長閑(八)
「どうです? 具合は。」
ルナリーシアは、寝台に横たわる少年——トマスというらしい——の容体をそっと尋ねた。
「まだ熱は高いですが、峠は越えたとお医者様がおっしゃっていましたよ。」
「そう。よかった……」
トマスを看てくれていた城の管理人の老婦人の言葉に、ルナリーシアはそっと胸を撫で下ろした。
長い間、冷たい水に浸かっていたせいで、ひどく身体が冷えていたらしい。
一時は意識も朦朧としていたが、今は熱こそあるものの、容体は落ち着いているという。
「お兄ちゃん、助かる?」
心細そうな声がした。トマスの妹、ノアだ。
「ええ。もう大丈夫よ。」
ルナリーシアは目線を合わせるために屈むと、安心させるように笑った。
「あとはいっぱい寝て、お熱が下がったら、また元気になるわ。」
「……ありがとう、お姉ちゃん。」
「私は河から引っ張り上げただけよ。」
ルナリーシアはゆるゆると首を振った。
「お礼なら、お医者様を呼んでくれた、あの黒髪のお兄さんにも言ってあげて。それから、お兄ちゃんをここまで運んでくれた神官様にもね。」
「うん。」
事実、医者を手配したのはガーディアスだった。
ナディフ神官長が抱きかかえて連れてきたトマスを見るなり、容体が悪いと判断し、城へ運び込ませた。そのまま街で一番腕のいい医者まで呼んだらしい。
本来なら、平民の子どもが王家所有の城へ入ることなどまずない。
破格の待遇と言っていいだろう。
「お兄ちゃんのことは任せて、ノアももう寝なさい。」
「でも……」
「お兄ちゃんが起きたとき、ノアが元気じゃなかったら心配しちゃうわよ。」
「……うん。」
ルナリーシアが諭すと、ノアは素直に用意された別室へ戻っていった。
聞けば、兄妹の母親はすでに亡くなっており、父親と三人で暮らしているらしい。
その父親も、先日の嵐以来、家に戻っていないという。
(知らないところで一人じゃ、寂しいわよね。)
あとで様子を見に行こう。
そう考えながら、ルナリーシアはトマスの額に載せられた手巾を取り、冷たい水へ浸し直した。
「すみません。少しの間、席を外しますね。」
「はい。任せてください。」
老婦人は、明日の準備もあるのだろう。
急に客が増えてしまって申し訳なく思いながら、ルナリーシアはにっこりと笑って見送った。
静かになった部屋に、少年の苦しげな寝息だけが響く。
額には、じっとりと汗が滲んでいた。ルナリーシアがそれを拭ってやると、不意に手を掴まれた。
「……おかあさん。」
迷子になった子どものような、頼りない声だった。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。ルナリーシアの手を離すまいと握る小さな手は、子どものものにしては少し荒れていた。
「大丈夫。大丈夫よ。」
空いている方の手で、胸元を優しく、とん、とん、と叩く。
気がつけば、小さく歌を口ずさんでいた。
————母が、幼い頃によく歌ってくれた子守唄だった。
しばらくすると、トマスの呼吸が少しずつ穏やかになっていく。やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
「……子供の容体は?」
「ひゃっ。」
突然背後から声を掛けられ、ルナリーシアは危うく飛び上がりそうになった。
振り返る。
「……何だ。」
「びっくりしたじゃない! 気配消して入ってこないでよ!」
「普通に入ってきたが。」
ガーディアスが怪訝そうに眉を寄せる。
(ニンジャよ、ニンジャ……!)
遥か東方の島国には、『ニンジャ』なる一流の間者を育成する組織があるという。
気配を完全に消し、闇に紛れ、時には分身すらする——。
以前読んだ本に描かれていた、全身黒ずくめの珍妙な格好をした男の挿絵が脳裏をよぎる。
「何だ、その目は。」
「……何でもない。」
ルナリーシアは逞しい妄想を頭の隅へ追いやった。
「峠は越えたって。お医者様が。」
「……そうか。」
ガーディアスも声を落として答える。それきり、会話が途切れた。
「……」
「……」
(早く出ていかないかな……)
何とも気まずい。そう思った矢先、ガーディアスがおもむろに口を開いた。
「……よくあるのか。」
「へ?」
「ああいうことだ。」
「どういうこと?」
「人攫い————というより、大の男を相手にして、随分と手慣れていた。」
「ああ。そのことね。」
ようやく意味を理解した。
「私、結構目立つみたいなのよ。昔から。」
ルナリーシアは何でもないことのようにさらりと口に出した。
「子どもの頃、お菓子をやるって知らない男の人に路地裏へ連れていかれそうになったり。もう少し大きくなってからは、酔っ払いに宿へ引っ張り込まれそうになったり。」
「……」
「ほかにも、まあ色々。」
「色々、で済ませるな。」
低い声が返ってきた。ルナリーシアは首を傾げる。
ロシャスでも人目を引くほどの容姿を持つルナリーシアは、幼い頃から妙な男に絡まれることが少なくなかった。
だから、知らない男への警戒心は人一倍強い。
普段はおっとりしている母も、このことに関してだけは別人のように厳しかった。
『いい? 何かあったら、まず大声を出すのよ。相手がびっくりするくらい大きな声で。』
