証拠は灰になった。それでも、支払いは止める
デュボワ主計官の執務室には、書類の焼けた匂いがまだかすかに漂っていた。
壁際の書棚には分厚い台帳が隙間なく詰め込まれ、埃をかぶった背表紙が窓からの光を鈍く弾いている。机の上には給与台帳の写しが広げられ、赤茶けた印影が並んでいる。リオネルはその一つを指先で叩き、目を細めた。
「印章は失効していない。規則通りに処理しているだけですが?」
デュボワは椅子の背にもたれ、腕を組んだまま動じない。窓の外では日が傾きはじめ、机の端に長い影を落としている。
「規則通り、ですか。ではこの日付は、なぜ二重に書かれているんです」
リオネルは申請書の一角を示した。インクの色が微妙に違い、下に別の数字が透けて見える。
「見間違いでしょう」
「見間違いなら、鑑定に出しましょうか。筆跡の癖まで、丁寧に比較して」
「……何が言いたい」
「戦死した男の名で、半年間、あなたが判を押し続けたと言っている」
「証拠もなしに、よくそこまで言えるものだ」
「証拠は、あなたの手元にもあります。押し方の癖が、途中から変わっている頁です」
デュボワの頬が強張った。指先が机をこつこつと打ち、沈黙が部屋に落ちる。
窓の外を荷馬車が通り過ぎる音がして、それが妙に長く尾を引いた。
「……わかった。凍結すればいいのだろう」
そう言うと、デュボワは震える手で凍結書類に署名した。ペン先が紙をこする音だけが響く。
「これで満足か」
「満足はしていません。でも、まずは一歩です」
「一歩、ね。お前たちの一歩は、いつも人を潰す方向にしか進まない」
「潰したくて来たわけじゃありません。止めたくて来たんです」
そこへ扉が乱暴に開き、ジョエルが息を切らして飛び込んできた。
「先生! 凍結の申請、突っ返された!」
「突っ返された? 誰に」
「わかんない! 窓口の人が、『この件は上から預かるようにとの達しがあった』って、それしか言わないんだ!」
「上から、というのは誰の指示なのか、名は聞けなかったの」
「聞いたよ、何度も! でも教えてくれない。ただ首を振るだけだった」
リオネルの表情が硬くなった。
「デュボワの署名だけでは、足りないということですか」
「上長の副署がなければ、凍結は成立しない規則なんだ! 僕、何度も食い下がったけど……」
「無理を言ってくれるな。副署の規則は、私が作ったものじゃない」
その言葉を聞いたデュボワの目に、初めて安堵とも嘲りともつかない光が宿った。
「……そうか。私の署名など、最初から紙切れだったわけだ」
「デュボワさん、落ち着いて」
「落ち着けるものか! お前たちに脅されて、私だけが泥をかぶる形になっている!」
「泥をかぶるのが嫌なら、上の名を言えばいい。それだけのことです」
「言えるものか、そんなこと」
デュボワは叫ぶなり、机の上の証拠帳簿を鷲掴みにした。爪が紙の縁に食い込み、束の端が裂ける音がした。
「渡さん! これさえ灰にすれば、お前たちに何もできまい!」
暖炉に向かって走り、束ねた紙を炎の中へ投げ込む。橙色の炎が一気に膨らみ、紙の焦げる臭いが部屋いっぱいに広がった。
「やめて!」
エステルとリオネルの手が同時に伸びた。二人の指が炎の縁で交差し、燃え残りの半分をかろうじて引き抜く。
「上長の署名がある頁は……」
「灰になりました。決裁頁だけ、狙ったように」
リオネルの声が低く沈む。指先には小さな火傷の痕が赤く浮いていたが、彼はそれを気にする様子もなかった。
デュボワは肩で息をしながら、それでも勝ち誇るように口の端を歪めた。
「これで、証拠はもう半分もあるまい」
「半分あれば十分よ」
「十分? 強がりを言うな。上長の署名がなければ、凍結は成立しないと言ったばかりだろう」
「凍結の話はしていないわ。もう別の道を使う」
エステルは静かに立ち上がり、鞄から一枚の羊皮紙を取り出した。基金設立時の規約の写しだ。羊皮紙の端は擦り切れ、彼女が何度も読み返してきたことを物語っている。
「凍結には、上長の副署がいる。でも、支払いを止めるだけなら別の道があるわ」
「別の道?」
「記帳代行者には、担当口座への異議申立てが認められている。凍結じゃない、支払いそのものを止める申立てよ」
「そんな条文、誰も使ったことが……」
「使われないから、忘れられているだけ。私は写しを保管している立場だから、条文を知っているの」
「そんなもの、間に合うのか。もう日が傾いている」
「間に合わせるわ。時間の心配は、あとにして」
エステルは羽根ペンを手に取り、迷いなく申立書を書き始めた。文字は乱れず、時間だけが刻々と削られていく。ペン先が紙を滑る音だけが、静まり返った部屋に規則正しく響いた。
「日没まで、あとどれくらい」
「窓口が閉まるまで、四半刻もありません」
「では急ぎましょう。書き終えたら、私が走ります」
「いいえ、二人で走るわ。一人より早いはずよ」
書き終えた申立書を握り、エステルは事務所を飛び出した。石畳を蹴る足音が通りに響き、リオネルもすぐ後を追う。夕焼けに染まった商人街を、二つの影が並んで駆け抜けていった。
財務省の窓口に着いたとき、係員はすでに扉を閉めかけていた。
「もう閉まりますが」
「記帳代行者の異議申立てです。受理を」
「今日はもう時間外です。明日にしていただけませんか」
「明日では遅いんです。これは今日でなければ意味がありません」
係員は書類を検め、渋々ながら印を取り出す。
「……これは、口座の支払い停止の申立てですね。副署は不要な条項です」
「受理していただけますか」
「規則上は、受理せざるを得ません」
「受理します」
ドン、と受理印が押された瞬間、エステルの肩から力が抜けた。息を長く吐き出し、その場にわずかによろめく。
事務所に戻ると、リオネルが燃え残った写しをそっと差し出した。焦げた紙の縁が、灯りの下で黒く光っている。
「原本は、これで失われました」
「焼けても写しがあったわ。あなたは自分で、罪をもう一つ増やしただけ」
デュボワへの言葉のように、けれど静かに、エステルはその紙を受け取った。指先が焦げた縁をなぞり、灰が微かに舞い落ちる。
受理印の押された申立書を前に、彼女はしばらく黙って立っていた。
「私の名前が、私を裁く道具になっていた」
リオネルは何も言わず、ただ隣に立っていた。窓の外では、日が完全に沈もうとしている。




