花を散らす雨(三)オリヴィン編
「ルナリーシア!」
ガーディアスの焦った声が聞こえる。けれど、どうでもよかった。
「ご存じですか、侯爵閣下。」
ルナリーシアは無表情のまま、ギエフ侯爵を見据えた。
「嘘つきには、天罰が下るんですよ。」
「嘘つき……? 私が……?」
侯爵は、本当に意味が分からないとでも言いたげな顔をした。
だが、その頬には一筋、冷たい汗が伝っている。
(どこまで面の皮が厚いのよ。)
ルナリーシアは一瞬、躊躇した。本当に、これを皆の前で明らかにしていいのだろうか。
けれど————母から届いた手紙。その末尾に添えられていた『追伸』を思い出す。
ルナリーシアは覚悟を決めた。
「……ねえ。」
誰もいないはずの空間へ、そっと呼びかける。
「あの時の声を、聞かせて。」
精霊の声を聞くことができる者は、限られている。
だが、精霊が〝運んできた〟人の声ならば、話は別だ
ルナリーシアの言葉に呼応するように、荒れ狂っていた旋風がぴたりと鎮まった。
静寂。そして————一呼吸おいて。
『……侯爵閣下。おやめください! 後生です。後生ですから……!』
若い女の声が、応接室に響いた。ルナリーシアは予想はしていたが息を呑んだ。————母だ。
十六年前の、シンシアの声。
怯え、震えきったその声だけで、彼女がどれほど恐怖していたのかが伝わってくる。
ルナリーシアは強く唇を噛んだ。
握り締めた掌に爪が食い込み、血が滲む。
『そなたのような可憐な花を見れば、手折りたいと願わずにはいられない。それが男の性というものだ。……赦しておくれ。』
続いて響いた男の声に、ルナリーシアは吐き気を覚えた。
赦しておくれ。そう口にしていながら、その声音には罪悪感の欠片すらない。
侯爵を見る。先ほどまで鷹揚に微笑んでいた男は、目を見開き、わなわなと震えていた。
『このようなこと、おやめください! 奥様が身籠られているのに、あんまりです……! お触りにならないで!』
拒絶するシンシアの声。次の瞬間————短い悲鳴が響いた。
何が起きたのか、声だけでは分からない。
その直後に聞こえてきた言葉に、応接室にいた誰もが凍りついた。
『……平民のくせに、私を愚弄するのか。』
先ほどまでとはまるで違う、低い声。
『美しい娘だから、わざわざ目をかけてやろうというものを。』
『侯爵閣下……!』
『よいか。私に歯向かうということは、このオリヴィンでは生きていけないということだ。』
シンシアの息を呑む音がした。
『お前だけではない。お前の家族も――その親類もだ。』
荒くなる呼吸。
『お前にできることは、ただ私に従うことだけだ。』
吐き捨てるような言葉。
そして————。
「そこまででいいわ。」
ルナリーシアは静かに告げた。
「……ありがとう。」
声は、そこで途切れた。
これ以上は必要ない。これ以上、母が誰にも聞かせたくなかったであろう記憶を、人前に晒す必要などない。
ルナリーシアは侯爵を見た。
「ねえ、侯爵閣下。」
今度は、はっきりと問いかける。
「これでもまだ、ご自分は『ふしだらな女に迫られた被害者』だと?」
「……こんなもの。」
侯爵の唇が震えた。
「何かのイカサマに決まっている……!!」
(往生際の悪い……!)
