「全帳簿を出せ」三日間の期限、渡さないと決めた証言がある
「先生! リオネルさん! 王室から、封書です——財務卿ロシュ子爵閣下の印が!」
ジョエルの声が、事務所の戸口から弾けるように響いた。言いかけていた言葉を呑み込んだリオネルの喉が、小さく動く。
「……続きは、後で」
エステルはそう言って、ジョエルの手から封書を受け取った。分厚い羊皮紙は、ずしりと重い。蝋の紋章に指をかけ、迷いなく開く。
紙を裂く乾いた音が、狭い事務所に響いた。ジョエルが息を詰めて見守っている。
蝋の欠片が机の上に散り、灯りを受けて鈍く光った。
「三日以内に、開所以来の全帳簿原本を提出せよ。拒否または不備あらば、商人街での営業許可を即時剥奪する……」
読み上げる声は、揺れなかった。だが握った紙の端が、わずかに白く強張っている。
「全部って、まさか——」
「マリーさんの証言書も、デュボワの凍結書類も、全部よ」
「凍結書類まで? あれには、印章を悪用した犯人の名前まで書いてあるのに」
「だからこそ、危ないの。証拠であると同時に、火種になる」
ジョエルの顔が青ざめた。震える声で、彼は一歩詰め寄る。
「それじゃ、マリーさんの名前まで王室に知られるってこと?」
「知られれば、洗濯屋組合の連中がどう出るか、わからないわ」
「そんな……マリーさん、証言してくれただけなのに」
「わかってる。だから、渡さない方法を探すの」
エステルは紙を机に置き、その上に手のひらを重ねる。指先だけが、わずかに冷たい。
「渡せば、証言してくれた人たちが危険にさらされる。渡さなければ、この事務所が終わる」
「先生、どうするの」
「全部は見せない。見せるものを、こちらで決めるわ」
「そんなこと、王室相手にできるの?」
「できる方法があるかどうか、これから確かめる」
リオネルが顔を上げた。焦げの匂いがまだかすかに残る包帯の指で、こめかみを押さえる。灯りの下で、彼の目にわずかな光が戻っていた。
「規定があります。係争中の証拠物件は、監査対象から除外を申請できる」
「本当に、そんな規定が?」
「監査局にいた頃、何度も使いました。私自身が」
「使われた側だった、あなたが」
エステルは目を細めた。皮肉な巡り合わせに、口の端がわずかに上がる。
「自分を追い詰めた道具で、今度は守るのね」
「使い方次第です。道具に善悪はありません」
「でも、マリーさんの証言書は『証拠物件』とは呼べないでしょう。あれは記録であって、帳簿じゃない」
「……確かに。物件としての体裁がなければ、除外申請の対象にはなりません」
「なら、物件にすればいい」
「物件に、というと」
「証言書を、独立した紙切れとして出すから危ないの。台帳の勘定科目に紐付けて、『係争中口座・付属記録』として帳簿本体に綴じ込むわ。そうすれば、帳簿そのものの一部になる」
「帳簿の一部になれば……除外申請の対象は、帳簿ごとで足りる」
「ええ。あなたの条項は、物を守る盾。でも盾の形に合わせて、中身を作るのは私の仕事よ」
「……脱帽です」
「なら、三日で仕上げましょう。全帳簿の目録と、係争中と非係争中の仕分け」
「口で言うほど、簡単ではありません」
「わかっているわ。それでも、やるしかない」
「仕分けの基準を誤れば、突き返されます。監査局は形式不備を口実に、丸ごと却下してくる」
「あなたが元同僚なら、突かれる前に穴を塞げるはずよ」
「塞げるかどうかは、時間との勝負です」
「時間なら、三日ある。他に何が要る?」
「除外申請の理由書に添える、条項の写し。あと——机が、もっと広ければ」
「机なら、私の方を使っていいわ」
リオネルは頷き、机の帳簿を引き寄せた。紙をめくる指が、速い。羊皮紙の擦れる音が、しばらく途切れなかった。
一方、ジョエルはマリーの元へ走った。戻ってきたときには、息を切らしていた。額に浮いた汗を、袖でぐいと拭う。
「マリーさん、怖がってた。名前が出るんじゃないかって」
「出さないわ。証言記録は係争中扱いにする。名前は伏せられる」
「本当に、大丈夫なの?」
「大丈夫にするのが、私たちの仕事よ」
「でも、もし監査局が納得しなかったら?」
「納得させるための三日間よ、これから」
「マリーさん、それでも心配してた。『もし失敗したら、私のせいだ』って」
「あなたのせいには、絶対にならない。そう伝えて」
ジョエルは唇を噛み、それから小さく頷いた。まだ不安の色は消えないが、拳の力は緩んでいる。
