判子が語る死者の給金――王室記録保管室と、日没までの証拠
「遺族基金……お母様のお名前が、こんな形で出てくるなんて」
エステルは羊皮紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。指先が紙の端を強く押さえ、爪の色が白く変わっている。リオネルがその手元を覗き込んだ。
「見間違いということは」
「何度確かめても、同じよ。ヴェルヌイユ家、遺族基金」
「原本を見なければ、写しの誤記か意図的な偽装かも判断できません」
「原本は王室の記録保管室よ。私が近づける場所じゃないわ」
「私なら、まだ顔が利きます。元監査官の身分で」
「あなた、辞めたはずでしょう」
「辞めても、名簿からは消えていません。閲覧の申請くらいはできます」
「申請が通る保証は?」
「ありません。それでも、動かないよりはましです」
「動いて、あなたが疑われたら?」
「疑われても構いません。今さら失う地位もないので」
エステルは筆を置き、リオネルを見据えた。窓から差し込む朝の光が、彼女の頬に薄い影を落としている。
「一人で行かせるのは、まだ早い気がするけれど」
「これは私の過去にも関わる不正です。逃げるつもりはありません」
「逃げるかどうかじゃない。あなたが戻ってくるかどうかを聞いているの」
「日没までに、必ず戻ります」
「約束を軽く口にしないで。破れば、次はないわよ」
「軽くは口にしていません。破るくらいなら、最初から言いません」
「その口ぶり、前にも聞いた気がするわ」
「今度は、証文つきの言葉です。前より重いはずです」
短い沈黙のあと、エステルは小さく頷いた。息を一つ吐き、それで迷いを断ち切ったように見えた。
「わかったわ。一人で、日没までに戻ってきなさい。それが条件よ」
「承知しました」
「ジョエル、あなたはマリーさんのところへ。洗濯屋の女将よ、戦死した老兵の妹だと聞いたわ」
「え、僕が? 一人で?」
「あなたなら警戒されない。証言を、丁寧にお願いしてきて」
「丁寧にって、どうやって……僕、そういうの得意じゃないよ」
「得意にならなくていい。誠実であればいいの」
「誠実って言われても、急に自信なくなるんだけど」
「自信は要らないわ。聞く耳と、諦めない足があればいい」
ジョエルは頬を引き締め、勢いよく戸口へ駆け出していった。木の扉が跳ねるように開き、通りの喧騒が一瞬だけ事務所に流れ込む。
宮廷の記録保管室は、ひんやりとした石の匂いに満ちていた。分厚い扉を抜けると、羊皮紙とインクの匂いが埃と混ざり合い、鼻の奥に張りつく。石畳を踏む足音が、天井の高い廊下に長く尾を引いて響いた。文書係の男が、リオネルの顔を見て眉をひそめた。
「あなたが来るとは思いませんでした、ダルク殿」
「給与台帳の写しを頼みたい。連隊記録、半年分」
「規則はご存じでしょう。持ち出しは禁止、閲覧記録は必ず上に報告されます」
「わかっている。写しだけでいい」
「……今日一日限りです。日没までに戻せなければ、次はありません」
「日没までに戻す」
「戻せなかった場合は、どうなさるおつもりです」
「そうならないよう、今こうして急いでいる」
文書係は台帳を差し出しながら、探るような視線を寄越した。指先が紙束の縁をなぞり、離すのを一瞬ためらう。
「何を調べておられるんです」
「答える義理はない。時間が惜しい」
「相変わらずですね、あなたは」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてはいませんが」
文書係は肩をすくめ、それ以上は追及せずに台帳を手渡した。リオネルは受け取った紙束の重さを確かめるように一度腕に抱え直し、大股で扉へ向かう。
一方、洗濯屋の裏口では、ジョエルが濡れた布を抱えたマリーに詰め寄っていた。湯気が立ちのぼる盥のそばで、石鹸の匂いが強く漂っている。
「マリーさん、お兄さんのことで話が」
「これ以上関わったら、組合に仕事を干されるんです。兄のことは、もう終わったことです」
マリーは扉を閉めようとする。ジョエルはとっさに隙間へ足を差し込んだ。
「痛っ……でも、待ってよ」
「離して。お願いだから」
「終わってないよ。お兄さんの給料、まだ支払われてる」
