春の嵐(三)
ルナリーシアは脱兎のごとくその場から逃げ出した。
(見られた!? どうしよう、どうしよう……!)
精霊に目隠しを頼んでおけばよかった。
嵐の夜だから誰もいないだろうと油断していたのは、ほかでもない自分だ。
「ちょっと、待ちたまえ……! 君!」
背後から神官の声が追いかけてくる。
けれど、ルナリーシアは振り返らなかった。
「お願い! 私の姿を隠して!」
今日何度目になるか分からない「お願い」を口にする。
途端、ルナリーシアの周囲で風がうねった。激しい雨が風に煽られ、白く煙る。まるで見えない幕が引かれたかのように、その向こうでルナリーシアの姿が揺らぎ――忽然と消えた。
この国が豊かなのは、精霊の加護によるところが大きい。
精霊とは、気まぐれに人間へ祝福をもたらす、目には見えない奇跡のような存在である。彼らのおかげで大地は潤い、作物は実り、人々はその恩恵を受けて生きている。
けれど、人間が精霊へ直接働きかけることはできない。声を聞くことも、姿を見ることも、ましてや何かを頼むことなど、本来ならばできるはずもない。
ただ、ごく稀に――精霊から一方的に愛される人間がいる。
そうした者の身の回りには、不思議な出来事が起こる。季節外れの花が庭いっぱいに咲いたり、干ばつに見舞われた畑に、その場所だけを潤す雨が降ったり。
人々はそれを、精霊の祝福と呼んだ。
そして、その中でもさらにごく一握り。
精霊の声を聞き、言葉を交わすことのできる者がいる。
ルナリーシアは、その一人だった。
物心がついた頃には、精霊たちは当たり前のように彼女のそばにいた。彼らはルナリーシアを好み、たくさんの祝福を与えた。そして彼女が何かを望めば、それを叶えることを喜んだ。
雨を止ませてほしいと言えば、雲をどこかへ追いやってくれた。
食べたことのない果物が欲しいと言えば、翌朝には見知らぬ果実が窓辺に転がっていた。
幼いルナリーシアにとって、それは何も特別なことではなかった。
だから、ある日母にこう言われたとき、心底不思議に思ったものだ。
『ルナリーシア。精霊とお喋りできることは、お母さんとだけの秘密にしてほしいの。』
『どうして?』
母は答えず、幼いルナリーシアの前に膝をついた。いつもの穏やかな笑顔はなかった。
真剣な表情で、まっすぐにエメラルドの瞳を覗き込んでくる。
『ルナリーシアの力は、とても特別なの』
優しい声だった。
けれど、その手はルナリーシアの小さな両手を、いつもより強く握っていた。
『だから、それを誰かに知られたら、あなたはお母さんのところから連れて行かれてしまうかもしれない。』
『……どこに?』
『分からないわ。でも――もう、お母さんと一緒には暮らせなくなるかもしれない』
それは、幼いルナリーシアにとって、この世で何より恐ろしい言葉だった。
母と離れたくない。
たった二人きりの家族なのだ。
だからルナリーシアは、その日から精霊たちに滅多なことでは「お願い」をしなくなった。
「……ただいま。」
家に帰り着く頃には、ルナリーシアは頭のてっぺんから爪先までぐっしょりと濡れていた。
「あらまあ。」
そんな娘を、母はいつもと変わらない声で迎えた。狭い部屋には、夕食のスープの香りが漂っている。温かな湯気と優しい匂いに包まれた途端、張り詰めていた糸が切れたように、全身から力が抜けた。
「ずいぶん遅かったけれど、どうしたの? そんなに濡れていては風邪を引くわ。早く身体を拭いて、着替えてらっしゃい。」
「……うん」
それだけしか言えなかった。
母が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「ルナリーシア?」
「…………」
「どうしたの? 何かあった?」
心配そうな声を聞いた途端、堪えきれなくなった。
「お母さん……!」
ルナリーシアは母に抱きついた。
「あらあら。」
母は驚きながらも、いつものように受け止めてくれる。
細い身体だった。
昔から丈夫ではない母の身体。それでも幼い頃からずっと、自分を守ってくれた身体だ。その温もりに触れた途端、恐怖が一気に現実味を帯びた。
「……お母さん。ごめんなさい」
その先は、どうしても言葉にならなかった。けれど母は、何も聞かなかった。
一瞬だけ、背中を撫でる手が止まる。
それから、いつもと同じ優しい手つきで、ゆっくりとルナリーシアの背を撫でた。
「……きっと、大丈夫よ。」
その声がほんの少し震えていたことに、ルナリーシアは気づかないふりをした。
翌朝。
「だいぶ雨も弱くなったわねえ。」
「そうですねえ。」
ルナリーシアは何食わぬ顔で、いつもどおり仕事をしていた。
(大丈夫。絶対、大丈夫。)
雑巾を絞りながら、自分に言い聞かせる。
(あの神官様は完全に撒いたし、顔を見られたのだってほんの一瞬。おまけにあの大雨よ? あんな状況で人の顔なんてまともに見えるわけないじゃない。)
うん。大丈夫。
(そもそも、このロシャスに女が何人いると思ってるの。淡い金髪の女の子だって、私一人じゃないし。)
考えても仕方のないことは、どうしようもないのである。
ルナリーシアは、目の前の床を磨くことにとりあえずは集中することにした。
「おーい、ルナリーシア。」
庭師のおじさんがルナリーシアを呼ぶ声が聞こえる。
「なんでしょう。」
「旦那様が、ちょっと来てくれって。」
「はーい、ただいま。」
そうして、呼ばれた応接室の革張りのソファに座っていたのは————昨日の晩の神官様だった。




