弟子入りは贖罪の証、この帳簿には嘘がない
「——エステル・ド・ヴェルヌイユ様。あなたを陥れた報告書を、お返しに参りました」
扉の外から、聞き覚えのある声がした。算盤を弾く指が止まる。エステルは顔を上げず、帳簿の罫線に視線を留めたまま声だけを返した。
「人違いでしょう。うちは記帳事務所です、懺悔室じゃない」
「人違いではありません。リオネル・ダルクです」
指の先が、ひとつ冷たくなった。一年ぶりに聞く名前だった。
扉が開く。かつて監査官の制服できっちりと固めていた男が、擦り切れた革靴と埃を被った旅装で立っていた。
抱えているのは帳簿ではない。綴じ紐の色が褪せた、薄い一冊の報告書だった。
「よくもここへ、その顔で来られたわね」
「顔を隠す資格もないと思っています」
「資格の話なんてしていない。ここは商売の場よ。あなたの謝罪を聞く場所じゃないの」
「謝罪には来ていません」
リオネルは報告書を両手で差し出した。手は震えていない。
「王室財務監査第十四号。金貨四百八十枚の使途不明金を、あなたが持ち出したと結論した報告書です。私が書きました。数字を作ったのも、私です」
奥の椅子で帳面を広げていたマダム・オルタンスが、身を乗り出した。恰幅のいい貴婦人の目が、報告書とリオネルの顔を往復する。
「エステル、その方……いま、なんて」
「聞こえた通りです、オルタンス様」
エステルは筆を置いた。声を荒らげてはいない。ただ、指先が羊皮紙の端をきつく押さえている。
「四百八十枚。私が数えたこともない額よ」
「はい」
「その濡れ衣一枚で、婚約は破棄されたわ。家名は貴族名簿から削られた。父は最後まで口をきかずに死んだ」
「存じています」
「存じている。ずいぶん軽い言葉ね」
「軽くする言葉を、私は持っていません」
「一年よ」
エステルは、机の端に積まれた依頼帳を指で叩いた。
「一年かけて、七件。仕立て屋と穀物商と、オルタンス様と、あと四つ。爵位のない人たちが、私の字を信じてくれた七件よ。それが今の私の全部」
「……はい」
「その全部を、あなたは今この場で燃やせる。名乗るだけでいいの。わかっている?」
「わかっています」
「わかっていて名乗ったのね」
「隠して雇われるより、たちが悪いと思いました」
「ならば黙って帰りなさい。その紙は焼いておいて」
「焼けば、あなたの潔白を証明する紙も消えます」
エステルの手が、止まった。
「……どういうこと」
「この報告書は、崩せます。作った私だからこそ、どこを崩せば崩れるか知っている」
「都合のいい理屈ね」
「都合がいいことは承知しています。それでも、これしか差し出せるものがありません」
しばらく、算盤の玉の音だけがした。エステルは報告書を受け取らず、机の上を指で示した。そこに置け、という意味だった。
リオネルが開く。エステルは覗き込まない。開かれた紙を、遠くから見下ろしたまま言った。
「読み上げなさい。手口を、あなたの口から」
「……仕入れの実費に、一定の割合を上乗せしました。あなたが記帳した数字はそのままです。私は、その横に運送費の欄を足しただけです」
「二割」
「はい」
「端数の付け方まで揃えたわね。毎月きっかり」
リオネルが、初めて顔を上げた。
「なぜ、それを」
「私の帳簿だからよ」
エステルはようやく一歩踏み出し、紙の上に指を置いた。ページを繰る音が、狭い事務所に三度響く。
「見咎められにくい数字の作り方ね。人の手で毎回同じ誤差を作るのは、偶然では起こらない。——ここまでは、あなたの仕事」
「ここまでは、と申しますと」
「この一行は、あなたじゃない」
指が止まっていたのは、最後の頁の下から二行目だった。
「字が違う。あなたの数字の『四』は、上の横棒が長い。この行だけ短いわ」
リオネルの喉が動いた。返事がない。
「それだけじゃないわ。この行だけ、上乗せが二割じゃない。一割八分」
「……端数が、揃っていない」
「揃えられなかったのよ。あなたの癖を知らない人が真似たから」
エステルは指を横へ滑らせ、頁の隅で止めた。
「それに、決裁印の日付。私の婚約が破棄されたのは春の第三週。この印は、その三日後よ」
「……三日後」
「私がもう社交界にいない日に、私の名前で、誰かがもう一行足したの」
オルタンスが小さく息を呑む。リオネルは報告書に手を伸ばしかけ、途中で止めた。エステルが紙を引き寄せていた。
「返して、とは言わないのね」
「言えません。それは、あなたのものです」
「そう。私のものよ」
エステルは報告書を閉じ、帳簿の山の一番下に差し入れた。それから、初めてリオネルの目を正面から見た。
「あなたは自分が全部やったと思って、ここへ来たのでしょう」
「思っていました」
「思い違いよ。あなたは道具の一本にすぎない。使った手は、まだ他にある」
「では、私は」
「使われた道具に用はないわ。——でも、内側を知っている道具には、ある」
エステルは新しい紙を広げ、筆先に墨を含ませた。
「一年間、無給でうちの見習いを務めなさい。休みはなし。給金の交渉も一切なし」
「……お受けします」
「早いのね。条件をまだ全部言っていないのに」
「どんな条件でも」
「では言うわ。この報告書の話を、誰にも売らないこと。私の許しなく、一行も持ち出さないこと。破れば、あなたを盗人として突き出す」
そこで初めて、リオネルの返事が遅れた。喉の奥で言葉を一度潰したような、短い沈黙だった。
「……それは、私が真相を掴んでも、あなたの許しなしには使えないという意味ですか」
「そうよ」
「かしこまりました」
「今日のうちに官舎を引き払いなさい。夜には作業場にいること」
リオネルが頭を垂れて出ていく。扉が閉まると、オルタンスが震える声で言った。
「エステル、あなた、本気であの人を置くの。商人街じゃ明日には噂になるわ」
「なるでしょうね」
「依頼が減るわよ」
「減らせばいいわ」
エステルは帳簿の山の一番下に手を触れた。指の腹に、褪せた綴じ紐の感触が残る。
「あの紙には、私の名前で動いた金が書いてある。私が追放されたあとも、まだ誰かが私の名前で金を動かしていたのよ、オルタンス様」
「まさか……今も?」
「それを知りたいから、道具を一本、手元に置くの」
夜。事務所裏の作業場で、リオネルは道具袋の上に手を置いていた。棚も寝台もない、埃っぽい小部屋だった。
自分が書いた数字が、自分の知らない一行を連れていた。その意味を、彼はまだ量りかねている。
「……贖いだけでは、こんなに嬉しくなるはずがない」
呟きは誰にも届かない。
ただ、指先はまだ覚えている。自分が書いていない「四」の、あの短い横棒を。決裁印が押されたのは、彼が報告書を提出した三日後だった。