「……何を言っているの」
「半年前から、毎月同じ額。受取人の名前まで残ってる。先生が台帳を見て、そう言ってた」
マリーの手から布が滑り落ちた。石畳に水がじわりと広がる。
「誰が、そんなこと」
「わからない。だから、マリーさんの証言がいるんだ」
「証言したら、組合は……仕事を回してくれなくなる。それでも生きていかなきゃいけないのよ、私は」
「わかってる。無理にとは言わない。でも」
「でも、何」
「お兄さんの名前が、悪事に使われたままでいいの?」
「……ずるい聞き方ね、それ」
「ずるくてもいい。本当のことだから」
マリーは唇を噛み、しばらく俯いていた。肩が小さく震え、それでも声は絞り出すように続いた。
「兄は、最後の戦で……名前しか残らなかった人なの。その名前まで、汚されるのは」
やがて顔を上げる。目には涙の膜が張っていたが、声は揺らがなかった。
「組合に睨まれても……本当のことを、言います」
「ありがとう、マリーさん」
「本当に、いいの? 後戻りはできないのよ」
「後戻りしたいとは、思いません」
「兄の戦死証明書も、まだ手元にあります。持っていきなさい」
マリーは奥の箱から古びた紙を取り出し、震える指でジョエルに差し出した。証明書の端は黄ばみ、折り目に沿って薄く裂けている。証言書には、その場で署名まで書き添えられた。
事務所に戻ったジョエルの手には、証言書と証明書が握られていた。エステルはそれを受け取り、文字を確かめる。
「本物ね。マリーさんは、よく決心してくれたわ」
「組合のこと、心配してた。でも、お兄さんのためだって」
「その決心は、私たちが無駄にしないわ」
「先生、リオネルさんは?」
「まだよ」
「大丈夫かな、あの人」
「心配なの?」
「……少しだけ。だって、日没までって約束、破ったら二度と閲覧できなくなるんでしょ」
窓の外では、日が傾き始めていた。橙色の光が机の上に長く伸び、証言書の端を照らしている。エステルは証言書を引き寄せ、戦死証明書の日付を帳面に書き写し始めた。
「リオネルは、まだ戻らないの」
「もうすぐ日没だよ。間に合うのかな」
「待つだけなら、時間の無駄よ。先に照らし合わせておくわ」
「照らし合わせるって、何を」
「マリーさんのお兄様が亡くなった月と、給金が支払われ続けた月を。戻ってきたら、すぐ答えが出せるように」
時計代わりの蝋燭が、じりじりと短くなっていく。
やがて、駆け込む足音が響く。息を切らしたリオネルが、写しの束を抱えて立っていた。
「間に合った」
「返却は?」
「ぎりぎりで済ませました。記録室の門が閉まる、その寸前に」
「無理をしたのね」
「必要な無理でした。台帳の写しと……」
リオネルは机の上に、証言書と戦死証明書を並べて置いた。指先がまだ微かに震えている。
「マリーさんの証言も、揃ったようですね」
「日付を、見比べさせて」
エステルは証言書の隅に記された戦死の月と、写しに並ぶ受領印の日付を、指でひとつずつなぞった。
「戦死は半年前の三月。なのに受領印は、そのあとも毎月、月末ぎりぎりに押され続けている」
「本人が死んでいるのに、受け取れるはずがありません」
「しかも、押し方が途中から変わっているわ。同じ判子なのに、力の入れ具合だけ別人のもの」
「代わりに、誰かが押していたと」
「ええ。生きている人間の癖じゃない。急いで型通りに押しただけの、事務的な癖よ」
「では、これは」
「受取人が死んだあとも、この判を使って金を引き出し続けた者がいる。それが証拠よ」
「証拠が二つ揃えば、もう誰にも覆せません」
「そうね。台帳の写しと、証言書。どちらか一つでは弱くても、揃えば動かせない」
エステルは二つの書類を見比べ、静かに息をついた。
「原本の閲覧を、あなた一人に任せたのは、これが初めてよ」
「信じていただけて、光栄です」
「まだ信じ切ったわけじゃないわ。結果を見て、判断しただけ」
「それで十分です」
「十分だなんて、簡単に言わないで」
「簡単には言っていません。ただ、今の私にはそれで十分なんです」
リオネルは書類を手に取り、立ち上がった。その目には、これまでとは違う強さが宿っている。
「次は、この基金の署名権を持つ人物に会いに行きます」




