春の嵐(四)
「……何かの間違いではないでしょうか。」
何度目になるか分からないルナリーシアの返答に、壮年の神官は困ったように笑った。
応接室の扉を開けた瞬間は、本当に心臓が止まるかと思った。
昨日の夜、裏路地にいた神官。
その本人が、よりにもよって自分の勤め先の応接室に座っていたのだから。
一瞬、何も見なかったことにして扉を閉めようかとも思った。
けれど――ルナリーシアは踏みとどまった。
(落ち着いて。向こうだって、私だという確証があるわけじゃない)
昨日、顔を見られたのはほんの一瞬だ。
夜だったうえに、あの大雨。ましてや、すぐに精霊たちに姿を隠してもらった。
ここで逃げ出す方が、よほど怪しい。
だからルナリーシアは何食わぬ顔で入室し、勧められるままソファに腰を下ろした。何を聞かれても、しらばっくれて押し通す。
「本当に、昨日の夜、君は三丁目の裏路地には行っていないんだね?」
「ええ。昨晩は雨がひどかったので、仕事を終えて、そのまま家へ帰りました。」
「では、昨日あの場所で何があったのかも?」
「存じ上げません。」
「精霊についても?」
「さあ。私には何のことか。」
余計なことは言わない。
短く、簡潔に。
それでいて、決して慌てない。
壮年の神官は、探るようにルナリーシアを見つめた。
その隣では、先ほどから背の高い男が腕を組んでいる。
なぜかひどく不機嫌そうだった。
「では————」
「……くどい。」
低い声が、神官の言葉を遮った。
「これ、ガーディアス。」
神官が嗜める。
ガーディアスと呼ばれた男はそれを無視し、冷ややかな眼差しをルナリーシアへ向けた。
「そなた。ギエフ侯爵を知っているな。」
心臓が跳ねた。けれど、それもほんの一瞬だったはずだ。
「……存じ上げません。」
「そうか。」
男の口元がわずかに歪む。
「では、これを見ても同じことが言えるか?」
一枚の紙が、ガラス張りの卓上を滑った。
肖像画だった。
描かれているのは、一人の女性。淡い金色の髪。大きなエメラルドの瞳。整った鼻梁に、小さな唇。
「…………」
ルナリーシアは言葉を失った。
ルナリーシアと瓜二つな女性が、こちらを見つめてほほえんでいる。もちろん、自分の肖像画でもない。
生まれてこのかた、肖像画などという高級品とは縁のない人生を送ってきた。貧乏平民の娘の姿を、わざわざ絵師に描かせる物好きなどいるはずもない。
「ギエフ侯爵の祖母、ルルーシャ様だ。」
「……他人の空似では?」
即座に返す。
ガーディアスが片眉を上げた。
「ほう。」
「世の中には、自分とそっくりな人間が三人はいると言うでしょう。」
「ならば————」
ガーディアスは淡々と続けた。
「かつてギエフ侯爵の子を身籠った平民の女が、故郷を追われ、このロシャスへ流れ着いたという記録がある」
ルナリーシアの指先が、ぴくりと動く。
「その女がこの地で産んだ娘は、現在十六歳」
視線が、肖像画からルナリーシアへ移った。
「淡い金髪に、緑の瞳を持つという」
「…………」
「そして昨夜。三丁目の裏路地で、精霊の力を借りて人を救った娘が目撃された」
一つひとつ、逃げ道を塞ぐように。
「その娘もまた————淡い金髪だったそうだ」
沈黙が落ちた。
「これもすべて、偶然か?」
(そこまで調べたの……?)
ルナリーシアは奥歯を噛んだ。完全に後手に回っている。こんなことなら、昨夜のうちに母を連れて逃げればよかった。
少なくとも、自分がギエフ侯爵の娘であることは、すでに知られている。
(どうしよう)
精霊のことだけは認められない。
出生については、もう誤魔化しきれないかもしれない。
けれど、それと精霊の話は別だ。何とかして切り離さなければ――。
「ギエフ侯爵を不埒にも誘惑した女の名は、シンシアだったな」
思考が、止まった。
ルナリーシアはゆっくり顔を上げた。
ガーディアスは相変わらず、冷たい顔をしていた。
「聞けば、そなたの母親も同じ名だそうだ」
「…………」
「なるほど。嘘つきな娘の母親らしい」
「ガーディアス!」
壮年の神官が鋭く声を上げた。
「よしなさい。それ以上は――」
ぶちり、と頭の中で、何かが切れた。
分かっていた。これは挑発だ。この男は、わざと自分を怒らせようとしている。
分かっていたのに。
「……なさい」
「何?」
「訂正しなさいって言ってるのよ!」
気づけば、身体が動いていた。卓上の肖像画が跳ねる。
ルナリーシアはソファから立ち上がり、そのままガーディアスへ飛びかかった。
だが――届かなかった。
横から伸びてきた腕に捕らえられ、次の瞬間には床へ組み伏せられていた。
頬が絨毯に擦れる。口の中に、鉄臭い味が広がった。
「離して!」
身を捩る。
「みんな、お願い――!」
「無駄だ」
ガーディアスの冷静な声が降ってきた。
「この部屋には、精霊が入れぬよう結界を張ってある」
「――!」
そこで初めて気づいた。静かすぎる。
いつもなら、呼ばなくてもどこかにいるはずの彼らの気配が、まるでしない。
(最初から……!)
