第14話
「先生! 三十年前の記録院の獄吏だった人が、まだ生きてます——でも」
事務所に駆け込んできたジョエルが、息を切らしながら机に手をついた。頬が上気し、汗が額を伝う。肩が大きく上下し、声が途切れがちになる。
「でも、なに?」
「余命、数日だそうです。今日じゅうに療養地へ移されるって、身内の人が言ってました」
「今日じゅう……確かなの、ジョエル」
「近所の人から聞いた話ですけど、たぶん」
「たぶん、じゃ困るわ。誰から聞いたの」
「隣の八百屋のおかみさんです。噂話ですけど、間違いないと思います」
エステルとリオネルは、顔を見合わせた。ペンを置いたリオネルの指先が、わずかに震えている。
「今夜しかない、ということね」
「家族は会わせたくないみたいで……何度頼んでも、首を縦に振らなくて」
「頼み方が悪いのよ、ジョエル。もう一度、行きましょう」
「先生も来てくれるんですか」
「決まっているでしょう」
「僕も、行っていいですか」
「もちろんよ。あなたが見つけてくれたんだもの」
「足手まといには、なりません」
三人は夜道を急いだ。石畳を打つ足音が三つ重なり、提灯の灯りが揺れるたびに影が長く伸び縮みする。
冷えた夜風が頬を刺し、リオネルの外套の裾が音を立てて翻った。
老獄吏の家の戸口で、身内の女がなおも渋る顔を見せた。閂に手をかけたまま、体で戸を塞ぐようにしている。
「もう関わらせたくないんです。あの人は、静かに逝かせてやりたい」
「今夜を逃せば、二度と話を聞けません。十分だけでいい、お願いします」
「十分で何が変わるんですか」
「変わります。三十年前の真実が、正式な記録として残るかどうかが」
「そんな昔のことを、今さら掘り返して何になるんです」
「何もならないかもしれません。それでも、確かめさせてください」
リオネルが深く頭を下げると、女の表情が揺れた。指先が、閂から離れる。
「……十分だけですよ。それ以上は、体に障ります」
「約束します」
寝台の上で、老人がゆっくりと目を開けた。頬は落ち窪み、呼吸のたびに胸がかすかに上下する。蝋燭の炎が、その輪郭を頼りなく照らしていた。
薬湯の匂いが、狭い部屋にこもっている。
「……あの人の、息子さんか」
「私を、ご存じなんですか」
「顔が、そっくりだ。三十年経っても、忘れられるものじゃない」
「本当に、似ていますか」
「目元だ。困ったときに眉を寄せる癖まで、そのままだよ」
「父は、そんな癖があったんですか」
「知らなかったのかね。よく、そうやって書類を睨んでいた」
「父のことで、伺いました。あの日、何があったんですか」
「証拠は、最初からおかしかった。上からの命令一つで、書類の日付が書き換えられてね」
「日付が、書き換えられた……誰の命令だったんですか」
「名前までは……もう、時効だと思っていたが、話しても無駄じゃないかね」
「無駄ではありません。証言していただければ、正式な記録になります」
「正式な、記録に」
「ええ。今夜のうちに、私が書き留めます」
「筆記なら、私が持っています。紙も」
老人の目に、迷いの色が浮かぶ。だがリオネルの顔を見つめるうち、その色は静かに消えていった。
「あの人の息子になら、話そう。証言書とやらを、用意してくれ」
エステルが紙を差し出すと、老人は震える指でペンを取った。インクを含ませる手つきは頼りなく、それでも文字は途切れなかった。
一文字ごとに、老人の額に汗が浮かんだ。
「もう一つ、伝えておくことがある」
「なんですか」
「あの人の帳簿の一部を、私がこっそり持ち出していた。処分される前に、忍びなくてね」
「今も、お持ちなんですか」
「いや……お屋敷に、戻した。誰にも見つからないよう、隠し方を教わってな」
「隠し方? 誰に教わったんですか」
「それは、覚えていない。ただ、やり方だけは今も忘れずにいる」
老人の指が、虚空をなぞる。何かの糸を辿るような、ゆっくりとした動きだった。
「帳簿の綴じ糸に、薄紙を編み込んで隠していた。あの人が、そう言っていたよ」
エステルの表情が、はっと変わる。
「綴じ糸に薄紙を編み込む……見覚えがあるわ。母の帳面にも、同じ隠し方があった」
「先生の母君にも?」
「ええ。表からは絶対にわからない、記帳係の間だけに伝わる隠し方よ」
「習わなければ、絶対に気づけない仕込み方ということですね」
「そのとおりよ。だからこそ、誰が教えたかが問題になる」
「なぜ、そんな隠し方が二つの家に」
リオネルの顔が、こわばった。
「それは……私が改竄を仕込まれたとき、教え込まれた隠し方と同じだ」
「あなたにも、同じ手口を?」
「はい。誰かがひとつずつ、同じやり方を仕込んで回っている」
「三十年前の獄吏、あなたの父君、そしてあなた……つながっているのね」
「あなたに教えたのも、同じ人脈のはず」
「三十年前から、繋がっているということですか」
「ええ。誰かが、ずっと同じ手口を受け継がせている」
老人が、弱々しく頷いた。
「隠したのは、書斎の壁だ。板を一枚外せば、隙間に……もう覚えているのは、それだけだよ」
「壁のどのあたりか、まで覚えていらっしゃいますか」
「すまない。そこまでは……もう、頭が」
「十分です。あとは、私が見つけます」
エステルが老人の手をそっと包む。皺だらけの指が、わずかに力を込め返した。
「証言書に、署名を」
老人は震える手でペンを走らせ、最後に大きく息を吐いた。
「これで、少しは償える気がする」
「ありがとうございます。父の代わりに、お礼を申し上げます」
「息子さんに、会えてよかった」
「私も、お会いできてよかった。どうか、お体を大切に」
家を出ると、夜風が二人の頬を撫でた。月明かりが石畳を白く照らし、ジョエルは少し離れて先を歩いている。
「エステル先生」
「なに?」
「あなたに出会わなければ、父の話を誰にもできないまま終わっていました」
「贖いの一環、というわけじゃないのね」
「違います。これは、個人的な感謝です」
「ずいぶん、はっきり言うようになったのね」
エステルは一瞬黙り、それから小さく笑った。
「素直になったじゃない」
「あなたのおかげです」
「壁材の中、綴じ糸に編み込まれた薄紙……場所は、書斎」
「実家は、もう解体が決まっていますね」
「いつからだったかしら」
「先週、通知が来ていたはずです」
「まさか、間に合わないの」
「急げば、まだ」
エステルの足が、止まる。振り返った先で、リオネルの目が同じ焦りを映していた。
「断片は、もう解体が決まっている実家の壁の中にあるはずよ。急ぎましょう」
二人は夜道を、迷わず駆け出した。




