長閑(七)
(振り切れなかった……!?)
ルナリーシアは反射的に後ろへ飛び退いた。
その勢いを利用して身体を捻り、振り向きざまに拳を叩き込む。
パシッ。
「……え?」
拳は、いとも簡単に受け止められた。そのまま手首を掴まれ、ルナリーシアは相手の顔を見上げる。
「……おい。」
地の底から響くような、不機嫌極まりない声。
ここ二日ですっかり聞き慣れてしまった声だった。
「……ガーディアス?」
「この、じゃじゃ馬娘……!!」
どうやらここまで走ってきたらしい。珍しく肩で息をし、額からは汗が流れている。いつも綺麗に整えられている黒髪も少し乱れていた。
その顔は、恐ろしく不機嫌そうだった。
「大人しく観光もできんのか……!」
「それどころじゃないの! 溺れた男の子を助けたら、そのまま流されちゃって、流れ着いた先で人攫いに遭って――あっ、そうだ、あの子は!?」
「橋の下で倒れていた子どもなら、ナディフ神官長が保護した。」
「……よかった。」
全身から力が抜けた。
————無事だった。本当によかった。
そう思った途端、急に膝が震え始める。
(……やだ。)
今更になって怖くなってきた。
ガーディアスに気づかれないよう、何食わぬ顔で壁へ背中を預ける。
「……あれも、お前の仕業か?」
「え?」
ガーディアスの視線を追う。
少し離れた場所で、先ほどルナリーシアに急所を蹴り上げられた男が、地面に蹲っていた。
「ああ……。」
ルナリーシアは目を逸らした。
「言っておくけど、不可抗力だからね?」
「どこがだ。」
「不可抗力ったら不可抗力よ。」
「……末恐ろしい女だ」
ガーディアスが連れてきたのだろう。
間もなく警邏隊が駆けつけ、呻いている男を縄で縛り上げて連行していった。
「ほかにも、街中を走り回っていた不審な男を三人捕らえたそうだ。あとで顔を確認してもらう。」
「分かった。」
ルナリーシアはこくりと頷いた。顔に張りついた髪が鬱陶しく、手で払い除ける。
その様子を見て、ガーディアスが眉根を寄せた。
「……血が出ている。」
「え?」
「これを使え。」
差し出されたのは、真っ白なハンカチだった。
彼の視線を追って、自分の右手首を見る。
「ああ。」
いつの間に傷つけたのだろう。
手首のあたりがざっくりと切れ、血が滲んでいた。逃げている途中で、壁か何かに擦ったのかもしれない。
「名誉の負傷ね。」
ガーディアスが盛大に顔を顰めた。
「色々と言いたいことはあるが——ひとまず帰るぞ。」
「え。」
「その格好でいつまでいるつもりだ。風邪をひく。」
「……そうね。」
言われた途端、急に身体が冷えてきた気がした。
ルナリーシアは素直に、差し出されたハンカチを傷口へ当てた。
◇
濡れ鼠で城へ戻るなり大浴場へ放り込まれ、温かい湯でようやく人心地ついたルナリーシアを待っていたのは、今日の騒動についての様々な情報だった。
ルナリーシアが助けた少年の父親は、パラスで渡し舟の仕事をしていたという。
しかし、先日の嵐以来、行方が分からなくなっているらしい。
少年が水路へ落ちたのは、風に飛ばされた妹の帽子を取ろうとしたためだった。
そして――ルナリーシアを襲った男たち。
彼らは、この近辺で暗躍する大規模な人身売買組織の下っ端である可能性が高いという。水路が街中に張り巡らされたパラスでは、人目につかず、大量の『荷』を運ぶことができる。
その利便性を悪用した人身売買が、近頃横行していたらしい。
「ここ数年、治安が悪化しているとの報告は受けていたが……人身売買とは」
ガーディアスが険しい顔で呟く。
「それにしても、ルナリーシアさんがご無事で何よりです。本当に肝が冷えましたよ」
ナディフ神官長が噛み締めるように言った。
その声には、いつもの穏やかさとは違う、疲労が滲んでいた。ルナリーシアは居た堪れなくなって俯く。
————さすがに、無茶をした自覚はある。
「……ご心配をおかけしました。」
素直に頭を下げた。
ナディフ神官長は小さく息を吐き、
「次からは、もう少しご自分も大切になさってくださいね」
とだけ言った。
「はい……。」
「――どうして、精霊の力を使わなかった。」
低い声が割って入る。
ルナリーシアは顔を上げた。ガーディアスだった。
「人の目が多すぎたのよ。」
それだけで、ルナリーシアには十分な理由だった。
精霊と意思を交わせることを、十六年間隠し続けてきたのだ。いくら秘密ではなくなったと言われても、人前で精霊に呼びかけ、その力を借りることには強い抵抗がある。
「そうだとしても、あの程度の人攫いなら、精霊に頼めばどうとでもなっただろう。」
責めるような口調だった。ガーディアスは、怒っているらしい。