『うん。』
『それから、逃げるの。戦おうなんて考えちゃ駄目。逃げるが勝ちよ。』
『分かった!』
何度言い聞かされたか分からない。
「……しかし。」
「まだ何かあるの?」
ガーディアスが怪訝そうにルナリーシアを見る。
「体術も心得ていたようだが。」
「ああ、それは————」
ルナリーシアは少し笑った。
「お隣に住んでた元傭兵のご夫婦に、ちょっとね。」
「元傭兵?」
「私があんまり危ない目に遭うものだから、心配して教えてくれたの。今は御用聞きをしてるけど、二人とも昔は傭兵だったんですって。」
「……それで、あの蹴り、あの掌底か。」
「何よ。」
「いや。」
ガーディアスは何とも言えない顔をした。
「まあ、それでも一対一でまともにやり合ったら、男の人には敵わないけどね。逃げる隙くらいなら作れるから。」
それが、ルナリーシアにとっての普通だった。
だから何気なく話しただけだったのだが————。
ガーディアスは黙っている。
「……何よ」
今日はいつも以上に沈黙の多い男だ。
「いや。」
「さっきからそればっかりじゃない。」
よく見ると、わずかに眉間へ皺が寄っている。
いつもの苛立った顔とは、少し違った。
「……そんな顔しないでよ。」
ルナリーシアは笑った。
「今まで、ちゃんと逃げ切ってるんだから。」
「……そういう問題ではない。」
「じゃあ、どういう問題よ。」
ガーディアスは、深くため息をついた。結局、最後までよく分からなかった。
◇
当然というべきか。
それからパラスを発つまでの数日間、ルナリーシアは大人しく過ごさざるを得なかった。
————ガーディアスを伴わない外出を、固く禁じられたからである。
(つまんない……。)
寝台に寝転がりながら、ページを捲る。
幸い、ナディフ神官長がせっせと本を差し入れてくれたため、退屈で死ぬことだけはなかった。
聞けば、神官長の甥も大変な読書家らしい。
長年その甥のために本を選び続けた結果、面白い本を見つける能力ばかりが鍛えられたのだという。
ルナリーシアにとっては、ありがたい話だった。
————そうして、四日。
予定通り土砂崩れによる通行止めが解除され、一行はついにオリヴィンへ向けて出立することとなった。
◇
「トマス、ノア。元気でね。」
「お姉ちゃんも、元気でね!」
すっかり元気を取り戻したトマスと、その手を握るノアが見送りに来てくれた。
その後ろには、見覚えのない男性が立っている。
「……あの方は?」
「トマスとノアのお父様ですよ。」
ナディフ神官長が教えてくれた。
「先日の嵐で舟が流されてしまい、運河のかなり下流まで行ってしまったそうです。ようやく戻ってこられたとか。」
「そうだったんですか……。」
父親の足元に寄り添う兄妹を見て、じんわりと胸の奥が温かくなる。
(よかった、本当に。)
「この度は、本当にありがとうございました。このご恩を、どうお返しすればよいか……。」
当の父親はというと、ガーディアスを前に恐縮しきりだった。何度も何度も深々と頭を下げている。
ルナリーシアも城の管理人夫婦へ向き直った。
「お世話になりました。」
「お気をつけて。」
「はい。」
「ねえ、お姉ちゃん。」
「なあに、ノア?」
「これ。」
小さな手から差し出されたのは、四つ葉のクローバーを押し花にし、薄い木片に貼りつけた手作りの栞だった。
「わあ……!」
ルナリーシアの顔がぱっと輝く。
「これ、もらっていいの?」
「うん。お姉ちゃん、本が好きだから」
「ありがとう。大切にするね」
「神官様にも!」
ノアは今度はナディフ神官長のもとへ駆けていく。
「おや。私にもですか?」
「うん!」
「これは嬉しいですね。ありがとうございます。」
ナディフ神官長も、心底嬉しそうに同じ栞を受け取った。
そして————。
ノアは最後に、ガーディアスのもとへ歩いていった。先ほどまでとは違って、その足取りはどこかおずおずとしている。
ガーディアスも一連のやり取りを見ていたのだろう。小さなノアに合わせて膝を折り、目線を合わせる。
「……俺にもくれるのか?」
ノアがこくりと頷いた。ガーディアスは栞を受け取ると、何事か二言、三言、少女へ声を掛けた。
背を向けているため、ルナリーシアからその表情は見えない。
(まあ、さすがに幼女相手にあの怖い顔はしないでしょうけど。)
万が一泣かしたら、殴ってやるからね————。そうルナリーシアは心の中で拳を握った。
「……?」
戻ってきたノアの顔が、真っ赤だった。耳まで赤い。
恥ずかしそうにもじもじしたかと思えば、父親の脚の後ろへさっと隠れてしまった。
その表情は、どう見ても————。
「……。」
ルナリーシアはナディフ神官長を見る。ナディフ神官長もルナリーシアを見る。
二人の口元が、ほぼ同時に緩んだ。
「……何だ。」
いつもの仏頂面で戻ってきたガーディアスが、ニヤニヤと自分を見つめる二人に眉を顰める。
ルナリーシアはボソリと呟いた。
「この、初恋泥棒。」
「……何?」
ガーディアスは意味が分からないらしく、ますます眉間の皺を深くした。
その横で、ナディフ神官長がとうとう堪えきれず、肩を震わせた。




