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架空の工房、消えた金貨十二枚――行き着いた先は、あの人の名前

「今回は……その、他を当たっていただけると」


祭事組合長ベルナールは、机の向こうで目を合わせなかった。広げられたままの祝祭予算の帳簿の上で、彼の指先だけが落ち着かなく動いている。


「他を当たる、とはどういうことです」


「いや、深い意味は」


「意味もなく、三割の仕事を切る組合長がいるとは思えません」


エステルの声に、ベルナールの肩がびくりと跳ねた。傍らのリオネルは口を挟まず、帳簿の余白に視線を落としたまま動かない。


「三割、というのは正確な数字ですか」


「祭事組合絡みの依頼だけで、それくらいになるはずです。違いますか」


「……違いません。むしろ、もっとかもしれません」


「なら、なおのこと理由を伺いたいのですが」


「……実は、これを」


ベルナールは懐から一枚の書状を取り出し、机に置いた。羊皮紙の端には見覚えのない紋章の押印がある。


「来月から、祝祭予算の記帳は別の会計士に頼むように、と」


「頼むように、ではなく、命じられたのでは?」


「……そうです。応じなければ、発注先も切り替えると」


リオネルが書状を手に取り、文面を目で追った。


「差出人の名はありませんね。紋章だけで、誰の意向かは書かれていない」


「それが、余計に不気味で」


「不気味だから従う、というのは筋が違います」


エステルが書状を指先で押さえ、ベルナールを見据えた。


「誰に、何を言われたのですか。組合長」


「……名は、言えません。ですが、財務省の方面から圧力がかかっている、とだけ」


「財務省の、どなたです」


「それも、言えないんです。言えば、私自身の首も危ない」


「組合長ご自身が、脅されているということですか」


「脅す、とまでは……ただ、逆らえば良いことはないと、それだけは分かります」


沈黙が机の上に落ちた。窓の外を荷馬車の音が通り過ぎ、遠くで祭りの太鼓の稽古らしき音が響く。


「組合長。この依頼を私たちに任せた場合、失うものと得るもの、両方教えてください」


「失うのは……たぶん、発注先との縁です。得るのは」


「得るのは、正しい帳簿です」


「正しい帳簿が、今の私を助けてくれますか」


「祝祭予算がどこに消えたのか、それを知らないまま祭りを迎えるほうが、よほど危ういと思いますが」


「消えた、というのは」


「噂で聞きました。予算の使途がおかしい、と」


「……その噂、本当なんです。数字が合わない箇所が、いくつも」


「なら、なおさら私たちに任せるべきです。切り替え先の会計士に、それを見抜けますか」


「見抜けるかどうかも、分かりません。名だけは立派な方ですが」


「名の立派さと、帳簿を読む腕は別物です」


ベルナールの手が、書状の上で止まった。指先が震え、しばらく動かない。


「もし……もしあんたらに頼んで、発注先を本当に切られたら」


「そのときは、切られた発注先の代わりを、私たちが一緒に探します。帳簿を扱う者の責任として」


「そこまで、言い切れるんですか」


「言い切れなければ、最初から任せてくださいとは言いません」


ベルナールは書状を見つめ、次にエステルを、そしてリオネルを見た。長い沈黙のあと、彼は書状を両手で握りしめる。


ビリッ、と乾いた音が響いた。破られた紙片が机の上に散らばる。


「……あんたらの方を、信じることにする」


ベルナールは契約書を引き寄せ、震える手で判を押した。ドン、という重い音が事務所に響く。


「決めてくださって、感謝します」


「感謝するのはこっちです。圧力に負けて切り替えていたら、私は自分の商売に一生後ろめたさを抱えるところだった」


「その後ろめたさを抱えずに済んだのは、組合長ご自身の判断です」


「そう言ってもらえると、少しは救われます」


契約書を鞄にしまいながら、リオネルはすでに使途一覧に目を通し始めていた。


「組合長、この発注先の名簿、写しをいただけますか」


「構いませんが、何か」


「見たことのない業者名がいくつか。商人街で商いをしているなら、名簿に載っているはずなんです」


事務所に戻る道すがら、エステルは隣を歩くリオネルに声をかけた。


「切り替えの脅しに、あなたが動じなかったのは意外だったわ」


「動じなかったわけではありません。ただ、あなたが引かないと分かっていたので」


「頼りにしている、と受け取っていいのかしら」


「好きに受け取ってください」


事務所に戻った二人は、使途一覧を机に広げた。リオネルの指が、ある一行の上で止まる。


「これです。〈クレモン装飾工房〉。祝祭の花飾りと灯り代として、金貨十二枚」


「聞いたことのない名前ね」


「商人街の同業者名簿に、登記がありません。工房と名乗るなら、税の登録も必要なはずなのに」


「架空の業者、ということ?」


「金貨十二枚が、実在しない相手に払われている。だとすれば、行き先は」


「発注書に書かれた住所は?」


リオネルが発注書を裏返し、住所の欄を指でなぞった。


「郊外の……別荘地の区画番号だけが書かれています」


「別荘地の登記簿と照らし合わせられる?」


「ジョエルに頼めば、写しを借りられるはずです」


翌日、ジョエルが持ち帰った登記簿の写しを、二人は並べて見比べた。区画番号を目で追い、住所を突き合わせる。


「これ、結構な字の細かさだね。目、疲れない?」


「慣れれば平気よ。数字は嘘をつかないから」


「嘘をつかない代わりに、黙って隠れてるってことか」


区画番号を照らし合わせる指先が、ふと止まった。


「この番地……」


エステルの指先が、登記簿の一点で静止する。


「持ち主の名を見てください」


リオネルが覗き込み、そこに記された名を読み上げた。


「グレゴワール様の、縁者名義の別荘です」


エステルは登記簿を見つめたまま、しばらく声を出さなかった。窓の外で、祭りの太鼓の音が一段と大きくなる。


「デュボワが最後に叫んでいた名前、憶えている?」


「忘れるはずがありません。あの人が最初に印章の使用を許した相手です」


「祝祭予算まで、同じ名前に繋がっている」


「偶然、とは思えませんね」


「偶然じゃないわ。花飾りと灯り代の名目で、金貨十二枚が、その人の縁者の別荘に流れ続けている」


「架空の工房を隠れ蓑にして、ということですか」


「工房の名を借りるだけなら簡単。でも、税の登記まで避けたのは、誰かに調べられると分かっていたから」


「誰か、というのは私たちですか」


「まさか。ただの記帳代行者に、こんな帳簿が見つかるとは思っていなかったはずよ」


「思っていなかった相手には、少し悪いことをしましたね」


「悪いことなんてしていない。見つけるべきものを、見つけただけ」


リオネルは登記簿を丁寧に折りたたみ、鞄の奥にしまった。窓の外の太鼓の音に合わせて、祭りの支度を進める人々の声が遠く響いている。


「次は、この別荘そのものを調べますか」


「調べるわ。今度こそ、名前だけで終わらせない」


「今度こそ、というのは以前にも似た名前を取り逃がした、ということですか」


「取り逃がしたんじゃない。誰も、名前を最後まで追わなかっただけ」


エステルは登記簿の写しを鞄に収め、立ち上がった。夕暮れの光が机の上に長い影を落としている。

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