燃える証拠、焼けた指先―リオネルが投げ捨てたのは、監査官の身分証だった
炎の中で、紙が黒く縮んでいく。
橙色の光が壁に揺れ、暖炉の奥から乾いた紙の焼ける匂いが立ちのぼる。
「先生、あれ!」
ジョエルの声を思い出す間もなく、リオネルは暖炉に駆け寄っていた。管理人らしき男が火かき棒で帳簿を押し込もうとしている。
薪の爆ぜる音に混じって、紙の端がぱちぱちと鳴っていた。
「証拠なんぞ、灰にしてしまえば終わりだ」
「待て!」
リオネルは炎に手を突っ込み、燃えかけの帳簿を引き抜いた。指先が熱を吸い、皮膚が赤くなる。
熱さより先に、紙面の数字が目に飛び込んでくる感覚があった。
紙の端はまだ橙色に燻っていて、灰の粉が宙に舞った。
粉は光の筋を作りながら、ゆっくりと床に落ちていく。
「リオネル、手が!」
「構いません。数字は、俺の頭にも残っている」
「構う、と言っているの。火傷を甘く見ないで」
「見くびってはいません。ただ、優先順位の話です」
「優先順位なら、こちらが決める。手を出しなさい」
エステルは駆け寄り、水差しの水を彼の手にかけた。管理人は火かき棒を捨て、後ずさる。
水音とともに白い湯気が上がり、リオネルは顔をしかめもせず紙を握ったままだった。
彼の視線は水をかけられる指先ではなく、燃え残った紙の一点に固定されている。
「勝手に入り込んで、何のつもりだ」
「勝手に入ったのはそちらの都合。この帳簿は、祭事組合の予算に関わるものです」
「知らん。俺は雇われて焼いただけだ」
「雇われた、というのはつまり、自分の意思ではないという意味?」
「そうだ。命令されたから、火にくべた。それだけだ」
「命令した相手の顔は、見ているの」
「見た。だが名前までは知らん」
「誰に雇われたか、名前を言いなさい」
「言えるわけがないだろう」
「言えない、というのは名前を知っているという意味ね」
「屁理屈を……」
管理人は答えず、逃げるように奥へ消えた。リオネルは半分残った帳簿を広げ、灰の匂いのする紙面を睨む。
指先の痛みより先に、視線が数字の並びに吸い寄せられていた。
紙は端が黒く崩れ、触れるたびにぼろぼろと欠けていく。
「日付と、金額の欄が残っています。〈クレモン装飾工房〉、金貨十二枚——」
「続きは?」
「燃えています。でも、前後の並びなら記憶できる」
「本当に、覚えていられるの? うろ覚えでは証拠にならないわ」
「改竄した報告書の数字は、二年経った今でも一字一句言えます。皮肉なものです」
「皮肉で済ませていい話じゃないわ。でも、今はその記憶に賭けるしかない」
「今すぐ書き写して。灰になる前に、頭の中身を紙に移すのよ」
リオネルは懐から矢立を取り出し、震える手で書き始めた。エステルは灯りを近づけ、その手元を照らす。
インクが紙に落ちるたび、焦げた匂いと墨の匂いが交じり合った。
ペン先が紙を走る音だけが、静まり返った部屋に響いていた。
「筆跡鑑定で鍛えた目です。数字の癖は、一度見れば忘れません」
「頼りにしているわ、その目」
「その言葉、二回目です」
「数えていたの」
「忘れません、と言ったばかりです」
「口が減らないのは、いつものことね」
書き終える寸前、外で複数の足音が響いた。ドアが乱暴に開かれる。
足音は一つではなく、三つか四つ、石畳を踏み鳴らしながら近づいてくる。
「リオネル・ダルク、やはりお前か」
現れたのは、かつての同僚たちだった。先頭に立つ男の視線は、氷のように冷たい。
松明の炎が男たちの顔を下から照らし、影が壁に大きく揺れた。
「まだ監査官気取りで嗅ぎ回っているのか」
「私はもう監査官ではありません」