「わかった。マリーさんにも、そう伝えてくる」
「ええ、お願い」
「先生たちも、無理しないで」
「無理をしないと、間に合わないの」
二日目の夜、事務所のランプは消えなかった。エステルとリオネルは机を挟み、目録の束と向き合っていた。蝋燭が短くなるたび、新しい一本に差し替える。
インクの匂いと、蝋の焦げる匂いが、狭い部屋に染みついていく。
「この項目、除外申請の理由が弱いわ」
「理由書に、規定の条項番号を明記します。第十七条、証拠保全中の記録に関する項」
「条項番号だけじゃ足りない。証言書には、まだ勘定科目の紐付けがないわ」
「紐付け、ですか」
「マリーさんの証言は『雑損』の科目に仮置きしたまま。これじゃ、どの帳簿の付属記録かも分からない」
「では、どこへ」
「デュボワの凍結書類と同じ、『係争中・遺族基金』の科目に括るわ。番号は——十七のA」
「十七のA……なるほど、これで一体の記録になります」
「条項番号だけじゃ、物は守れない。科目番号で縛って、初めて一枚の帳簿になるの」
「条項番号まで、覚えているのは私だと思っていました」
「覚えているだけじゃ、綴じ込めない。科目番号がなければ、ただの暗記自慢よ」
「……手厳しい」
「でも、正しいでしょう」
「否定はできません」
二人の間に、束の間の静けさが落ちた。窓の外では夜警の足音が遠く過ぎていく。
「あと何項目、残っている?」
「十二。夜明けまでには、終わります」
「十二……多いわね」
「多くはありません。母の帳簿を整理していた頃は、一晩で三十は片づけました」
「三十? どうやって」
「寝なければいい。今夜も、そうします」
三日目の朝、監査局の使者が事務所の前に立った。革の鞄を抱えた中年の男が、エステルたちを見下ろす。
「提出物一式、確認させていただく」
「どうぞ。ただし、除外申請済みの品目は目録の別紙にまとめてあります」
「除外? そんな都合のいい話が通ると——」
リオネルが一歩前に出た。声は静かだが、揺るぎない。
「監査手続き規定第十七条。係争中の証拠物件は、監査対象から除外を申請できる。ご存知ですね」
使者の眉が跳ねる。鞄の中から規定集を取り出し、めくる指がわずかに震えた。
「……確かに、そう書いてある。だが、この証言書とやらは物件ではなかろう。ただの紙切れだ」
エステルが一歩前に出て、目録の別紙を指した。
「紙切れではありません。科目番号十七のA、『係争中・遺族基金』に紐付けて、帳簿本体に綴じ込んであります。独立した書類ではなく、この帳簿の一部です」
「帳簿の、一部……」
「切り離せば、帳簿そのものが崩れます。崩れた帳簿を提出しろとおっしゃるなら、それこそ不備では?」
使者は目録をめくり、綴じ目を指でなぞった。糸の締まり具合を確かめるように、何度も指を往復させる。
「……確かに、綴じてある。切り離した形跡もない」
「分量に不備があれば、条項ごとにご指摘ください。この場で訂正します」
リオネルがそう続けると、使者は規定集を鞄へ戻した。
「いや……形式は、整っている」
使者は目録に印を押し、営業許可証に新しい判を捺した。エステルはその手元を見つめ、息を吐く。
「これで、今日から先も商いを続けられるわね」
「はい。マリーさんたちの名前も、記録には残りません」
「あなたの条項がなければ、盾は立たなかった」
「先生の科目番号がなければ、盾に守るものがありませんでした」
使者が去ったあと、リオネルは提出控えの束を整理していた。その指が、ふと一枚の紙の上で止まる。
「……これは」
「どうしたの」
「参照番号の符丁の切り方です。数字の並べ方に、癖がある」
エステルが覗き込むと、リオネルの目は紙面に釘付けになっていた。指先が、紙の縁をなぞる。
「この体系……母上の裏帳簿と、同じだ」
沈黙が落ちた。ランプの炎だけが、小さく揺れる。
「王室の書式に、なぜお母様の符丁が」
「わかりません。ですが、偶然とは思えない」
「偶然じゃないなら、何なの」
「まだ、言葉にできません。ただ、この切り方を作った人間は——母を、知っている」
エステルは新しい許可証を手に取り、それから窓の外へ目をやった。朝の光が、商人街の屋根を照らしている。
「後で、続きを聞くわ」
「先生……」
「今夜のあなたの言葉も、この符丁のことも。どちらも、逃げずに聞く」
リオネルは紙を握り直し、頷いた。事務所の外では、商人街の喧騒がいつも通りに始まっていた。




