「帳簿には触れさせないわ」不当な差し押さえを規程で退け、私たちは対等な共同経営者になる
「本日をもって、当事務所の帳簿一切を差し押さえる——財務卿閣下のご命令である」
戸口に立った男は、封蝋の押された令状を突きつけてきた。革の鞄を抱えた助手が二人、その背後に硬い顔で控えている。
男の声は低く、有無を言わせぬ響きを持っていた。踏み込んだ長靴の跡が、土間に乾いた泥の染みを残す。
朝の光が令状の朱印を照らし、蝋の赤だけが妙に鮮やかだった。
紙を包む匂いには、まだ乾ききらない膠と墨の香りが混じっている。
床板を踏む男の靴音が、やけに大きく響く。革靴の底が乾いた木目を叩くたび、部屋の空気がわずかに震えた。
エステルは筆記具を置き、机の向こうから男の顔を見据える。動揺の色は、その表情のどこにも見当たらない。
「差し押さえの根拠を、拝見してもよろしいかしら」
「根拠も何も、財務卿閣下の御名がある。それ以上、何が要る」
「御名だけで、法の手続きが省けるとでも?」
「手続きなら、この令状そのものが手続きだ」
「令状は結果よ。それを支える条文は、どこに書いてあるの」
「……減らず口を」
「減らず口ではなく、確認よ。根拠なら、こちらにもあるわ。リオネル、第十一話の件、覚えている?」
「王室指定監査対象の指定ですね。あれはまだ、正式に解除されていません」
「では、それがどうした」
「監査完了の正式通知が出ない限り、対象を差し押さえることはできない——そういう条項があるはずよ」
「本当に、そんな条項が」
「ええ。監査中の帳簿は、保全の対象になるの」
「条項番号は」
「王室財務規程、第四十二条。監査中の帳簿は保全対象であり、差し押さえの例外です」
「そんな規程、聞いたことがない」
「聞いたことがなくても、存在するわ。写しなら、ここにあるわよ」
執行人の眉が、わずかに動いた。頬の筋がこわばり、視線が助手のほうへ泳ぐ。
その一瞬の視線の揺れを、エステルは見逃さなかった。優位が傾いた気配を、指先で確かめるように黙って見つめる。
「規程は、規程だ。だが閣下のご命令が優先される」
「命令が規程を超えるなら、その命令自体が違法よ。あなたが持ち帰るのは、帳簿ではなく訴えられる立場」
「脅しのつもりか」
「脅しではなく、事実の指摘よ。あなた個人の名で、責めを負うことになる」
「私は、命じられて動いているだけだ」
「命じられても、実行したのはあなたよ。その重さは変わらない」
「口先だけで、そう言い切れるのか」
「口先ではないわ。条文があると言った以上、確かめない理由がないでしょう」
「……確認する」
助手の一人が慌てて紙束を繰り、規程の条文を探し始めた。指先が乾いた紙を何度も滑る。
ページをめくる音だけが、部屋に低く続いていた。爪先が焦って紙の端を折り、破れかけた角が音もなく机に落ちる。
「早く。日が高くなる前に見つけろ」
「探しています……この分厚さでは、すぐには」
「言い訳はいい。閣下をお待たせするわけにはいかない」
指がページの上で止まる。
「第四十二条……確かに、監査中の帳簿は対象外と」
「なら、話は早いわ。帳簿には触れないで」
執行人は舌打ちし、鞄を助手に押し戻した。だが、その目はすぐに部屋の隅の金庫へ移る。
金庫の鉄扉に反射した光が、男の瞳の奥で揺れた。獲物を変えるような、そのわずかな眼の動きに、エステルの背筋が硬くなる。
「帳簿は諦める。だが、規定にあるのは帳簿だ。現金までは、書いていない」
「現金は、運転資金よ。差し押さえの対象じゃないでしょう」
「対象外だからこそ、規定の抜け穴だ。これは一時封印させてもらう」
「そんな詭弁が、通ると思っているの」
「詭弁ではない。書いていないものは、書いていないだけだ」
「そんな解釈が通ると、本気で思っているの」
「通る通らないは、私が決めることではない。上へ持ち帰り、判断を仰ぐだけだ」
