元婚約者からの法外な賠償請求――脅迫状の「算定式」と「筆跡」から、あなたの隠し借金を暴き出します
「ギヨーム侯爵令息家より、内容証明にございます。本日中にご回答を」
戸口に立った使者は、封蝋の紋章を掲げたまま一歩も引かなかった。声には抑揚がなく、用件だけを機械のように繰り返す。
分厚い紙の重みが、手のひらに伝わる。封蝋を割る乾いた音が、狭い事務所に妙に大きく響いた。
エステルは受け取った書状を開き、そこに並ぶ数字に目を落とす。
「金貨にして……数百枚」
「本日中に調査をお止めいただけない場合、名誉毀損として提訴し、この賠償額を請求する。以上でございます」
「回答の期限は、日没まででよろしいですか」
「日没までにございます。それ以降のお返事は、一切お受けいたしません」
「承知しました。確かに、お預かりします」
使者は一礼すると、踵を返して足早に去っていった。石畳を打つ靴音が、次第に遠ざかる。
使者が去ると、リオネルが背後から書状を覗き込んだ。眉が寄る。
「法外な額ですね。脅しのつもりでしょうか」
「脅しなら脅しでいいの。問題は、この金額の中身よ」
「中身、ですか」
「見て。この算定式――基礎損害額に対して、経過日数ごとに複利で加算されている」
「複利で……たしかに、単純な名誉毀損の賠償にしては妙な組み方ですね」
「妙どころじゃないわ。これ、貸付契約の違約金の書式そのものよ」
エステルの指が式をなぞる。婚約していた頃、ギヨーム家の帳簿を垣間見た記憶が、静かによみがえった。
「あの家の借金の証書に、まったく同じ組み方を見たことがある。ギヨーム様ご自身の言葉遣いじゃないわ」
「彼が、自分で書いたものではないと」
「ええ。あの人は数字に弱いもの。こんな複利の組み方、思いつきもしないはずよ」
「ということは、これを書かせたのはギヨーム殿ではなく」
「彼に金を貸している誰か。金額の組み立て方を知っている人間よ」
「貸主が、脅迫状の裏に立っているというわけですか」
「そうとしか読めない。数字が、そう語っているの」
「加算の刻みも、気になります。日ごとではなく、七日ごとに区切られている」
「ええ、それも貸付の締め日の組み方そのものよ。名誉毀損の算定に、締め日なんて概念はない」
「つまり、この書状を作った人間の癖が、そのまま算定式に出ている」
「隠しきれなかったのね。急いで作ったから、いつもの型を使ってしまった」
リオネルが署名の部分に指を這わせた。表情がわずかに硬くなる。
「エステル、この署名を見てください」
「筆圧が、違うの?」
「はい。以前拝見したギヨーム殿の書簡は、線が柔らかい。ですがこれは、最後まで力が抜けていません」
「代筆ということね」
「断定はできません。ですが、癖が食い違っているのは確かです」
「どこが、一番違うの」
「払いの部分です。彼はいつも払いを跳ねさせる癖がある。ですがこの署名は、最後まで一定の太さです」
「他にも、何か」
「間隔です。ギヨーム殿の字は詰まりがちですが、これは一字ずつ、やけに几帳面に空いています」
「本人が慌てて書いたのではなく、誰かが手本を見ながら真似た、ということね」
「その可能性が高いと思います」
「十分よ。裏付けとしては、それで足りる」
エステルは紙を机に置き、新しい便箋を引き寄せた。ペン先にインクを含ませる手は、迷いなく動く。
「反論書を書くわ。算定式が貸付契約の書式であること、署名の筆跡が本人のものと食い違うこと――両方書く」
「訴えられたら、どうするんです」
「訴えるなら、どうぞ。こちらは書式ごと、貸主の名前ごと公にします、と書いておくわ」
「強気ですね」
「これは強気じゃなくて、事実よ。事実には、事実で返すだけ」
「もし相手が、それでも提訴してきたら」
「そのときは法廷で、この算定式を読み上げるまでよ。数字は、嘘をつけない」
ペン先が紙を滑る音だけが、しばらく部屋に続いた。書き上げた文字は、迷いのない太さで並んでいる。
書き終えた反論書を使者に持たせた後、エステルは外套を羽織った。
「セシル様のところへ行くわ」
「今からですか。相手は元婚約者の、新しい婚約者ですよ」
「だからこそよ。この算定式が本物なら、彼女の家の家計にも同じ影が出ているはず」
「歓迎されるとは、思えませんが」
「歓迎されなくても構わない。確かめなければならないことがあるの」
セシルの屋敷を訪ねると、案内された居間で当の令嬢は落ち着かない様子で座っていた。指先が、ドレスの裾を握ったり離したりしている。
「エステル様が、私に何のご用でしょうか」
「単刀直入に伺います。最近、家計簿をご覧になりましたか」
「家計簿は……執事に任せておりますが」
「一度、ご自分の目で確かめてみてください。ギヨーム様に関わる借入がないか」
「そんな、まさか」
「まさかで済むなら、私もここまでは参りません」
セシルは戸惑いながらも、控えていた侍女に帳面を持ってこさせた。ページをめくる指が、次第に速くなる。
「こんな金額……見たことがありません」
「返済の目処は、記されていますか」
「いいえ。ただ毎月、決まった額が利子として引かれ続けているだけです」
「いつから、この記載が」
「半年ほど前……ちょうど、私たちの婚約が決まった頃からです」
「毎月の額は、変わっていますか」
「いいえ。金貨十枚、いつも同じ額です」
「利子だけで十枚……元本には、一向に手がついていないということね」
「そんなこと、考えたこともありませんでした」
「令嬢のあなたも、勘定を読めるはずです。数字は嘘をつきません」
セシルの顔から、みるみる血の気が引いた。膝の上で、帳面を持つ両手が震えている。
「知らない方が、幸せだと思っていました」
「知らないままでは、あなたも同じ場所に引きずり込まれます」
「私は……このままではいけないのですね」
「あなた次第よ。目を逸らすか、確かめるか」
セシルは唇を結び、帳面の最後のページを開いた。そこに押された印章に、指先が触れる。
「この借入先の印章……ギヨーム様の書斎で、一度だけ見たことがあります」
その声は、震えていた。
「いつ、どこでご覧になったの」
「半年前……書斎の引き出しを、うっかり開けてしまったときです。同じ印が、書類の束に押されていました」
「その印を、覚えていらっしゃる」
「忘れません。三日月の形に、小さな鍵が重なっていました」
「その書類の束は、まだお屋敷に」
「わかりません……あの日以来、書斎には近づいていませんから」
「無理にとは申しません。ただ、覚えていてくださって、助かりました」
セシルは帳面を胸に抱き、まだ震える指先をそっと握りしめた。
事務所に戻る道すがら、エステルは隣を歩くリオネルに声をかけた。
「あなたが筆跡の食い違いを裏付けてくれたから、迷わず送れたわ」
「決め手は、あなたの見立てです。私はただ、後ろから支えただけですよ」
「それでも、支えがなければ書けなかった」
「先生の副業報酬、今月分もまた積み上がっていますね」
「そういえば、依頼が二件も来ていたわね。忘れずに帳簿に載せておいて」
「承知しました」
「印章の出どころ、調べる必要があるわ」
「セシル様の証言があれば、糸口はつかめます」
「三日月に、鍵……どこかで見た気がする」
「先生も、見覚えが」
「まだ、はっきりしないの。でも、急ぎましょう。実家の壁のことも、まだ片づいていないもの」
夜風の中、二人は事務所への道を早足に進んだ。




