花を散らす雨(五)
貴族は、契約を重んじる。それが、この国に古くから根付く伝統である。
ましてや、家紋を掲げ、当主自らが署名と押印をした契約書ともなれば、その重みは決して軽いものではない。
「……お言葉ですが。」
真っ先に口を開いたのは、ギエフ侯爵夫人だった。
「確かに、その契約書には『シンシアとその子について一切関与しない』とあります。ですが、これはあくまで密約。しかも、一貴族と平民との間で交わされた契約にすぎません」
侯爵夫人はいたって冷静だった。
「ならば、その契約によって、国の行く末をも左右する『精霊の巫女』の帰属まで拘束することはできないのではございませんか?」
————やはり、侮れない。
オリヴィンを治める侯爵家の女主人を務めるだけはある。夫の醜聞が白日の下に晒された今でさえ、取り乱すことなく、侯爵家が生き残るための道を探している。
冷静に、そして、恐ろしいほど冷徹に。
「……侯爵夫人の仰る通りだ。」
ガーディアスはまたもや、あっさりと認めた。
「この契約書だけを根拠として、『精霊の巫女』をギエフ侯爵家以外の家門に属させることはできない。」
契約が絶対的な効力を持つのは、原則として、その契約を交わした者たちの間においてである。
そこに関与していない王宮や神殿までもが、十六年前の密約に縛られるわけではない。
「ならば……!」
侯爵の顔に喜色が戻る。
「最後まで私の話を聞いていただこう、侯爵閣下」
低い声が、それをぴしゃりと遮った。
ガーディアスは侯爵を一瞥する。琥珀色の瞳に、侯爵は口を噤んだ。
「確かに、この契約書そのものに、『精霊の巫女』の帰属を決定する力はない。」
ガーディアスは手元の書面へ視線を落とした。
「だが————誰にその身を委ねるべきかを判断する材料にはなる。」
ガーディアスの節くれだった指が、契約書に添えられる。
「ギエフ侯爵家に『精霊の巫女』の保護を任せることが、果たして適切なのか。その判断材料にな。」
侯爵家の紋章、押印。そして、当主本人の署名。
ガーディアスは、その一つ一つを確かめるように指先で辿った。
「形式にも不備はない。これだけ周到な契約を交わし、シンシアとその子への関与を自ら放棄しておきながら————」
琥珀色の瞳が、侯爵を射抜いた。
「その子が『精霊の巫女』であると判明した途端、今度は王家に対して、その父として保護者の地位を主張する。」
わずかな間。
「……いささか、都合が良すぎるとは思われないか?」
応接室に、重い沈黙が横たわった。
「————十六年間。」
今度は、ナディフ神官長が口を開いた。
「我々神殿は、『精霊の巫女』の行方を探し続けてまいりました。それは王宮とて同じことでしょう。」
普段の柔和さは、もはやどこにもない。
「その発見がこれほどまでに遅れた原因の一端が、侯爵閣下ご自身の振る舞いにあったというのであれば——」
ナディフの眼差しが鋭くなる。
「神殿としても、今さらギエフ侯爵家に『精霊の巫女』を委ねることなど、到底看過できません。」
ガーディアスも、それに鷹揚に頷いた。
「神殿の見解は分かった」
そこで、短く息が吐き出される。
「————だが、やはり本人の意思も聞いておくべきだろう」
ガーディアスがルナリーシアを見た。
先ほどまでとは少し違う、仰々しいほど改まった声音だった。
「改めて問おう。『精霊の巫女』よ。」
琥珀色の瞳と目が合う。
「そなたは、どうしたい?」
答えなど、とうに決まっていた。
「先ほども申し上げた通りです。」
ルナリーシアは、はっきりと告げた。
「私は、ギエフ侯爵家に籍を置くつもりはございません。」
「よかろう。」
ガーディアスは頷いた。
「その場合、ひとまず王家の庇護下に入り、後見を立てることになる。それでもよいのだな?」
「はい。構いません……!」
答えた瞬間、ほんの一瞬だけ。
ガーディアスが、笑ったような気がした。
けれど、次に口を開いた時には、もうその顔は王命を受けた貴族のものに戻っていた。
「では、決定する。」
低く、よく通る声が応接室に朗々と響く。
「ギエフ侯爵家は、『精霊の巫女』の保護を委ねるに適当ではないと判断する。」
誰も、口を挟まない。
「よって『精霊の巫女』ルナリーシアの身柄は、ひとまず王家の庇護下に置く。後見人については、王都への帰還後、改めて定めるものとする。」
それは相談でも、提案でもない。まごうことなき、決定だった。




