逃亡を図る役人の「金貨百枚」の要求。ならば、あなたが隠した「裏の帳簿」で証言を買い取ります
「今夜の便で発つ。証言が欲しければ、金貨百枚、日没までに」
伝令の少年は息を切らしながら、それだけを言い切った。手の中の紙切れを握りしめる指が、白くなっている。
肩が大きく上下し、額には玉の汗が浮かんでいた。
「グレゴワール様が、そう仰ったのね」
「はい。今夜の船に乗れば、二度と国には戻らないと」
「本当に、それだけしか仰らなかった?」
「それだけです。あとは、時間がないから急げと」
「急げ、以外に何か。声の調子とか、様子とか」
「怯えているようでした。誰かに見つかるのを、恐れているような」
エステルは紙切れを受け取り、文字を目で追った。震えた筆跡が、焦りをそのまま映している。
インクの滲みが、走り書きの速さを物語っていた。
「金貨百枚……うちの資金力を、はるかに超えているわ」
「払えないなら、証言はなかったことに、と」
「その言葉も、彼が言ったの?」
「はい。念を押すように、二度」
「二度も。よほど、こちらが払うと踏んでいるのね」
「リオネル、あなたはどう思う」
「払える額ではありません。ですが、証言を諦めるわけにもいかない」
「金貨百枚を、今日中に用意する手立ては」
「正直に申し上げて、ありません。工房への支払いも控えていますから」
「そうよ。だから、お金以外の方法を探すの」
「お金以外、ですか」
「グレゴワール様が本当に欲しいのは、金貨じゃない。安全な逃亡そのものよ」
「安全を、お金以外で保証しろと」
「彼の弱みを握れば、こちらの条件で取引できる」
「弱みと言っても、潜伏中の人物です。手がかりは限られます」
「あなたの伝手を頼れない?元同僚の誰かが、彼の足取りを知っているはずよ」
「監査官時代の知人なら、何人か。ただ、口が堅い者もいます」
「口が堅くても、話す理由を作ればいい。それはあなたが一番よくわかるはずよ」
「無理にとは言わないわ。でも、今動けるのはあなただけ」
リオネルは少し黙り、それから頷いた。目に、迷いのない光が戻っている。
「監査官時代の伝手を、当たってみます。時間はどれくらい」
「日没まで。急いで」
「戻ったら、すぐに知らせます」
戸口を出る背中を見送りながら、エステルは震えた紙切れをもう一度机に置いた。
リオネルが戻ったのは、それから二刻ほど後のことだった。両手いっぱいの紙束を、机の上に広げる。
紙の端は擦り切れ、写し取った字は急いだせいか所々かすれていた。
「元同僚が、逃亡資金の出所を洗っていました。これは、その過程で出てきた帳簿の写しです」
「全部、写しなのね」
「原本は本人が持ち出しています。断片しか集められませんでした」
「どこの伝手を頼ったの」
「かつて彼の下で働いていた書記です。恩義より恐怖が勝るのか、渋々ではありましたが」
「十分よ。断片からでも、読めることはある」
「読める、とは」
「数字は、断片でも嘘をつかない。並べれば、形が見えてくる」
エステルは紙を一枚ずつ広げ、日付と金額を目で追い始めた。ページをめくる指の動きが、次第に速くなる。
蝋燭の炎が揺れ、彼女の睫毛の影を紙の上に落としていた。
「この支出、名目が曖昧すぎるわ」
「祭事組合の予算とは、別の項目ですか」
「ええ。祭事組合の件は、もう決着している。これは別の流れよ」
「別の流れ、というと」
「グレゴワール様個人の口座に、毎月一定額が流れ込んでいる。名目は『雑費』」
「雑費、ですか」
「こんな曖昧な名目、監査で通るはずがない。誰にも見せるつもりのない金よ」
「つまり、彼自身の使い込みだと」
「祭事組合の件とは別に、彼はもう一つ、自分だけの不正を抱えている」
「金額は、どれくらいに」
「一月あたりは小さい。でも積み重ねれば、無視できない額になるわ」
「何ヶ月分、遡れる?」
「この写しだけでも、半年は追える。原本があれば、もっと前まで見えるはずよ」
エステルは紙を重ね、確信を込めて頷いた。
「これで、交渉できるわ」
「本当に、金貨は用意しないおつもりですか」
「ええ。この紙束のほうが、金貨百枚より重いもの」
隠れ家に踏み込むと、グレゴワールは荷物をまとめる手を止めた。顔に浮かんだ驚きが、すぐに苛立ちへ変わる。
「金貨は用意できたか」
「いいえ。金貨は持ってきていません」
「ならば話すことは何もない。日没までに、私は発つ」
「発つ前に、これを見てください」
エステルは紙束を差し出した。グレゴワールの指が、震えながらページをめくる。
「……これは」
「あなたの『雑費』の記録よ。祭事組合の件とは、また別の流れ」
「どこで、これを」
「出どころは言えないわ。でも、本物であることは、あなたが一番わかっているはず」
「何が望みだ」
「金貨はいらない。これを財務卿に知られたくなければ、証言で払いなさい」
「……脅す気か」
「取引よ。あなたが黙って発つなら、私もこれを表には出さない」
グレゴワールは紙束を見つめたまま、しばらく動かなかった。やがて、絞り出すように口を開く。
その声は、これまでの尊大さが嘘のように掠れていた。
「何を、話せばいい」
「幽霊部隊の仕組みを、最初に考えたのは誰。それだけ」
「それだけで、いいのか」
「ええ。それだけで、十分よ」
「……財務卿ロシュ子爵だ。最初から、全部あの方が組んだものだ」
「あなたは、命じられて動いただけだと」
「そうだ。私は、駒の一つに過ぎない」
「駒でも、動けば罪は残るわ。それでも、話してくれてありがとう」
「署名は」
「それは、できない。私にも、まだ命が惜しい」
「口頭だけでも構わない。今、あなたが言ったことは覚えておくわ」
「……信じるのか、口約束を」
「信じるのは約束じゃない。あなたの言葉の中身よ」
グレゴワールは荷物を抱え直し、振り返らずに戸口へ向かった。足音が、夜の路地に消えていく。
空になった隠れ家に、ろうそくの灯りだけが残った。エステルは紙束を静かに束ね直す。
風が扉の隙間から吹き込み、灯りが小さく揺れていた。
「金で買わなかった証言のほうが、重い」
「あなたらしい選び方です」
「署名がないのは、痛いけれど」
「口頭でも、財務卿の名が出た意味は大きい」
「これで、また一歩進めるわね」
「はい。次は、この証言をどう裏付けるかです」
「裏付けが取れるまで、この紙束は誰にも見せられないわ」
「それでも、私たちの手の中にある。それだけで、前より確かです」
エステルは紙束を胸に抱き、灯りの消えかけた部屋を見回した。窓の外では、日没の最後の光が、静かに落ちていく。