それは分かった。
けれど、疲れ切った頭にその物言いは少々癇に障る。
「……精霊は、便利な使い魔じゃないわよ。」
ルナリーシアの言葉にガーディアスの眉間の皺がますます深くなった。
「何?」
「頼めば、確かに色々なことをしてくれるわ。」
精霊たちは、ルナリーシアのことが好きだ。
頼み事をすれば、喜んで叶えようとしてくれる。
けれど——————。
「だからって、何でもかんでも甘えて頼めばいいってものじゃない。」
精霊は、人より遥かに大きな力を持つ。
同時に————ルナリーシアにとっては、生まれたときから傍にいてくれた、かけがえのない友人たちだった。
「精霊たちに、『あの人攫いたちをどうにかして』って頼んだら、どうなると思う?」
「……。」
ガーディアスは答えなかった。
おそらく、彼にも伝わったのだろう。
精霊たちは、人ではない。
嘘をつかない。悪意もない。
けれど、人間の善悪や法もまた、彼らには関係がない。
愛しいルナリーシアを傷つけようとした人間を『どうにかして』と頼まれれば————文字通り、どうにかしてしまう。
最悪の場合————。
「……誰が、自分の友達に人殺しなんてさせたいのよ。」
ようやく、それだけを絞り出した。
ガーディアスが僅かに目を見開く。だが、すぐに表情を引き締めた。
「だが、今回、お前は死ぬところだった。」
「無事だったからいいでしょ。それに、本当に危なくなったら、人目を避けて精霊たちに助けてもらうつもりだったし。」
「それは結果論だ。」
「……っ」
ルナリーシアはガーディアスを睨みつけた。この男、本当にああ言えばこう言う。まるで口うるさい小舅ではないか。
「あの子を見捨てればよかったって言うの?」
「そうは言っていない。」
「同じことでしょ!」
「違う!」
初めて、ガーディアスの声が大きくなった。
「お前は、自分がどれほどこの国にとって重要な存在なのか分かっていない。」
「民あっての国でしょう!?」
ルナリーシアも一歩も引かなかった。
あの少年を助けたことだけは、絶対に間違いだったとは思わない。
「目の前に助けられる命があるなら、私は迷わず飛び込むわ。」
「それで、この国が滅びてもか。」
「……へ?」
あまりにも大きな話に、ルナリーシアは一瞬ぽかんとした。ガーディアスは苛立たしげに眉を腕を組む。
「言っただろう。お前は『精霊の王』の誕生を助ける、『精霊の巫女』だ。」
低く、自分に言い聞かせるような声だった。
「これまで、『精霊の王』が誕生する前に『精霊の巫女』が欠けた例はない。だから、その場合に何が起こるのか――誰にも分からない。」
「だったら――」
「分からないからこそだ。」
ガーディアスの声が響いた。
「仮に、お前が使命を果たす前に死んだことで『精霊の王』が誕生せず、精霊の加護が失われればどうなる。この国そのものが立ち行かなくなる可能性だってある。」
「可能性でしょ!? そうなるって決まったわけじゃない!」
「そうだ。」
意外にも、ガーディアスはあっさり認めた。
「国が滅びるかどうかなど、誰にも分からん。」
それでも————と、彼は続ける。
「この国の未来を危険に晒す可能性がある行動を、俺は貴族として黙って看過するわけにはいかない。」
その眼差しには、一片の迷いもなかった。
これはきっと、ガーディアスにとって譲れないものなのだ。
貴族としての責務。
彼なりの矜持。
「それでも私は——人を助けることを躊躇うような人間にはなりたくない。」
人の命は尊い。
それは自分であっても、あの少年であっても、そして————今日、自分を襲った人攫いたちであっても。
確かに、命の価値は平等ではないかもしれない。だが、容易く奪える命など、この世のどこにもないのだ。
少なくとも、ルナリーシアはそう思っている。
「……。」
「……。」
どちらも引かない。視線がぶつかり合い、見えない火花が散る。
先に目を逸らしたのは、ガーディアスだった。
「――この、じゃじゃ馬娘が。」
心底うんざりしたように、大きなため息を吐く。
「1つ、約束しろ。」
「……何よ。」
ガーディアスが一歩、こちらへ近づいた。
ルナリーシアは怪訝に見上げる。
彼は一言一言、子どもに言い聞かせるように、はっきりと言った。
「これから先、何があっても————自分が生き残る方法を選べ」
「……。」
「誰かを助けるなとは言わん。だが、そのために自分の命を捨てるな。」
鋭い琥珀色の瞳が、真っ直ぐにルナリーシアを射抜く。
「————お前の命が最優先だ。いいな?」
その眼差しに宿るものが、あまりにも真摯だったから。
「……分かったわよ。」
ルナリーシアは、渋々頷くしかなかった。




