「証拠を焼いた者に、資格はない」――十二回の一致が、書記官を沈黙させた
商人街の祭事組合、その総会の広間に、グレゴワールの声が響いた。
「田舎商人風情が、王室書記官を裁くつもりか」
広間に張られた燭台の炎が揺れ、居並ぶ組合員たちの視線が、一斉にグレゴワールへ集まる。木の長机が軋む音だけが、静けさの中に響いていた。
長机の脚が石床を擦る音が、誰かの咳払いの間隙を縫って響く。息を潜める気配が、広間全体を覆っていた。
壁際に立つエステルとリオネルの前に、彼は悠然と歩み出た。金糸の刺繍が入った上着の裾が、床を掃くように揺れる。
踏み出す靴音は、わざと間を置いて響かせているかのように、一歩ごとに広間の静寂を叩いた。
「裁くのではありません。数字が語っているだけです」
エステルは机の上に帳簿の写しを広げた。ランプの灯りが、羊皮紙の隅々まで照らし出す。
インクの匂いが、湿った夜気に混じって鼻をかすめた。
紙の端はわずかに波打ち、何度も広げ直された跡が残っている。それだけで、この一枚に費やされた夜の数がうかがえた。
「これが、あなたの縁者名義の別荘の、真の出所です。〈クレモン装飾工房〉への支払いは、毎月きっかり金貨十二枚。一年で二百十六枚——別荘の申告買取額と、一枚も違いません」
「偶然の一致だろう」
「偶然が、十二回続きますか」
「一度や二度なら、ある話だ」
「では、十二回目まで数えてみましょうか。一月、十二枚。二月、十二枚——」
「くどい。同じ数字を繰り返すな」
「十二回すべて同額というのは、算術の上では起こり得ません。マリーさんの証言では、祭事の花代は年によって七枚から十六枚まで揺れています」
「洗濯屋の女の言葉が、証拠になるのか」
「十二枚ぴったりが一度もないことは、この組合の誰より彼女が知っています。長年、自分の手で帳面をつけてきた人ですから」
「素人の記憶など、あてにならん」
「素人ではありません。毎年、祭事の帳面をつけてきた当人です」
組合長が咳払いし、周囲の組合員たちが顔を見合わせた。誰かが小さくうなずき、隣の者へ耳打ちする。
「除名に賛成の方は、挙手を」
組合長の声に、賛成する手が次々と挙がっていく。天井近くまで伸びた腕の数を、エステルは静かに数えていた。
袖のこすれる音が幾つも重なり、広間の空気がわずかに揺れる。数えるエステルの指先だけが、机の端で止まっていた。
グレゴワールの口元が、わずかに歪んだ。
「財務卿閣下のお名前を出しても、まだそう言えるか」
広間がざわめいた。誰かが息を呑む音が聞こえる。
「……財務卿閣下の……」
「あの方の名を軽々しく出す組合など、来年から祭事の予算そのものが凍結されるぞ」
「予算が凍結されたら、来年の祭りは……」
「うちの店の看板も、危うくなるんじゃないか」
「祭りがなくなったら、商いはどうなる」
「でも、除名しなければ、あの人はまた同じことを——」
囁き声が波のように広間を渡っていった。挙げていた手が、次々と下がっていく。半分ほどが、迷うように腕を下ろした。
下がった手の持ち主たちは、互いの顔を見ないようにうつむいていた。誰も、最初に目を合わせたがらない。
「先生……」
ジョエルが心配そうにエステルを見上げる。その拳は、いつの間にか固く握られていた。
「怖いのは、わかる。でも、まだ終わっていないわ」
「うん……先生を信じる」
リオネルは懐から一枚の紙を取り出し、机に叩きつけるように置いた。指の包帯が、まだかすかに焦げの匂いを残している。
「名義変更申請書の写しです。日付は、あの別荘の火事の翌日。処理期限まで、あと三日しかありませんでした」
「それが何だと言うんだ」
「証拠を焼こうとした直後に、名義だけは急いで動かした。潔白な人間が、証拠を焼く必要がありますか」
「言いがかりだ。子供の使い走りが拾ってきた紙切れ一枚で、何がわかる」
「日付と処理期限は、役所の記録そのものです。子供が書いたものではありません」
グレゴワールの目が一瞬泳いだが、すぐに笑みを取り戻した。
「その脅しこそが、何よりの証拠です」
エステルの声は低く、しかし広間の隅々まで届いた。
「財務卿閣下のお名前を借りなければ、この場を制せられない。それは、あなた自身が答えを持っていないと認めたのと同じです」
「答えなど、はじめから持つ必要がない。私は書記官だ」
「書記官の肩書きは、算術の答えを変えません」
「名を借りなければ場を制せない者に、裁く資格はありません」
沈黙が落ちた。誰も口を開かない。燭台の炎が、ぱちりと小さく爆ぜた。
炎の爆ぜる音だけが、広間の隅から隅まで届いた。誰かが息を吐く気配が、遅れて伝わってくる。
「……もう一度、伺います」
組合長が静かに立ち上がり、広間を見渡した。
「除名に、賛成の方は」
一度下がった手が、ためらいがちに一本、また一本と挙がっていく。やがて広間中の手が、隙間なく天を指した。
「異議のある方は」
沈黙だけが答えだった。誰の腕も、上がらない。
「では、グレゴワール書記官は本日をもって組合との一切の取引を打ち切る。加えて、名義偽装の件は、正式に告発する」
グレゴワールの顔から血の気が引いた。
「待て、証拠が確定したわけでは——」
「確定しています。算術は、脅しで曲がりません」
エステルはそう言い切り、帳簿を静かに閉じた。乾いた音が、広間の隅にまで響く。
護衛の商人たちがグレゴワールを取り囲み、広間の外へと連れ出していく。彼の抗議の声は、やがて夜の空気に溶けて消えた。
扉の閉まる音を最後に、広間には安堵とも興奮ともつかないざわめきが広がっていった。
「先生、やった……やったね!」
「勝ったわけじゃないわ。数字が、正しく読まれただけ」
「それでも、十分だよ。組合の人たち、みんな先生を見る目が変わった」
「見る目が変わっても、明日また帳簿は必要になる。浮かれている暇はないわ」
「先生らしいや、そういうところ」
事務所へ戻る道すがら、リオネルはずっと黙っていた。ランプを提げた手が、いつもより少し震えている。
石畳を踏む足音だけが、ふたりの間に続いていた。
夜風が路地を抜け、ランプの炎を小さく揺らす。遠くで犬が一声吠え、それきり静まり返った。
「先生」
「なに」
「今夜、聞いてほしいことがあります。一年の期限を、待たずに」
エステルの足が止まった。振り返ると、リオネルの目はまっすぐこちらを見つめている。
「待たずに、何を——」
「ずっと考えていました。今夜、この場でなければ、また先延ばしにしてしまう気がして」
言い終わる前に、事務所の扉が勢いよく開いた。
「先生! 大変だ!」
ジョエルが息を切らして駆け込んできた。額に汗が浮き、声がかすれている。
「王都から、財務卿の使いが来ました!」




