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2/20

依頼が半分消えても、あなたを雇い続けます

「本当に、あの人を雇うんですか」


朝一番、事務所の扉を押し開けたオルタンスは、椅子に腰を下ろすなりそう切り出した。昨日までの丁寧な口調が消え、声に隠しきれない不安が滲んでいる。


「雇いました。それが何か?」


「だって、あなたを陥れた張本人でしょう。商人街じゃもう噂になってるわ」


「噂と、私の帳簿の正しさと、何の関係があるんです」


エステルは帳簿から顔を上げず、平然と問い返した。オルタンスは口ごもり、それから声を落とす。


「関係あるのよ、こういう場所では。誰と組んでいるかで、信用そのものが決まるんだから」


「私の判断です。文句があるなら、依頼はお受けできません」


「そんな、突き放すような言い方……」


「突き放してはいません。ただ、譲る気がないだけです」


オルタンスは唇を引き結び、視線を落とした。しばらくの沈黙のあと、絞り出すように言う。


「今月の分は、他に頼むわ。悪く思わないで。うちにも組合の目があるの」


「承知しました。またお力になれる日があれば」


「……あなた、少しも動じないのね」


「動じて、何か変わりますか」


「……あなたって人は」


オルタンスは呆れたように首を振り、それでも最後にもう一言だけ付け足した。


「腕は確かなんでしょうけど。噂ってものは、腕だけじゃ覆せないのよ」


「覆すつもりはありません。ただ、数字で信用を積み直すだけです」


追いすがる言葉を、エステルは一切口にしなかった。オルタンスが去った扉が閉まりきらないうちに、表通りから駆け込む足音が響く。


「先生! 大変だ、大変だ!」


御用聞きのジョエルが、息を切らして飛び込んできた。頬が上気し、額に汗が浮いている。


「どうしたの、そんなに慌てて」


「仕立て屋さんと穀物商も、今月の依頼を取り消すって言ってきたんだ。オルタンス様と合わせて、三件!」


「理由は聞いた?」


「聞かなくたって、わかるでしょ。噂のせいだよ」


エステルは依頼帳を手に取り、指で数を追った。七件のうち三件に線が引かれていく感触が、指先にはっきりと残る。


「半分以下ね」


「半分以下って、大丈夫なんですか、これ」


「仕入れにも、家賃にも届かない額よ」


「そんな……! それでも先生、あの人を辞めさせないんですか」


「辞めさせない」


「なんで!」


「理由をあなたに説明する義理はないわ。大丈夫にするのが、私の仕事」


声に揺らぎはない。だがジョエルは、その静けさのほうがかえって恐ろしいというように、そっと目を伏せた。


奥の作業場から、リオネルが顔を出す。事情を察したのだろう、その表情がわずかに強張っていた。


「聞こえていました。私のせいです」


「あなたのせいで依頼が減ったのは事実よ。それで、何が言いたいの」


「無給の一年では、足りません。もっと重い条件を課してください。住み込みの部屋も、道具も、自分で賄います」


「贖いの重さは、あなたが決めることじゃない」


「では、誰が決めるんです」


エステルは筆を置き、まっすぐにリオネルを見た。


「私が決める。あなたはただ、言われた通りに働けばいい」


「……それでは、私の気が済みません」


「気が済むかどうかも、私が決めることではないわ。証文を書くわよ。座りなさい」


「待ってください、話は終わっていません」


「終わったのよ、私の中では。座って」


リオネルは口を閉じ、椅子に腰を下ろした。エステルは新しい紙を広げ、筆先に墨を含ませる。


「一年間、無給。休みなし、給金の交渉も一切なし。ここまでは、前に言った通りね」


「はい」


「記帳作業に必要な費用は、事務所がこれを持つ」


筆が止まらず、一気にそこまで書き切られる。リオネルの眉が動いた。


「……この状況で、ですか。収入が半分以下に落ちた直後に」


「必要があるかないかも、私が決める。文句は?」


「重すぎませんか、こちらの負担が」


「重いかどうかも、私が決めることよ。何度言わせるの」


「……わかりました。ですが、一つだけ聞かせてください」


「何」


「なぜ、そこまでして私を置くんです。腕を買うだけなら、無給で十分でしょう」


「腕を買っているだけよ。それ以上でも以下でもない」


「では、費用の負担は」


「見習いを飢えさせて、まともな帳簿が書けると思う? 損得の話よ、それだけ」


「……ありません」


短い沈黙のあと、リオネルは小さく息を吐いた。それは諦めでも安堵でもない、名づけがたい響きだった。


二人分の署名が並び、朱の印が押される。乾いた音が、狭い事務所に響いた。


「これで、あなたは居候じゃない。雇われ見習いよ」


「肝に銘じます」


「妙な顔ね。証文なんて、ただの紙よ」


「ただの紙が、私を縛ってくれるんです。それが、ありがたい」


「縛られたいの? 変わった趣味ね」


「あなたの下でなら、悪くないと思っています」


「……減らず口ね」


そう言ったエステルの声が、思いのほか柔らかく響いたことに、彼女自身が一番驚いていた。


証文を棚にしまいかけたエステルの手が、卓の隅に置かれたままの依頼書に止まる。小売商連合から届いていた「共同帳合」の依頼書だった。


「これ、以前は断った仕事だけど」


「一人では抱えきれない、という理由でしたね」


「人手が二人なら、話は別よ」


「引き受けるんですか、この規模の仕事を」


「引き受ける。文句でもある?」


「いいえ。……ただ、驚いています」


エステルは依頼書を取り上げ、迷いなく判を押した。三件の損失が消えるわけではない。それでも、目の前に新しい数字が一つ、確かに積まれる。


「三件失って、一件得る。悪くない取引だと思わない?」


「思います。……いえ、思いたいです」


「素直に思いなさい。数字は嘘をつかないもの」


証文を届けにきたジョエルが、依頼書の束を覗き込んで目を丸くする。


「共同帳合って、あの連合の? 前に先生、規模が大きすぎるって断ってませんでした?」


「一人ならね。今は二人よ」


「へえ……なんだ、ちゃんと使ってるんですね、リオネルさんのこと」


「使えるものは使う。それだけよ」


ジョエルが肩をすくめて笑い、駆け足で表へ戻っていく。静けさが戻った事務所で、作業に戻ったリオネルが、共同帳合の台帳を古い記録と突き合わせ始める。ページをめくる指が、不意に止まった。


「エステル様。少し、妙な癖がある帳簿ですね」


「どういうこと」


「連合の記帳は月ごとにまとめられているはずなのに、一項目だけ様式が違います。字も、他とは別人のもののようです」


「古い項目が紛れ込んでいる、ということ?」


「おそらく。この名目、聞いたことがありますか」


「どれ」


エステルが覗き込む。羊皮紙の端に、小さな文字で書かれた一行があった。


「『亡霊部隊・給与』……知らないわ、こんな名目」


「支払いは半年前から、毎月同じ額で続いています。受取人欄に……」


「受取人欄に、何と書いてあるの」


リオネルの指が、その一行の上で止まる。声がわずかに掠れた。


「……ヴェルヌイユ家、遺族基金」

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