再び、胸の奥に殺意が灯る。
それに呼応するように、室内の空気がぐにゃりと歪んだ。
————その時だった。
「今のお言葉は、聞き捨てなりませんな。侯爵閣下。」
思いがけない人物の声が割って入った。それまで成り行きを静観していたナディフ神官長だった。
「彼女が『精霊の巫女』であることは、他ならぬ私が確かめたことです。」
普段の穏やかで優しい姿からは想像もつかないほど、その声音は厳かで、重い。
「その巫女が精霊に呼びかけ、精霊が応えた。それを『イカサマ』と仰るのであれば————」
ナディフは静かに侯爵を見据えた。
「精霊を奉ずる我ら神殿そのものを、疑われるということですかな。」
「ナ、ナディフ神官長様……! 決して、そのようなことは……!」
侯爵が慌てて首を振る。
この国において、貴族が貴族たり得る根拠。
それは、その身に精霊と人との間に生まれた『始祖』の血を受け継いでいることにある。だからこそ貴族たちは、精霊を奉ずる神殿との対立を何よりも忌避する。
神殿から見放されること。
それはすなわち、自らの尊貴の根拠である『精霊との繋がり』そのものに疑義を突きつけられることに等しい。
「ほう。」
ナディフ神官長の言葉を引き取ったのは、ガーディアスだった。
「では————今、我々が聞いたものが事実であることに、異論はないと?」
「…………」
侯爵は答えない。
沈黙。それだけで十分だった。
「屋敷に行儀見習いとして預けられていた十六歳の少女に、立場を利用して関係を強いた。」
ガーディアスは淡々と事実を並べていく。
「その後、少女はオリヴィンを追われた。そして侯爵家の血を引く娘————『精霊の巫女』ルナリーシアは、十六年間、市井に置かれることとなった」
琥珀色の瞳が、冷たく侯爵を見据える。
「結果として、ギエフ侯爵家は『精霊の巫女』を保護する責務を果たさなかった。――ここまで、相違ないな?」
「…………。」
侯爵はしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。
「————なるほど」
そして————笑った。
「ええ。私がシンシアと関係を持ったことは認めましょう。」
先ほどまでの狼狽が、嘘のように消えている。
「ですが、それと『精霊の巫女を保護する責務を怠った』という話は、別問題ではありませんかな?」
ガーディアスの眉が、わずかに動いた。
「当時、私はシンシアが身籠ったことすら知らなかった。当然、その腹の子が我がギエフ侯爵家の血を引いていることも――ましてや『精霊の巫女』であることなど、知る由もない。」
侯爵はゆったりと椅子に座り直した。
「そして、あの女は自らオリヴィンを去ったのです。」
「……自ら?」
「ええ。」
侯爵は微笑んだ。
「私が直接、追放を命じたという証拠がおありですかな?」
誰も答えなかった。
記録上、シンシアが十六年前にオリヴィンを追われたことは分かっている。
だが————その追放を誰が命じたのか。
侯爵自身が命じたという証拠は、今のところ存在しない。
「ならば。」
侯爵は両手を広げる。
「私が『精霊の巫女』を故意に手放した、とは言えますまい。」
悔しいが、筋は通っている。
精霊が運んできた声によって明らかになったのは、侯爵がシンシアに何をしたかまで。
その後、彼女が故郷オリヴィンを離れた経緯までは証明できていない。
限りなく黒に近い灰色。
少なくとも、この場で『巫女を保護する責務を故意に放棄した』と断ずるには、まだ、証拠が足りない。
「これで、ご納得いただけましたかな。」
侯爵は上品にガーディアスへ問いかけた。その口元には、わずかに勝ち誇った笑みが浮かんでいる。
(全く、どこまでもしぶとい……!)
ルナリーシアが侯爵を睨みつける。
「……んん。」
ガーディアスが、わざとらしく咳払いをした。
見ると、琥珀色の瞳がルナリーシアを捉えている。
(……落ち着け。)
そう言われたような気がした。
「侯爵の言う通りだ。」
ガーディアスは静かに告げた。
「現時点で責任の所在を断定するのは早計だろう。」
「……!」
ルナリーシアが思わず彼を見る。だが、ガーディアスはルナリーシアを見なかった。
「判断するのは————彼の話を聞いてからでも遅くはない。」
「……彼?」
侯爵の眉が寄る。
ガーディアスはその問いには答えず、控えていた部下に目配せした。
ほどなくして、応接室の扉が開く。連れてこられたのは————身なりの整った、一人の初老の男だった。