「上の判断、とはロシュ子爵のことね」
「それ以上は、私の口からは言えない」
「待って——」
「待たない。閣下のご命令を、手ぶらで持ち帰るわけにはいかない」
執行人は金庫の鍵を助手に開けさせ、中の金貨袋を布に包み始めた。布の擦れる音と、金貨同士がぶつかる硬い響きが重なる。
金貨袋の重みで布がたわみ、結び目を締める助手の手が微かに震えていた。
エステルの手が、思わず伸びかける。指先が空を掴み、それでも止まる寸前で拳を握り直した。
「リオネル、止められる?」
「規程上は、現金の封印まで禁じる条文がありません。……悔しいですが、ここは引くしかない」
「本当に、手立てはないの」
「今この場では。ですが、記録には残せます」
「記録に残す、それだけでも意味はあるのね」
「はい。次に同じ手を使わせない材料になります」
「わかったわ。今日のところは、それで」
「それで、とは。あきらめる、ということですか」
「あきらめるんじゃない。今は退いて、次の手を打つの」
金貨袋が持ち去られていく音を、エステルは黙って聞いていた。戸が閉まり、外の喧騒が遠ざかると同時に、彼女は机の抽斗から一枚の書式を取り出す。
紙は白く、まだ誰の名も記されていない。紙の表面はわずかに冷たく、指の熱がインクの匂いを一段と濃くした。
「リオネル、今から書くものがあるの」
「何をです」
「事務所の商業登記。名義を、わたし一人から——共同経営に変える」
「共同経営、ですか。私と、あなたの」
「ええ。個人の名義だから、狙われる。二人の名なら、事情が変わるわ」
「変わる、とは」
「共同経営は解散も名義変更も、片方の意思だけではできない。差し押さえの手続きも、今より重くなる」
「今日みたいな真似を、二度とさせないために」
「そう。今度こそ、簡単には崩されない形にする」
「なるほど……法的な足場を、固めるということですね」
「早くて助かるわ、あなたの理解の速さには」
「あなたの説明が、要点を外していないからです」
「私の名を、そこに並べていいのですか」
「迷っているの?」
「いいえ。ただ、確かめたかっただけです」
エステルは羽根ペンを取り、登記簿に自分の名を記した。インクの匂いがふわりと立ち、手を止め、隣の欄をリオネルへ差し出す。
ペン先が紙に触れる瞬間、彼女の指先がほんのわずかに震えたのを、リオネル自身は気づかない。
「あなたの番よ」
リオネルは一瞬迷い、それからペンを受け取った。彼の筆跡が、彼女の名の隣に静かに並んでいく。
ペン先の音だけが、しばらく部屋を満たしていた。乾いたインクの匂いが、二人の間の沈黙をゆっくり埋めていく。
「……これは、まだ贖いの証文とは違う書き方ね」
「はい。対等な、契約の書き方です」
「対等、か。あなたの口から聞くと、まだ少し不思議」
「不思議、ですか」
「ええ。悪い意味じゃないわ」
リオネルは何も言わず、ただ深く頷いた。彼の視線が、乾いたインクの上にしばらく留まっている。
「その令状、少し見せてもらえますか」
「発行者印がどうかしたの」
リオネルは令状を受け取り、朱印の縁を指でなぞった。押し方の角度、力の入り方——何かを確かめるような手つきだった。
指の腹が印の縁を二度往復し、そこで初めて止まる。
「この印影の癖……三十年前、父の逮捕状にあったものと、同じだ」
「本当に?」
「間違いありません。印を押す者の癖は、そう簡単には変わらない」
「同じ人物が、三十年経った今も」
「まだ、そこにいるということです」
「その人物を、辿ることはできる?」
「印影さえ辿れれば、必ず名前に行き着きます」
「辿った先に、誰がいると思う?」
「まだ分かりません。ですが、無関係とは思えません」
エステルは令状を覗き込み、朱印の滲みをじっと見つめた。窓の外では、朝の商人街がいつも通りの喧騒を始めている。




