依頼が半分消えても、あなたを雇い続けます
「本当に、あの人を雇うんですか」
朝一番、事務所の扉を押し開けたオルタンスは、椅子に腰を下ろすなりそう切り出した。昨日までの丁寧な口調が消え、声に隠しきれない不安が滲んでいる。
「雇いました。それが何か?」
「だって、あなたを陥れた張本人でしょう。商人街じゃもう噂になってるわ」
「噂と、私の帳簿の正しさと、何の関係があるんです」
エステルは帳簿から顔を上げず、平然と問い返した。オルタンスは口ごもり、それから声を落とす。
「関係あるのよ、こういう場所では。誰と組んでいるかで、信用そのものが決まるんだから」
「私の判断です。文句があるなら、依頼はお受けできません」
「そんな、突き放すような言い方……」
「突き放してはいません。ただ、譲る気がないだけです」
オルタンスは唇を引き結び、視線を落とした。しばらくの沈黙のあと、絞り出すように言う。
「今月の分は、他に頼むわ。悪く思わないで。うちにも組合の目があるの」
「承知しました。またお力になれる日があれば」
「……あなた、少しも動じないのね」
「動じて、何か変わりますか」
「……あなたって人は」
オルタンスは呆れたように首を振り、それでも最後にもう一言だけ付け足した。
「腕は確かなんでしょうけど。噂ってものは、腕だけじゃ覆せないのよ」
「覆すつもりはありません。ただ、数字で信用を積み直すだけです」
追いすがる言葉を、エステルは一切口にしなかった。オルタンスが去った扉が閉まりきらないうちに、表通りから駆け込む足音が響く。
「先生! 大変だ、大変だ!」
御用聞きのジョエルが、息を切らして飛び込んできた。頬が上気し、額に汗が浮いている。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「仕立て屋さんと穀物商も、今月の依頼を取り消すって言ってきたんだ。オルタンス様と合わせて、三件!」
「理由は聞いた?」
「聞かなくたって、わかるでしょ。噂のせいだよ」
エステルは依頼帳を手に取り、指で数を追った。七件のうち三件に線が引かれていく感触が、指先にはっきりと残る。
「半分以下ね」
「半分以下って、大丈夫なんですか、これ」
「仕入れにも、家賃にも届かない額よ」
「そんな……! それでも先生、あの人を辞めさせないんですか」
「辞めさせない」
「なんで!」
「理由をあなたに説明する義理はないわ。大丈夫にするのが、私の仕事」
声に揺らぎはない。だがジョエルは、その静けさのほうがかえって恐ろしいというように、そっと目を伏せた。
奥の作業場から、リオネルが顔を出す。事情を察したのだろう、その表情がわずかに強張っていた。
「聞こえていました。私のせいです」
「あなたのせいで依頼が減ったのは事実よ。それで、何が言いたいの」
「無給の一年では、足りません。もっと重い条件を課してください。住み込みの部屋も、道具も、自分で賄います」
「贖いの重さは、あなたが決めることじゃない」
「では、誰が決めるんです」
エステルは筆を置き、まっすぐにリオネルを見た。
「私が決める。あなたはただ、言われた通りに働けばいい」
「……それでは、私の気が済みません」
「気が済むかどうかも、私が決めることではないわ。証文を書くわよ。座りなさい」
「待ってください、話は終わっていません」
「終わったのよ、私の中では。座って」
リオネルは口を閉じ、椅子に腰を下ろした。エステルは新しい紙を広げ、筆先に墨を含ませる。
「一年間、無給。休みなし、給金の交渉も一切なし。ここまでは、前に言った通りね」
「はい」
「記帳作業に必要な費用は、事務所がこれを持つ」
筆が止まらず、一気にそこまで書き切られる。リオネルの眉が動いた。
「……この状況で、ですか。収入が半分以下に落ちた直後に」
「必要があるかないかも、私が決める。文句は?」
「重すぎませんか、こちらの負担が」
「重いかどうかも、私が決めることよ。何度言わせるの」
「……わかりました。ですが、一つだけ聞かせてください」
「何」
「なぜ、そこまでして私を置くんです。腕を買うだけなら、無給で十分でしょう」
「腕を買っているだけよ。それ以上でも以下でもない」
「では、費用の負担は」
「見習いを飢えさせて、まともな帳簿が書けると思う? 損得の話よ、それだけ」
「……ありません」
短い沈黙のあと、リオネルは小さく息を吐いた。それは諦めでも安堵でもない、名づけがたい響きだった。
二人分の署名が並び、朱の印が押される。乾いた音が、狭い事務所に響いた。
「これで、あなたは居候じゃない。雇われ見習いよ」
「肝に銘じます」
「妙な顔ね。証文なんて、ただの紙よ」
「ただの紙が、私を縛ってくれるんです。それが、ありがたい」
「縛られたいの? 変わった趣味ね」
「あなたの下でなら、悪くないと思っています」
「……減らず口ね」
そう言ったエステルの声が、思いのほか柔らかく響いたことに、彼女自身が一番驚いていた。
証文を棚にしまいかけたエステルの手が、卓の隅に置かれたままの依頼書に止まる。小売商連合から届いていた「共同帳合」の依頼書だった。
「これ、以前は断った仕事だけど」
「一人では抱えきれない、という理由でしたね」
「人手が二人なら、話は別よ」
「引き受けるんですか、この規模の仕事を」
「引き受ける。文句でもある?」
「いいえ。……ただ、驚いています」
エステルは依頼書を取り上げ、迷いなく判を押した。三件の損失が消えるわけではない。それでも、目の前に新しい数字が一つ、確かに積まれる。
「三件失って、一件得る。悪くない取引だと思わない?」
「思います。……いえ、思いたいです」
「素直に思いなさい。数字は嘘をつかないもの」
証文を届けにきたジョエルが、依頼書の束を覗き込んで目を丸くする。
「共同帳合って、あの連合の? 前に先生、規模が大きすぎるって断ってませんでした?」
「一人ならね。今は二人よ」
「へえ……なんだ、ちゃんと使ってるんですね、リオネルさんのこと」
「使えるものは使う。それだけよ」
ジョエルが肩をすくめて笑い、駆け足で表へ戻っていく。静けさが戻った事務所で、作業に戻ったリオネルが、共同帳合の台帳を古い記録と突き合わせ始める。ページをめくる指が、不意に止まった。
「エステル様。少し、妙な癖がある帳簿ですね」
「どういうこと」
「連合の記帳は月ごとにまとめられているはずなのに、一項目だけ様式が違います。字も、他とは別人のもののようです」
「古い項目が紛れ込んでいる、ということ?」
「おそらく。この名目、聞いたことがありますか」
「どれ」
エステルが覗き込む。羊皮紙の端に、小さな文字で書かれた一行があった。
「『亡霊部隊・給与』……知らないわ、こんな名目」
「支払いは半年前から、毎月同じ額で続いています。受取人欄に……」
「受取人欄に、何と書いてあるの」
リオネルの指が、その一行の上で止まる。声がわずかに掠れた。
「……ヴェルヌイユ家、遺族基金」