最初から、この男は自分が精霊を呼ぶことまで想定していたのだ。悔しさに唇を噛む。
それでも――これだけは黙っていられなかった。
「あんたに……」
絨毯に押しつけられたまま、ルナリーシアはガーディアスを睨み上げた。
「あんたに、お母さんの何が分かるのよ……!」
声が震える。
「私たちが、どんな思いで生きてきたかも知らないくせに!」
この国で、父親のいない子を産んだ女がどんな目で見られるのか。
ルナリーシアは、幼い頃から嫌というほど知っている。
知り合い一人いない土地。頼れる家族もいない。
身体の弱い母は、それでも働いた。
陰口を叩かれても。白い目で見られても。
たった一人で、娘を育てた。
「……平民の女が、侯爵になんて逆らえるわけないじゃない。」
ぽつりと零れた声に、怒りが滲む。
「この国で、貴族に逆らった平民がどうなるかくらい、あんたなら知ってるでしょう。」
身分は絶対だ。
貴族が白だと言えば、たとえ目の前のものがどれほど黒くとも、それは白になる。
平民には、拒む権利すらない。拒むことはすなわち死を意味するのだ。
「侯爵夫人の第一子と私は、たった四か月違いで生まれてるのよ。その意味くらい分かるでしょう!?」
壮年の神官も息を呑んでいる。
けれどもガーディアスの瞳は、冷たいままだった。そして、返されたのは予想外の言葉。
「……それだけでは、侯爵が無理強いした証明にはならない。」
ルナリーシアは目を見開いた。
「双方の同意があった可能性も――」
そこまで。
そこまで調べられていて何故。
ルナリーシアは膝の上で拳を握った。
「……だったら。」
「何だ。」
「そこまで知っていて、どうしてお母さんが侯爵を誘惑したなんて言えるのよ。」
「私は事実を述べているだけだ。」
「どこがよ!」
「侯爵家に残る記録には、そうある。」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……記録?」
「シンシアという使用人が侯爵へ懸想し、関係を迫った。侯爵もそれを受け入れた。その結果、子を身籠った――そう記録されている。」
ルナリーシアは呆然と彼を見つめた。やがて。
「……馬鹿じゃないの。」
低い声が漏れた。ガーディアスの眉が動く。
「何?」
「馬鹿じゃないのって言ったのよ!」
ルナリーシアは立ち上がろうとした。護衛に抑えつけられて阻まれてしまったが。
「そんなの、侯爵が自分に都合よく書かせたに決まってるじゃない!」
「決まっている、では根拠にならない。」
「平民の女が侯爵家の記録に何を書けるっていうのよ!」
「だからといって、記録が虚偽である証拠にもならない。」
融通の効かない男だ。頭が固すぎるんじゃないの、そのまま石にでもなってしまえ————ルナリーシアは心の中で悪態をついた。そして、観念する。
「精霊たちに聞いたのよ。」
低い声だった。
今度こそ、ガーディアスが黙った。
「…………」
「聞いたの。全部。」
その言葉が何を意味するのか。
精霊という存在を知る者なら、理解できないはずがない。
幼い頃、ルナリーシアは父親がいないことを不思議に思っていた。
どうして自分には父親がいないのか。どこにいるのか。どんな人なのか。
何度尋ねても、母は笑って誤魔化した。
それでも諦めずに聞き続けて、何十回目だっただろうとうとう母は困ったように笑って、教えてくれた。
『あなたの父親は、ギエフ侯爵という人よ』
『こうしゃく?』
『そう。とっても偉い貴族様』
『じゃあ、どうして一緒に住んでないの?』
母は少しだけ黙った。
それから、いつもの柔らかな笑顔を浮かべた。
『お母さん、貴族ってあんまり好きじゃないの』
それ以上、母には聞けなかった。
けれど、子どもの好奇心というものは、それくらいで消えてくれるものではない。
だから、ある日。ルナリーシアは精霊たちに尋ねてしまった。
精霊たちは嘘をつかない。
善悪も、人間の都合も、彼らには関係がない。
ただ、見たものを見たまま、聞いたものを聞いたまま語る。彼らの言葉はいつだって曖昧で、気まぐれで、ひどく分かりづらかった。
それでも、母が何をされたのか。なぜ故郷を追われたのか。
幼いルナリーシアが真実を知るには、それで十分だった。そして成長するにつれて、その意味は、はっきりとしていく。
ルナリーシアは、理解すればするほど、父という男を軽蔑した。
そして――彼のような人間が、身分だけを理由に何もかも許される世界を嫌悪した。
ルナリーシアは床に押さえつけられたまま、まっすぐガーディアスを睨んで吐き捨てた。
「貴族なんか、大っ嫌いよ。」




