「沈黙はあなたを守らない」証言撤回の脅しには三十年分の被害額で対抗する。記録こそが身を守る盾となる
「先生! 遺族の何人かが、証言を撤回するよう脅されてます!」
戸を叩く音より先に、マリーの声が飛び込んできた。頬が上気し、息が乱れている。
肩で息をする彼女の襟元には、走ってきた道の土埃がうっすらと付いていた。
エステルは筆を置き、椅子から立ち上がった。
「落ち着いて。誰が、いつ言われたの」
「昨日の夜から今朝にかけて、三軒。『今のうちに黙れば見逃す』って、そういう言い方で」
「見逃す、か。脅す側の常套句ね。誰が来たか、顔は見た?」
「覆面の男が二人。声だけでも、堅気じゃないのはわかりました」
「撤回の期限は?」
「数日以内、としか」
「数日、ね。向こうも急いでいる証拠だわ」
リオネルが帳面を閉じ、上着を手に取る。指先が袖のボタンを手早く留める。
留め終えた手が、すでに戸口へ向いていた。
「悠長にはしていられませんね。今から回りますか」
「ええ。でも、ただ頼みに行くだけじゃ足りないわ。あの人たちが撤回するのは、怖いからだけじゃなく——不正の大きさが、実感として見えていないからよ」
「数字を、見せるということですね」
「母の符丁、最後の一枠が残っていたの。あれさえ読めば、三十年分の被害額が出せる」
「三十年分、全部が」
「今夜中に、終わらせる」
エステルは棚から母の裏帳簿を取り出し、机に広げた。紙は湿気を吸って波打ち、めくるたびに乾いた紙の匂いが立った。
古い紙特有の、埃と油煙が混じった匂いが鼻をかすめる。
指先が最後の欄で止まる。爪の先が紙面をなぞり、同じ箇所を三度往復した。
「くろまる、点二つ……これは〈丸窓屋〉じゃない。点が二つ並ぶのは、二重計上の印」
「二重、ですか」
「同じ支払いを、別名義で二度書いていた形跡よ。これで、抜けていた分がつながる」
「母君は、なぜここまで手の込んだ符丁を」
「見つかったときのため。読める人間にしか、読ませない書き方よ」
「読める人間が、あなた一人しかいない書き方——それは、母君なりの信頼の形だったのかもしれません」
「信頼、か。そう思ったことはなかったわ」
「……ねえ、リオネル。あなた、前に言っていたわね。この符丁を作った人間は、母を知っているはずだと」
「王室の参照番号と、体系が同じだったので」
エステルは裏帳簿を繰る手を止めた。頁の間から、黄ばんだ紙切れが滑り落ちる。同じ符丁が、子供の字で書き取られていた。
「……同じ数字を、何十回も書かされていたんですね」
紙の端に、擦れた印がある。何代も連隊へ品を納めてきた、母の生家の印だった。
「生家は代々、連隊への納入を請け負い、王室の帳面と突き合わせていたのね。誰かに教わったんじゃない——物心つく前から、仕込まれていた」
リオネルが頁をめくり返す。仕入れの欄外に、同じ符丁。子供の字ではなく、大人になった母の手だった。
「これは、うちの店の取引です。一度きりじゃない」
「見つけるたびに、ここへ写していたのね。見せるためじゃない、忘れないため。母は最後まで、理由は言わなかった。でも符丁だけは、私に遺してくれた」
ペン先が数字を追い、最後の合計を出す。指が震えるのを、エステルは自分でも感じていた。
計算の桁が一つ、また一つと積み上がるたび、喉の奥が乾いていく。
ロウソクの灯りが紙面を舐め、インクの黒がにじんで見えた。
「三十年で、これだけの額が消えている……」
出た数字を見て、リオネルが息を呑む。
「これほどとは」
「行きましょう、リオネル。時間がない」
一軒目は、洗濯屋の隣に住む老夫婦だった。エステルが数字の書かれた紙を差し出すと、夫の手が紙の端を強く握る。
節くれた指が紙の縁を折り曲げた。その節の一つ一つに、長年の労働の跡が刻まれている。
「こんなに……知らなかった」
「あなたの息子さんの給金だけじゃない。同じ手口で、三十年間続いていたの」
