「日付だけで、伝わりました」――二年前の恩を盾にされた監査官の告白
「監査官の任命は、グレゴワール様の口利きでした」
リオネルが切り出したのは、夕食の片付けが終わった頃だった。エステルは手にしていた帳簿を、そっと机に置く。
ランプの芯が小さく爆ぜ、二人のあいだの沈黙をひとつ縮めた。窓の外はすでに暗く、机の上の帳簿だけが灯りを受けて白い。
いつもなら数字を追う指先が、今夜はペンを握ったまま止まっている。エステルは、その静けさに何かを察していた。
「口利き、というと」
「平民の私が監査官になるには、後ろ盾が要ります。あの方が、私を推薦してくださいました」
「それだけなら、恩義があるという話に過ぎないわ」
「はい。ただ——恩義は、盾になります」
「盾って、どういう意味」
「返せなければ、いつでも借りを取り立てられる、という意味です」
エステルは何も言わず、続きを促すように目を細めた。
「二年前、私の推薦者が横領の疑いをかけられました。証拠は薄く、握りつぶせば済む話でした」
「握りつぶした、ということ?」
「握りつぶしたのは、私ではありません。グレゴワール様です。私はそれを、見て見ぬふりをしました」
「見て見ぬふりをした代わりに、何を求められたの」
「あなたの報告書に、署名することを」
「二年前の借りを、二年越しに取り立てられた、ということ」
「そうです。私が改竄を拒めば、あの時の握りつぶしを、私自身が暴かれる立場になる仕組みでした」
「拒めば、あなたが罰される。従えば、私が罰される。そういう仕掛けだったのね」
「はい。言い訳のしようもありません」
「直接、脅されたの? それとも、匂わされただけ?」
「言葉ではありません。ただ、報告書の余白に、二年前の日付だけが書き添えられていました」
「日付を見せられただけで、あなたは署名した」
「はい。それだけで、十分に伝わりましたので」
「その、あなたを推薦した人は、今どうしているの」
「地方に飛ばされました。名誉は、今も回復していません」
「あなたが黙っている限り、これからも戻らない、ということね」
「そうです。それも、わかった上で黙っていました」
部屋の空気が、一段冷たくなった気がした。エステルの指先が、机の端をつかむ。
「言い訳を、しているつもりはないのでしょう」
「していません。ただ、事実として——弱みを握られたのも、その恩を盾にされたからです」
「その借りは、今も残っているの」
「わかりません。返した覚えはないので」
リオネルは目を伏せたまま、そこで言葉を止めた。エステルの拳が、卓の上でかすかに震えている。
「二年間、黙っていたということね。私が全てを失ってからも」
「はい」
「私が仕事を探し歩いていたあいだも、あなたはその名前を、知っていた」
「知っていました。逃げていた、と言われても否定できません」
「その二年間、あなたはずっと苦しかったの? それとも、慣れてしまった?」
「苦しくなくなった日は、一日もありません」
「なら、なぜもっと早く言わなかったの」
「言えば、あなたに憎まれる。それが怖くて、言えませんでした」
「憎まれるのが怖くて黙って、結局今、話しているじゃない」
「これ以上黙っていたら、憎まれる以上のものを失う気がしたので」
「何を失うと思ったの」
「あなたの隣にいる資格、でしょうか」
エステルは立ち上がり、窓の方へ数歩歩いた。振り返らないまま、声だけが低く落ちる。
「腹が立たない、と言えば嘘になる。今すぐグレゴワールの家に怒鳴り込みたいくらいよ」
「殴られても構いません」
「殴って気が晴れるなら、とっくにやっているわ」
「では、何を」
「わからない。あなたを問い詰めることが目的じゃない気がしてきた、それだけ」
「私を、恨んでいませんか」
「恨んでいる。それとは別に、あなたを手放したくないとも思っている。厄介でしょう、これ」
リオネルは何も答えない。ただ、その沈黙で答えているのだと、エステルにはわかった。
エステルは深く息を吸い、それを長く吐き出した。振り返った顔は、まだ怒りの色を残している。
「許しはしない。あなたが黙っていた二年間を、なかったことにはできない」
「わかっています」
「でも——この事件が終わるまでは、隣にいて」
リオネルが顔を上げた。エステルはもう目を逸らさず、彼をまっすぐ見ている。
「命令ですか、それとも」
「好きに受け取りなさい。前にあなたがそう言ったのを、真似ただけよ」
「筆跡鑑定の依頼料も、まだ全部あなたに預けたままです。逃げるつもりなら、受け取っていません」
「そんなことを、今言われても」
「今だから言うんです。隣にいる理由に、数字も添えておきたいので」
エステルは思わず小さく笑い、すぐにその笑いを咳払いで隠した。しばらくのあいだ、部屋には燃え尽きかけたランプの音だけが残る。
そのとき、戸口が激しく叩かれた。
「先生! エステル先生!」
ジョエルの声だった。ドアを開けるより早く、少年が転がり込んでくる。頬は赤く上気し、額の汗が乱れた前髪に張りついていた。
肩で息をしながら、少年の目だけが二人を交互に見た。
「落ち着いて。何があったの」
「別荘の……管理人が、居酒屋で酔って喋ってたんです。今夜のうちに、帳簿を焼くって」
「焼く、と言ったのね。今夜のうちに」
「はい。誰かに、そう言い含められてるみたいで」
「誰に言われたか、名前は出てた?」
「そこまでは……ただ、お偉いさんの使いだって、管理人が自分で言ってました」
「今夜のうち、というのは何時頃か聞いてる?」
「わかりません。でも、酒場を出たのはついさっきです。急がないと」
リオネルとエステルは、一瞬だけ顔を見合わせた。祝祭予算と別荘を繋ぐ唯一の紙が、今夜灰になる。
「今夜を逃せば、証拠は永遠に手に入らないということね」
「灰になったものを、私たちの帳簿読解で取り戻す方法はありません」
「登記簿の写しは、持って行く?」
「もちろんです。現地で照らし合わせなければ、意味がありません」
「なら答えは一つね」
「行きましょう。今夜のうちに、別荘の帳簿を」
「馬は? 郊外まで歩けば、夜が明けてしまいます」
「隣の御用聞きに借りるわ。ジョエル、鞍を借りられるか聞いてきて」
「もう聞いてきました! 裏に繋いであります!」
エステルは鞄を引き寄せ、羽織りかけの外套に袖を通した。リオネルは鞄の奥から筆記具の一式を取り出し、素早く腰に留める。
「ジョエル、あなたはここで留守番。危ないことに、子供を巻き込むわけにはいかない」
「わかってます。その代わり、無事に帰ってきてくださいよ」
「約束はしない。でも、必ず戻るわ」
「先生たちなら、大丈夫だと思ってます。だって、数字は嘘つかないんでしょ」
「嘘はつかない。でも、今夜だけは急がせてもらうわよ」
戸口で、エステルとリオネルは一瞬だけ目を見合わせた。言葉はもう要らない。
外はすでに月が高く、裏に繋がれた馬が二頭、白い息を吐いている。街道の先には、灯りの消えた郊外の闇が横たわっていた。
二人は同時に、夜の中へ駆け出した。




