競売まで五日、私は帳簿箱だけは渡さない
「本日をもって、ヴェルヌイユ元伯爵邸および家財一式を競売に付す——異議のある者は、五日以内に申し出よ」
競売人の号令が、朝靄の中に響き渡った。しわがれた声が石畳に反響し、通りを行く人々が足を止める。
羊皮紙を握るジョエルの手が、小さく震えている。指先が紙の端を折り曲げそうなほど、力が入っていた。
「先生、これ……」
「見せて」
エステルは通知書をひったくるように受け取った。文字を追う目が、次第に険しくなる。
行間を読み進めるほどに、眉根の皺が深くなっていく。指先が紙面をなぞる速さも、行を追うごとに速くなった。
「五日後に、家財一式競売……文書箱まで、『その他一式』扱い?」
「箱ごと、まとめて売られるってこと?」
「売られれば最後、中身は散り散りよ。買い手が別々なら、二度と揃わない」
「二度と、って——それじゃ、お母様の帳簿も」
「ええ。誰の手に渡るかも、わからないまま」
「そんな……先生、何か手はないの?」
「今、それを考えているところよ」
リオネルが通知書を覗き込み、眉をひそめた。紙面の日付を指でなぞり、もう一度読み返す。
「処理が早すぎます。残債整理なら、通常は一月の猶予があるはずだ」
「一月が、五日に?」
「異例です。誰かが、書式を急がせて出させたとしか思えません」
「誰かが、急がせている」
「心当たりが?」
「わからない。でも、母の裏帳簿が出てくるのを嫌う誰かがいるなら——理由は、十分すぎるほどある」
「相手が誰であれ、時間はこちらに残されていません」
「五日で足りるの、先生」
「足りなくても、五日しかないの」
エステルは通知書を畳み、決意を込めて顔を上げた。目の奥に、諦めとは違う光が宿る。
「残債の内訳を、洗い直すわ。減らせる額があれば、範囲を絞れるかもしれない」
「五日で、ですか」
「五日しかないの」
「では、時間を惜しんでいる場合ではありません。今から実家の帳票を借り出しましょう」
「ええ、行きましょう」
「僕は何をすればいい?」
「実家の使用人頭に話を通しておいて。帳票を出し渋られたら困るから」
「わかった、すぐ行ってくる!」
事務所に戻ると、机いっぱいに積まれた古い帳票の山を前に、エステルは紙をめくり始めた。埃を払う指が、紙の劣化に何度も止まる。
黄ばんだ紙は端がぼろぼろに崩れ、めくるたびに小さな破片が机に落ちた。乾いた紙の匂いが、狭い事務所に立ち込める。
「これは……連隊経費の項目ね。三十年前の記録」
「父上の代のものですね。何か気になる点が?」
「計上が、二重になっている。同じ遠征費が、王室会計と伯爵家会計の両方に載っているわ」
「二重計上、ですか」
「片方は誤りよ。伯爵家側の負担は、本来なら発生していない。返還請求権が、時効を跨いでも残っている可能性がある」
「跨いでいたら、どうなります?」
「時効は中断事由があれば延びる。督促の記録さえ見つかれば——」
「三十年前の督促状が、残っているとお考えですか」
「王室会計側の写しなら、控えが残っているはず。伯爵家の帳簿じゃなく、そちらの束を探して」
「王室会計側の写し……なるほど、わかりました」
リオネルは山の別の束に手を伸ばし、紙をめくり始めた。灯りに透かし、滲んだインクの下の古い印を確かめる。
「ありました。督促状の写し、十五年前のものです」
「なら、時効は生きているわ」
「相殺できる額は、残債のおよそ三割。文書類を除外させるだけの、交渉材料になります」
「三割……足りるかしら」
「足りなければ、探し続けます。まだこの山には、目を通していない束が残っている」
「もう一晩、付き合ってもらうことになりそうね」
「望むところです」
エステルの口元が、わずかに緩んだ。緊張に強張っていた肩から、力が少し抜ける。
「十分よ。競売人のところへ行きましょう」
「今すぐに、ですか」
「五日目を待つ余裕は、私たちにはないもの」
競売人は屋敷の門前で、二人を横目に難色を示した。分厚い台帳を小脇に抱え、値踏みするような視線を寄越す。
「文書類だけ除外というのは、一式との契約に反する。今さら範囲を変えろと言われても」
「相殺分の書類です。これで残債は三割減ります」
エステルは請求書の写しを突きつけた。紙の端が、風に小さく震える。
「範囲の変更は、こちらの権利のはずです」
「しかし——」
「拒めば、返還請求そのものを表沙汰にします。三十年前の誤りを、どこまで掘り返されたいですか」
「表沙汰、と言われても」
「王室会計の二重計上ですよ。監査局に持ち込めば、あなたの手続きごと調べ直されるでしょうね」
「……脅すつもりか」
「事実を申し上げているだけです。困るのは、そちらでしょう」
競売人の顔から、血の気が引いた。目録を睨む沈黙が、しばらく続く。
指先が台帳の縁を苛立たしげに叩き、やがて動きを止めた。羊皮紙の擦れる音だけが、門前に長く尾を引いた。
「……わかった。文書類を除く動産に限定する」
「感謝します」
「ただし、屋敷そのものは規定通り、五日後に手放していただく」
「承知しています」
その言葉に、迷いはなかった。
五日目の朝、屋敷はすでに空だった。家具は運び出され、壁だけが残った玄関に、二人の足音が響く。
がらんとした広間には、かつて調度品があった跡が、床の色の違いとなって残っていた。冷たい空気が、開け放たれた扉から流れ込んでくる。
エステルは文書箱を抱えたリオネルの隣で、最後にもう一度、広間を見渡した。
「さようなら、とは言わないわ」
「先生?」
「ここには、もう帳簿を残さない。私の帳簿は、これからも商人街で締めるもの」
「商人街の事務所が、これからの本拠地ということですね」
「ええ。この屋敷にはもう、私を縛るものは何もない」
リオネルは箱を抱え直し、静かに言葉を継いだ。木箱の重みを確かめるように、両腕に力を込める。
「この箱は、私が一生かけて守ります。副業の報酬も、いざとなればすべて注ぎ込む」
「一生、なんて簡単に言うのね」
「簡単には言っていません。ただ、確信しているだけです」
「確信だけで、一生を約束するの?」
「確信がなければ、口にはしません。私は、軽々しく誓う人間ではないので」
「知っているわ、それくらい」
「ならば、疑う必要もないでしょう」
エステルは束の間、彼の腕に視線を落とした。それから、初めて自分から一歩踏み出し、その腕にそっと額を預けた。
「……少しだけよ」
「はい」
「少しだけ、休ませて」
「いくらでも」
風が、誰もいない玄関を吹き抜けていった。文書箱の中で、古い紙の束が微かに音を立てる。
その音は、まるで遠い日の帳簿がまだ息をしているかのように、二人の間にしばらく残っていた。