「三十年……うちだけの話じゃ、なかったんですね」
「ええ。あなた方は、その最初の一人でも最後の一人でもない」
「証言を撤回すれば、この数字は闇に戻る。維持すれば、記録として残る」
夫婦は顔を見合わせ、深くうなずいた。妻のほうが先に、震える声で口を開く。
「撤回はしません。書面に、署名します」
「ありがとう。あなたの署名一つが、次の証言の支えになるわ」
二軒目も同様だった。数字を見せられた途端、迷いより先に怒りが顔に出る。
握った拳の甲に、青筋が浮いていた。
「これが、あの人たちの正体……」
「怒りは、無駄にしないで。それを署名に変えて」
署名は、その場ですぐに得られた。リオネルが日付と出所を照合し、記録の欄に控えを取る。
照合の間、彼の視線は紙面と裏帳簿の間を何度も往復し、一致を確かめるたびに小さく頷いた。
ペン先が紙をこする音だけが、しばらく続いた。
三軒目、マリーの案内で辿り着いた家の主は、戸口で立ち尽くしたまま動かなかった。戸の隙間から漏れる灯りが、男の顔の半分だけを照らしている。
もう半分は闇に沈み、その表情までは窺えない。
「帰ってください。もう、関わりたくない」
「数字を、見るだけでも」
「見なくても分かってる。多いんでしょう。それがどうしたって言うんです」
エステルは紙を差し出したまま、退かなかった。
「見て。三十年分よ」
男は渋々紙を受け取り、目を落とす。紙を持つ手の甲に、青い筋が浮いていた。
視線が数字の列を上から下へ滑り、そこで一度、大きく喉が鳴った。
「……こんなに」
「それでも撤回するの?」
「話せば、今度こそ命が危ない」
男の声が震えていた。エステルは一歩、机との距離を詰める。
「沈黙は、あなたを守らない」
「守らないって、なぜ言い切れる」
「今のあなたは、脅す側にとって都合のいい存在よ。黙っている限り、いつでも脅せる。でも証言が正式な記録として残れば、それはもう脅しの材料にならない」
「記録に残せば、狙われる的が消えるとでも」
「消えるわ。あなた個人を消しても意味がなくなるから。狙う相手が、あなたじゃなく制度そのものになる」
「制度を、狙う……そんな回りくどいこと、あいつらがするか」
「するわ。個人を消すより、記録を消すほうが難しいと知っているから、今のうちに撤回させたがっているの」
男は紙を握りしめたまま、しばらく黙っていた。灯りの下で、指の震えだけが小さく続いている。
沈黙の間、遠くで犬の遠吠えが一度だけ聞こえ、また静けさが戻った。
「……本当に、そうなるのか」
「会計士として、断言する。数字は嘘をつかない」
長い沈黙のあと、男はようやく顔を上げた。
「本当のことを、話します。脅されても」
「ありがとう。あなたの証言が、他の証言を守る盾にもなる」
署名を終え、家を出ると外はすっかり暗くなっていた。マリーが遺族全員分の書面を抱え、ほっとした顔を見せる。
抱えた紙束を胸元でぎゅっと押さえ、彼女の肩からようやく力が抜けていた。
「これで、全員……」
「ええ。撤回は、もうない」
道を歩きながら、リオネルがぽつりと言った。
「あなたが読み解いた数字でなければ、誰も動かせなかった」
「贖いのつもり?」
「いいえ。ただの敬意です。あなたの専門性への」
エステルは一瞬、言葉に詰まった。夜風が頬をかすめ、答えを探す間を埋める。
「敬意なんて、慣れないこと言うのね」
「慣れなくても、本当のことです」
「……副業の依頼料、今月分も溜まっているんでしょう。まとめて出資に回すって、忘れていないでしょうね」
「忘れていません。少しずつですが、確実に」
「その几帳面さ、嫌いじゃないわ」
リオネルは小さく笑い、遺族たちの書面を鞄にしまい直した。留め金がかちりと鳴る。
「これで、法廷に申し立てる材料が揃う。明日、申立書を出しに行きましょう」
「ええ、行きましょう」
夜の商人街に、二人の足音だけが静かに重なっていった。




