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死んだ兵士の署名で、金貨は今も動いていた

「決裁頁のない申立ては、受理できません」


財務省の窓口机に、エステルが差し出した申立書が突き返された。羊皮紙の端がわずかに反り返り、机の上で乾いた音を立てる。カウンターの向こうから、係員の視線が眼鏡の奥で二人を射抜く。


「誰が支払いを命じたか。それが証明できない以上、私的基金の凍結には前例がありません」


「前例がないなら、作ればいい話です」


「そう簡単な話ではありません、ヴェルヌイユさん。それに――」


係員は書類を指先で叩き、口の端をわずかに歪める。


「先月の支払い停止も、あくまで一月限りの措置です。期限が過ぎれば、印章はまた使えるようになる」


「それまでに決裁を出していただければ、済む話です」


「そう急かされましても。上長の副署がない申立てを、私の一存で通すわけには」


「副署は要らない条項だと、先月お伝えしたはずです」


「口座を止めるだけの申立てと、恒久的な凍結・払い戻しの決裁は、話の重さが違います。金額も、根拠も」


「金額は、半年分の未払い給与。金貨にして三十枚です」


「たかが記帳代行が、財務省の決裁を左右しようというのですか」


「たかが、ではありません。私は帳簿の異常を見つけ、証明する専門家です。あなたの仕事は、その証明を確かめることでしょう」


「私を試すつもりですか」


「試しているのではなく、頼っているんです。証明はこちらで済ませました。あとは、あなたが決裁を出すだけです」


「根拠なら、ここにあります」


リオネルは懐から一枚の紙を取り出し、机の上に静かに置いた。


「これを見てください」


「これは……押印の一覧ですか」


「半年分の給与台帳から、押印だけを書き写したものです。前半と後半で、癖が変わっているのが分かりますか」


係員は紙を手に取り、目を細めた。指先が一つの印影から次の印影へと滑る。


「……確かに、途中から角度が違う」


「生きている人間の押し方じゃありません。位置も力の入れ方も、毎回同じ。事務的に、機械的に押されている印です」


「だからといって、誰が命じたかまでは、これだけでは」


「命じたのが誰かは、もう問いません」


エステルの声が、静かに、しかしはっきりと響いた。係員が顔を上げる。


「受取人はすでに死んでいました。半年前、戦場で。基金の規約――第十二条を見てください」


「第十二条……受取人の死亡が確認された時点で、以後の支払いはすべて無効とする」


「誰が押したかも、誰が命じたかも関係ない。死んだ人間の名で金が動いていた、それだけで支払いは最初から無効なんです」


「しかし、死亡の確認は、誰がどうやって」


「戦死証明書と、遺族の証言。両方揃っています。まだ足りませんか」


「……仮に規約を認めるとして、他の遺族基金にも波及するのでは」


「波及して困るのは、不正を隠している側でしょう。正しく運用している基金には、何も困ることはありません」


「言い切りますね」


「言い切れるだけの証拠を、揃えてきましたから」


係員は規約の写しを何度も読み返し、指先で文字をなぞった。沈黙が窓口に落ち、外を荷馬車の音が通り過ぎていく。


「……それは、規約上、否定できません」


「では、恒久的な凍結と、未払い分の払い戻しを」


「上長の決裁がなくとも、規約が優先します。……これは、認めざるを得ない」


係員は印を取り出し、決裁欄に強く押しつけた。ドン、という音が響き、エステルの肩からゆっくりと力が抜けていく。


洗濯屋の店先、差し出された革袋を前にしたマリーの手は、しばらく止まったまま。


「これが……兄の分、ですか」


「未払いだった半年分です。基金から、正式に払い戻されました」


マリーは震える指で袋の口を開き、金貨の並びを確かめる。頬に一筋の涙が伝い、拭う間もなく次々とこぼれ落ちた。


「……兄が、報われた気がします。誰も、覚えていないと思っていたのに」


「あなたが証言してくれなければ、ここまで来なかった」


「証言なんて、怖くて何度もやめようと思ったんです。組合から睨まれるのも分かっていたし」


「組合とは、その後どうなりました」


「まだ何も。睨まれるくらいは覚悟していますから、平気です」


「何かあれば、事務所に言ってください。帳簿のことなら、力になれます」


「怖かったのに、なぜ続けたんですか」


「兄の名前を、あんな形で使われたままにはできなかったから。それだけです」


隣で見ていたジョエルが、袋の中の金貨を覗き込んで声を上げた。


「すごい、こんなに! これ、全部本物?」


「本物よ。数えてもいいけど、落とさないでね」


「落とさないよ! ……先生たち、本当にすごいんだな」


「すごいのは、証言してくれたマリーさんよ。私たちは、それを帳簿の言葉に直しただけ」


「帳簿の言葉って、何なの」


「証言だけじゃ、誰も動かない。数字と条文にして、初めて誰かが認めてくれる。それが、私たちの仕事」


事務所へ戻る道すがら、リオネルは焦げた紙の束を鞄にしまいながら、隣を歩くエステルへ目を向ける。


「規約の条文、よく覚えていましたね」


「母の帳簿に、似た条文があったの。死んだ人間の名前で金が動くことが、どれほど恐ろしいか――教えられていたから」


「教えられていた、というのは」


「今はまだ、話さない。いつか話すわ」


事務所に着くと、エステルは机の引き出しから証文を取り出し、それをリオネルの前に広げた。


「一年、無給の見習い。……あの条件、見直すことにしたわ」


「見直す、とは」


「値切りすぎたの、私。あなたの働きに見合うだけの取り分を、共同経営の見習いとして書き加える」


「断ると言ったら?」


「断らせないわ。今回のことで、あなたが誰の下で働いているのか、証明されたのだから」


「証明、というのは怖い言葉ですね。逃げ道がない」


「逃げたいの?」


「いえ。ただ、思っていたより早い」


「遅いくらいよ」


リオネルは証文を手に取り、しばらく黙って文字を見つめていた。窓の外では夕日が沈みかけ、机の上の羊皮紙を赤く染めている。


「一つだけ、条件を」


「また条件? 今度は何」


「共同経営というなら、次の依頼先は、私にも選ばせてください」


「生意気ね。……いいわ、次からは相談する」


「取り分の割合は、いつ決まりますか」


「今すぐには決めない。あなたの働きを、もう少し見てから」


「まだ信用しきっていない、ということですね」


「信用は、していない。……でも、頼りにはしている。それで十分でしょう」


「十分すぎます。私には」


そのころ、財務省の裏手では、処分を言い渡されたデュボワが、連行される寸前に振り返っていた。


「言っておくが」


護衛の手を振り払うようにして、彼は吐き捨てた。


「あの印章の使用を、最初に許したのは私じゃない。書記官グレゴワール様だ」


その名は誰の耳にも残ることなく、夕闇の中に消えていった。だが後日、エステルとリオネルがその名を聞き返す日が、確かに来ることになる。

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