花を散らす雨(二)オリヴィン編
「————この度は、我がギエフ侯爵家の失態により、ご足労をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。」
通された応接室で、ギエフ侯爵はナディフ神官長とガーディアスに向かって、深々と頭を下げた。
「まさか十六年前、私に迫ったふしだらな女が私の子を身籠り、あろうことか、その子が『精霊の巫女』であったとは。本来であれば我がギエフ侯爵家が保護すべき巫女を、十六年もの間、市井に置くこととなってしまった。これもすべて、私の不徳の致すところにございます。」
声には苦渋すら滲んでいる。
「ルナリーシアにつきましては、今後、当家が責任をもって引き取り、神殿へ送り出す所存です。どうかご安心ください。――重ね重ね、申し訳ございませんでした」。
物腰はいたって穏やか。
言葉遣いにも、振る舞いにも、非の打ち所がない。
まるで、貴族の模範そのものだった。
(……何、この茶番。)
ルナリーシアは、膝の上でぎゅっと拳を握った。
ナディフ神官長とガーディアスは神妙な面持ちで侯爵の言葉を聞いている。
けれど、ルナリーシアは今にも口を挟みそうになる自分を抑えるので精一杯だった。
この男の謝罪先は、王家と神殿だ。
『精霊の巫女』である娘を侯爵家で保護できなかったこと。
平民として育て、貴族としての教育を受けさせなかったこと。
侯爵家の失態として語っているのは、ただそれだけ。
――そこには。
ルナリーシアへの謝罪も。
シンシアへの謝罪も。
ただの一言さえ、なかった。
やがて侯爵が、ルナリーシアへと向き直った。
「ルナリーシア。突然のことで驚いているだろうが、今日からお前はこのギエフ侯爵家の人間だ。」
慈愛に満ちた笑みだった。
「神殿へ入るまで、もうあまり時間がない。これから急いで、いろいろと準備をしよう。」
穏やかに細められた、エメラルドの瞳。
————自分の瞳がこの男と同じ色であることを、ルナリーシアは今日初めて嫌悪した。
「お言葉ですが、侯爵閣下」
ルナリーシアは真っ直ぐに男を見返した。
「私の家族は、母シンシアだけです」
侯爵は目を瞬いた。————そして、ひどく悲しそうな顔をした。
「可哀想に、ルナリーシア。」
慈しむような声音だった。
「すっかり、あの毒婦に洗脳されているんだね。もう大丈夫だよ。これからは私たちが、君を守るから。」
————どこまでも。
どこまでも不快な言葉が、その口からつらつらと流れ出てくる。
いっそ、その唇を縫いつけてしまいたい。
二度と母を侮辱する言葉を吐けないように。
「……私と母に、今までのことについて謝罪はないのですか?」
「もちろん、君が平民として十六年もの間生きてきたことは、残念に思っているよ。」
侯爵は困ったように眉を下げた。
「だが、考えてもみてほしい。私だって、あの女に無理やり迫られた被害者なんだ。」
(この男……!)
————よくも。
よくも、いけしゃあしゃあと――!
気づけば拳を振り上げかけていた。
だが、その腕は途中で止まった。
ガーディアスの手が、ルナリーシアの腕に添えられている。
傍から見れば、興奮した少女を宥めるために寄り添っているようにしか見えないだろう。
けれど、その手には確かな力が込められていた。
————今は抑えろ。
琥珀色の瞳が、そう告げている。
しかし、その端正な顔にも隠しきれない不快の色が滲んでいた。
それを見て、ルナリーシアはほんの少しだけ冷静さを取り戻した。
「あら。」
かわりに、にっこりと笑ってみせる。
「侯爵閣下は、ずいぶんとひ弱な方なのですね。」
侯爵の笑みが、一瞬だけ固まった。
「……何が言いたいんだい?」
「だって……」
ルナリーシアは小首を傾げる。
「か弱い十六歳の女中ひとり、振り払うこともできなかったのでしょう?」
「……!」
侯爵は、決して小柄な男ではない。むしろ壮年の男性としては恵まれた体格をしている。
そんな大の男が、十六の少女に力で敵わなかった。
それは、貴族の男にとって少なからぬ侮辱だったらしい。
侯爵の頬に、さっと朱が差した。
だが、それも一瞬のこと。すぐに何事もなかったかのように取り繕うと、再び鷹揚な笑みを浮かべる。
「困った子だ。何をそんなに拗ねているんだい?」
まるで聞き分けのない幼子をあやすような声だった。
「あの頃は私もいろいろと参っていてね。平民風情の女中を振り払えるほどの気力すら残っていなかったんだよ」
————ぷつり。
ルナリーシアの中で、何かが、切れた。
「あくまでも、ご自分は被害者だと?」
「先ほどから、そう言っているだろう?」
(こんな男……!)
こんな男のために————母は故郷を追われた。
たった一人で、見知らぬロシャスへ流れ着いて。身重の身体で、誰にも頼れず、命をかけて自分を産んで。
偏見に晒されながら、それでも十六年間、笑って生きてきた。
————こんな男のために。
(……殺してやりたい。)
そう思った。恐ろしいほど、はっきりと。
今までずっと蓋をして、心の底へ押し込めていたものが、一気に噴き上がる。
怒りでもない。
憎しみでもない。
もっと冷たく、もっと明確なもの。
————紛れもない、殺意だった。
「……おい、ルナリーシア?」
異変に気づいたガーディアスが、ルナリーシアの顔を覗き込む。そして————息を呑んだ。
エメラルドの瞳が、爛々と輝いていた。
その双眸は、ただ一点、ギエフ侯爵だけを見据えている。その顔からは、先ほどまでの激情さえ消えていた。
ぞっとするほど、静かだった。
「おや。」
そんな娘を前にしても、侯爵は穏やかに微笑んでいた。
「怒っているのかい?」
その瞬間————。
ミシリ。
何かが軋んだ。
「……?」
みなが辺りを見回す。
もう一度。
ミシ、ミシリ————。
今度ははっきりと、何かがひしゃげる音がした。
「まさか……!」
ガーディアスが弾かれたように振り返る。
視線の先にいたのは、この屋敷まで同行させていた結界師だった。
ルナリーシアが騒ぎを起こす可能性は、初めから想定していた。だからこそ、万一に備えてこの応接室には結界を張らせていたのだ。
しかし————。
結界師は蒼白な顔で、何度も首を振っている。
「もちません……!」
次の瞬間。
————バキン!
何かが砕け散るような音が響いた。
応接室の窓は閉ざされている。扉も開いていない。
それにも関わらず、ルナリーシアの淡金色の髪が、ふわりと宙へ舞い上がった。
一陣の風が頬を撫でる。
それは瞬く間に勢いを増し————閉ざされた応接室の中で、激しい旋風が巻き起こった。




