日没まで十二刻、母の符丁を解け――決算書に残る、三十年前の日付
「本日日没までに、不備なき決算書を提出されなければ、ヴェルヌイユ家の記録は永久封印となります」
王室記録院の窓口で、若い職員が事務的に告げた。羊皮紙の受付簿を指でなぞる仕草が、感情のなさを際立たせる。
窓の外では鐘楼の影が石畳の上をじりじりと動いていた。インクの匂いと埃の匂いが入り混じる空気が、やけに重く感じられる。
「日没まで、あと何刻?」
「十二刻でございます、ド・ヴェルヌイユ様」
「たった十二刻……」
「規定は規定です。時間の延長は、王族特認なくして認められません」
「わかったわ。今日中に、必ず仕上げる」
エステルは踵を返し、事務所への道を急いだ。リオネルが横に並び、風呂敷包みの帳簿を抱え直す。
「先生、母君の裏帳簿と、実家の残った帳票を突き合わせるんですね」
「ええ。あの夜、締めきれなかった決算書よ。今度こそ、終わらせる」
「あの夜、というのは」
「婚約破棄の夜。屋敷を追われる前に、最後まで書けなかった一冊」
「符丁が読めない箇所があると、以前おっしゃっていましたが」
「一項目だけ。でも今日は、それに構っている暇はないわ」
「読めないままで、大丈夫なんですか」
「大丈夫にするしかないの。走りましょう」
事務所の机に、二冊の帳簿が並んだ。エステルは羽根ペンを走らせ、数字を写し取っていく。指先にインクの染みが増えていった。
羽根ペンの先が紙を擦る音だけが、狭い部屋に規則正しく響く。窓から差す光が、机の上をゆっくりと橙色に染めていった。
「相殺分、三割減の記載はこれで正しいわね」
「数字は合っています。あとは、記録院の書式に沿っているかどうかです」
「書式なら頭に入っているわ。心配しないで」
「草稿は仕上がりましたか」
「ええ、行きましょう」
昼過ぎ、二人は再び記録院の窓口に立った。だが職員は草稿をひと目見るなり、机の上に置き直した。
紙が木の卓に落ちる乾いた音が、静かな窓口に響いた。エステルの喉が、小さく鳴る。
「これは受理できません」
「どこが不備?数字はすべて合っているはずよ」
「相殺の根拠となる返還請求権について、王室会計側の正式な認証を経た副本が添付されておりません」
「副本?競売人との合意書は、こちらにあるわ」
「あれは私的な取り決めに過ぎません。王室の記録に残すには、王室会計の認証印が要ります」
「その条文、見せてもらえる?第九条と言ったわね」
「……どうぞ。ご確認はご自由に」
差し出された規定書を受け取り、エステルの目が条文の上を素早く走った。指先が、ある一行の脇でぴたりと止まる。
「……"認証印そのもの"ではなく、"認証と同等と見なされる書面"、とあるわ。これ、代替が利くということよ」
「代替、ですか」
「競売執行記録の写し。王室会計が保管しているはずの控えなら、これに該当するはずよ」
「……確かに、この一文は見落としていました」
「見落としていたのは、あなただけじゃないわ。日没まで、あとどれくらい?」
「およそ六刻。日は待ってくれません」
草稿を抱え直したエステルの肩を、リオネルが後ろから支えた。その手のひらの重みに、彼女の呼吸がわずかに緩む。
「私が、それを取ってきます。閉庁までに」
「競売執行記録の写しよ。王室会計の窓口で、そう名指しして」
「わかりました。監査局にいた頃の伝手を使えば、話は早いはずです」
「伝手より先に、この条文の写しを持っていって。代替が利く根拠を、向こうに示さなければ押し問答になるわ」
「……なるほど。条文さえあれば、裁量に頼らずに済みます」
「ええ。あなたは足を使って、私は先に符丁を片付ける。二手に分かれましょう」
「符丁、まだ残っていましたね」
「あれが埋まらない限り、決算書は完成しないもの。あなたが戻る頃には、終わらせておくわ」
「一人で大丈夫ですか」
「大丈夫にするしかないの。走って」
外套を翻し、リオネルが駆け出していった。石畳を蹴る足音が、路地の奥へ遠ざかる。
事務所に戻ったエステルは、母の裏帳簿を開いた。ページの端が、幾度もめくられて丸くなっている。ペンを握る指が、ある一行の前で止まる。
「……これだけ、読めない」
数字の脇に、見慣れない略字がひとつ。何度目を通しても、正規の記帳法のどこにも当てはまらなかった。
インクの色が他の箇所より薄い。急いで書き足したような、母の癖のある筆跡だけがそこに残っていた。
「くろまる、点二つ……お母様、これは何?」
答えは出ない。エステルは目を閉じ、記憶の底を探った。
幼い日、母の膝の上でペンを握らされたことがある。「これはね、内緒の書き方よ」と、母は笑いながら指を添えてくれた。
あの日の母の手は、インクの匂いがした。膝の上から見上げた横顔を、エステルは今、はっきりと思い出していた。
「くろまるは、店の看板の丸窓……点二つは、暖簾の房飾り……」
つぶやきながら、エステルの目が見開かれた。
「これ、〈丸窓屋〉のことだわ。お母様が贔屓にしていた小間物商」
そうとわかれば、数字は意味を持って並び替わる。取引先の名が定まり、貸方と借方の齟齬が音を立てて解けていった。
「合うわ……これで、全部が繋がる」
エステルは羽根ペンを取り、最後の欄を埋めた。手が震えていたが、文字の並びに迷いはなかった。
日が傾き始めた頃、事務所の扉が勢いよく開いた。西日が差し込み、床に長い影を落とす。
「先生!写し、取ってきました」
「本物なの?」
リオネルは紙を差し出し、継ぎ目に指を這わせた。押された印を、光にかざして確かめる。
「継ぎ目も、印の押し方も規定通りです。偽造ではありません、条文の要件を満たす代替書面です」
「よかった……私の方も、たった今終わったわ」
「符丁が、読めたんですね」
「母様が、指を取って教えてくれた書き方だった。〈丸窓屋〉を指す、あの人だけの略字」
「母君の字を、先生が読み解いたんですね」
「私だけだったわ、あれを読めたのは」
「ええ。ですが、私が走らなければ、読めたところで届けられなかった」
「……減らず口ね」
「事実です」
「行きましょう、日没が迫っているわ」
記録院の窓口に、二人は息を切らして駆け込んだ。西日が石壁を朱く染めていた。
「決算書と、副本です」
職員は書類を丹念に検め、ページをめくる指を止めた。長い沈黙の後、朱肉に判を押し当てる。
「……受理いたします」
「終わった……」
エステルの膝から、力が抜けかけた。リオネルがすかさず肩を支える。
「間に合いましたね」
「ええ、あなたのおかげよ」
受理された決算書を手に取り、エステルは最後の頁に目を落とした。母の符丁で埋めたその日付欄で、指が不意に止まる。
「……この日付」
「どうしました?」
リオネルが覗き込み、日付の数字を追った。表情が、みるみるこわばっていく。
「三十年前……私が生まれる前だ」




