二百十六枚の一致——数字は、偶然のふりが下手
「先生、大変だ! 名義変更、もう出されてる!」
ジョエルが事務所の扉を蹴破るように開けた。息が上がり、頬が赤く、額には玉の汗が浮いている。
「落ち着いて。誰の名義が、どう変わったの」
「グレゴワール様の別荘だよ! 役所の窓口で聞いてきた。申請の日付、あの火事の次の日だ!」
「次の日……つまり、証拠を消そうとした直後に動いたということね」
「うん。それに処理は三日で終わるって。今日入れて、あと三日しかない!」
ジョエルは膝に手をついたまま、肩で息をしていた。走り通しで来たのだろう、靴の先が泥で汚れている。
「窓口はよく教えてくれたわね。子供の照会なんて、普通は追い返される」
「最初は追い返された。門前払いだよ」
「それで、どうしたの」
「組合長からの正式な依頼だって言い張った! 見せてくれよって粘ったんだ」
「粘っただけで、書類を見せてもらえるものかしら」
「三回目にやっと折れた。舌打ちされたけど、見せてくれたよ」
「よくやったわ。それだけ?」
「まだある。申告買取額も書き写してきた。ほら、これ」
ジョエルは懐から丸めた紙を取り出し、机に広げた。紙の端は汗で少し湿り、インクがわずかに滲んでいる。
数字の並びに、エステルの視線が動く。
「金貨、二百十六枚……」
「多いよね? 別荘一軒でこんなに?」
「多いか少いかは、まだ言えない。他の断片と並べてみないと」
「先生、これで足りるの? 総会まで、あとどれくらい」
「総会は明後日。名義変更の処理が終わる前に、間に合わせなければ」
「間に合わなかったら、どうなるの」
「証拠と犯人をつなぐ糸が、法的に切れる。だからこそ、今日中に全部揃えるわ」
戸口でマリーが小さく咳払いをした。手には洗い上げた布を抱え、石鹸の匂いがふわりと事務所に漂う。
「証言、まだ聞いていただけますか」
「もちろん。座って、マリーさん」
マリーは椅子の端に浅く腰を下ろした。荒れた指先が、抱えた布の端を無意識に握りしめている。
「毎年、組合で祭事の花飾りと灯りを手伝ってきました。だから相場は、体で覚えています」
「揺れは、どれくらいあったの」
「安い年は金貨七枚。天気が荒れて花が高くついた年は、十六枚まで跳ねました」
「七枚から十六枚……幅は倍以上あるのね」
「はい。年によって、花の仕入れも灯り油の値も変わりますから」
「一番高かった年は、覚えている?」
「三年前です。長雨で花が育たなくて、十六枚まで跳ね上がりました」
「その年の帳面は、まだ残っている?」
「組合の倉庫にあります。見せろと言われれば、いつでも出します」
「十二枚ぴったりという年は」
「一度もありません。あり得ないんです、そんなの」
「本当に、一度も? 記憶違いということは」
「ありません。組合の帳面を毎年つけてきたのは、私自身です」
「一年通してではなく、何年も、ということ?」
「毎月毎月、十二枚ぴったり。そんな数字、生きた祭事の勘定では出てきません」
マリーの声はかすかに震えていたが、目はまっすぐエステルを見据えていた。
「怖かったでしょう。また矢面に立つのは」
「怖いです。でも、兄の給金を盗んだ相手が野放しなのはもっと怖い」
「その言葉、忘れないわ」
リオネルが奥の部屋から、焦げた紙束を抱えて戻ってきた。指にはまだ包帯が巻かれ、灰の匂いがうっすらと残っている。
「押印の角度を、全部並べ直しました」
「どうだった」
「どの月も、同じ角度、同じ力加減です。書いたのは一人。癖は、隠せません」
「角度だけで、そこまで言い切れるものなの」
「印を押す時、右利きの人間は必ずわずかに手前へ傾けます。この癖は、十二枚全部に共通していました」
「十二枚とも……一枚残らず?」
「一枚残らずです。焼け残った端から端まで、確かめました」
「一人が、一年以上も同じ嘘を書き続けたということね」
「はい。筆跡というのは、意識して変えようとしても、指の記憶までは消せません」
「あなたの目も、同じね。改竄の報告書を、二年経っても覚えている」
「皮肉なものだと、前にも言いました」
「その手、まだ痛む?」
「多少は。ですが、この癖を見つけるほうが先です」
「また、優先順位の話ね」
「先生に教わった言葉です」
エステルは三人分の紙を机の上に並べた。ランプの灯りが、数字の列を黄色く照らす。
「金額を、全部足してみるわ」
「手伝おうか、先生」
「いいえ、これは私がやるべき仕事よ。数字を読み違えたら、元も子もない」
指先が一件ずつ数字をなぞる。ジョエル、マリー、リオネルの三人が、息を詰めて見守る。
十二枚、十二枚、また十二枚——並ぶ数字はどこまでも同じ顔をしていた。
「一月、十二枚。二月、十二枚。三月も——」
エステルはつぶやきながら指を滑らせ、羊皮紙の端にペン先で正の字を刻んでいく。
「十二か月分、十二枚ずつ……」
指が止まる。ペン先が紙の上を走り、合計の数字が姿を現した。
「合計、金貨二百十六枚」
「それって——」
「ジョエルの持ち帰った申告買取額と、同じ」
「一致した、ってこと?」
「一枚も違わない。架空の発注を毎月同額で積み上げて、ちょうど別荘の代金分だけ抜き取っていた」
「待って、先生。偶然ってことはないの? 似た数字になっただけとか」
「偶然で二百十六が二回並ぶ確率がどれほど低いか、あなたなら計算できるでしょう」
「……ゼロに近い、と思う」
「でしょう。数字は、偶然のふりをするのが下手なの」
「先生にかかれば、何でもお見通しだ」
「見通しているんじゃないわ。確かめているだけ」
エステルはペンを置き、二つの数字を見比べた。何度見ても、桁も端数も揃っている。
「これは、もう写しじゃないわ」
「どういうこと、先生」
「出所の違う二つの文書が、算術で一致した。これは会計上、動かせない証拠よ」
「先生の帳簿写しさえ手元にあれば、何度でも同じ答えが出るってことですね」
「そのとおり。誰にも否定できない」
エステルは顔を上げ、三人を順に見た。ランプの炎が、四人の影を壁に長く伸ばす。
「証拠は、机の上に全部揃っている。……明日、総会で公開します」
「三日のうち、一番早い手ですね」
「名義が動く前に、公にしてしまう。それが一番、確実だから」
「もし総会で、グレゴワール様が言い逃れたら?」
「言い逃れる余地なんてないわ。算術は嘘をつかない」
ジョエルが拳を握り、マリーが小さく息を吐いた。リオネルだけが、まだ紙の数字を見つめている。
戸を叩く音がした。硬い音が三回、静かな事務所に響く。
届いたのは、差出人の書かれていない一通の手紙だった。
エステルが封を切ると、崩した字で短く記されている。
〈グレゴワール一人の仕業ではない。もっと上を見なさい〉
「先生……これ、誰が」
「わからない。でも、書いていることが本当なら——」
「財務卿……ですか」
「まだ、名指しはできない。でも、無視はできない」
四人の間に、沈黙が落ちた。




