一人の男が、ルナリーシアを頭の先から爪先まで舐めるように眺めた。
「こいつは、高く売れそうだぜ。」
男たちが下卑た笑みを浮かべる。
(————人攫い。)
一難去って、また一難。
ルナリーシアは少年を庇うように一歩前へ出ると、そっと拳を握りしめた。