「では何のつもりで、他人の屋敷に忍び込んでいる」
「証拠を、確保しているだけです」
「証拠? お前が改竄の実行者だったことは、こちらも承知している。裏切り者が、今さら正義面か」
エステルの肩が強張るのがわかった。リオネルは書き写した紙を懐に収め、まっすぐ相手を見返す。
「裏切ったのは、二年前の私です。今の私は、違います」
「違う? どう違う」
「あなた方が見て見ぬふりをする不正を、私は見過ごさない。それだけです」
「大した口を利く。まだ身分証を持っているつもりか」
「いいえ」
「いいえ、とは」
「持っていても、今の私には要らないという意味です」
リオネルは懐から監査官の身分証を取り出した。ためらいなく、それを男の足元に投げる。
金属の縁が石畳に当たり、乾いた音を立てて転がった。
「もう要りません。俺は戻らない」
「本気か。それを捨てれば、王都での立場を失うぞ」
「承知の上です」
「後悔しても知らんぞ」
「後悔なら、二年前にもうしています。今さら増えたところで変わりません」
沈黙が落ちた。エステルは一歩前に出て、リオネルの隣に並ぶ。
「彼を裏切り者と呼ぶなら、訂正させてもらいます」
「訂正だと?」
「彼は今、私の共同経営者です。私、エステル・ド・ヴェルヌイユの下で、正式に働いています」
「お前がヴェルヌイユ……あの横領の」
「その横領は冤罪です。近く、証拠とともに証明します」
「証拠、というのはまさか、その手にしている焦げた紙のことか」
「これはほんの入口。本命は、まだこの先にあります」
男たちは顔を見合わせ、何も言い返せずに立ち尽くした。エステルは帳簿の残骸を懐にしまい、踵を返す。
「行きましょう、リオネル。ここに用はもうない」
二人は屋敷を出た。夜道を戻る間、どちらも口を開かなかった。
蹄の音だけが石畳に規則正しく響き、月明かりが二人の影を長く伸ばしていた。
冷えた夜気が頬を刺し、リオネルの手の火傷だけが熱を持ち続けている。
事務所に着く頃には、月はすでに傾いていた。ランプを灯すと、リオネルの手のやけどが赤く浮かび上がる。
「痛む?」
「たいしたことはありません。それより、書き写した数字を確認してもらえますか」
「後でいいわ。今は、手当てが先」
「先生は、いつも順番を間違えます」
「間違えているのは、あなたの方よ。手当てより先に仕事を持ち出すなんて」
「仕事より先に痛みを気にする癖が、私にはないだけです」
「その癖、今夜からつけなさい」
エステルは布を水に浸し、リオネルの指に巻いた。彼はされるがまま、じっと動かない。
布を巻く指先が触れるたび、リオネルの肩がわずかに強張るのがわかった。
「身分証を、投げ返してしまいましたね」
「見ていたわ」
「これで、あなたに残せるものは技術だけになりました」
「それで十分だと、最初から言っている」
「十分、ですか」
「ええ。肩書きも家名も、最初から数えていない。数字を読む目と、逃げない足があれば、それで足りるの」
「足りる、とあなたが言うなら、疑う理由はもうありません」
リオネルは布の巻かれた手を見つめ、小さく息を吐いた。ランプの灯りが、二人の影を壁に長く伸ばす。
「なら、これからも隣で数字を読ませてください」
「命令じゃなくて、お願いなのね」
「はい。今度は、はっきりそう言います」
エステルは何も答えず、代わりに帳簿の残骸を机に広げた。灰の匂いの中に、まだ読み取れる数字の列が並んでいる。
「〈クレモン装飾工房〉、金貨十二枚。続きは、明日の朝から詰めましょう」
「はい」
窓の外では、朝を待つ空がわずかに白み始めていた。




