長閑(一)
一台の馬車が、少しぬかるんだ轍に新たな線を加えた。かなり上等な馬車である。
麗らかな小春日和だというのに、馬車の中の空気は極寒だった。
「————おい。」
「話しかけないで頂戴。」
ルナリーシアは、膝の上に広げた本の頁から少しも顔をあげずに答えた。
揺れる馬車の中で、彼女は平然と読書に勤しんでいた。大した三半規管である。
「————おい。」
もう一度、黒髪の青年はルナリーシアに話しかけた。冷たく厳しい印象の————実際、その通りだが————顔が一層険しくなる。
「何よ、ガーディアス。」
ようやく、ルナリーシアは顔を上げた。その瞳は、どこか不満げである。
「もうすぐパラスの街だ。一度、小休憩をとる。」
「……勝手にして頂戴。」
ルナリーシアの態度は頑なだった。ガーディアスはため息をつく。
「嫌なのは分かるが、もう少し抑えろ。」
その言葉に、ルナリーシアは憤慨した。
「抑えろ?抑えろですって!?あんのクソ男の家に向かっているのが分かって、冷静で居られると思ってんの!?」
そう、一行が向かっているのは、オリヴィン————クソ男ことギエフ侯爵の屋敷だった。
神殿に行くことに同意した後、母への挨拶もできずにそのまま馬車に乗せられ————行き先を聞いたルナリーシアは激しく抵抗した。
あらかじめガーディアスが、この馬車に結界を張らせておかなければ、多分、馬車は走行不能になっていただろう。暴れる彼女を取り押さえ、半ば無理やり静かにさせたのは、このガーディアスである。
柔和で知られる壮年の神官だけでは、このじゃじゃ馬娘を御することなど到底不可能だった。
そうして一応抵抗を諦めたルナリーシアは、心を落ち着けるために、読書に没頭したのであった。
「————恨むなっていう方が無理よ。」
「まあ、そうだろうな。」
顔に「断固拒否」と貼り付けて、ルナリーシアはガーディアスを恨みがましく睨んだ。
「ねえ、この際、あのクソ男に会うことは良いとして————百歩譲ってもイヤだけど————場所を侯爵邸から別のところに移せない?」
「できない相談だ。」
にべもなく断られ、ルナリーシアは(この頑固者。)と心の中で悪態をついた。
「母が無体を働かれた場所になど行きたくないだろうが、侯爵邸を顔合わせの場所として王家が指定している以上、変更は不可だ。」
「……お母さんのこともそうだけど。」
そこでルナリーシアは、言い淀んだ。どうせ無理なことなら、言っても仕方がない。
「なんだ?」
だが、ガーディアスはその先を促した。
「……侯爵邸には、あのクソ男の奥さんと、そのご令嬢もいるんでしょ。」
「王家と神官の前で、お前に何かするほど愚かではないと思うが。」
「違うわよ。」
ルナリーシアはため息をついた。
「自分の夫、父親が外で作った子供が家に来るなんて、すごく嫌じゃない?」
ガーディアスは息を呑んだ。
「だが、お前の母は悪くないと……。」
「お母さんに非がないのは、当たり前よ!全部、あのクソ男が撒いたタネなんだから。でも、そうだとしても、奥さんとご令嬢からしたら、複雑でしょ?」
目を伏せたルナリーシアの長い睫毛が、頬に影をを落とす。
「奥さんからしたら、私は旦那が自分を裏切ってできた子供だし。ご令嬢からしたら、自分のお父さんが母親を裏切った証拠みたいなものでしょ。」
まして、その娘が突然屋敷へやって来るのだ。
誰に非があるのかと、誰を憎まずにいられるのかは、必ずしも同じではない。
頭では分かっていても、心まで綺麗に割り切れる人間ばかりではないことくらい、ルナリーシアにも分かっていた。
自分の存在そのものが、二人にとって見たくもない過去を突きつけることになるかもしれない。
だから、せめて彼女たちのいない場所で。
その言葉に、ガーディアスはルナリーシアから目が離せなかった。
「————ルナリーシアさん。貴方は強い人ですね。」
さっきまで黙って空気に徹していた神官が、ポツリと呟いた。
ルナリーシアは困ったような曖昧な笑みを浮かべて、再び本を開いた。




