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三十年前の二重計上を帳簿で完全論破。そして今夜、彼との『贖罪の契約』が対等な共同経営へと書き換えられる

教会区の債権管理人は、羊皮紙を机に叩きつけるように置いた。乾いた音が、狭い部屋に響く。


エステルは紙面の数字を目で追う。指先が、行の終わりで止まった。


「ヴェルヌイユ家の残債、七日以内に精算されなければ、一族の墓所を含む最後の資産を差し押さえます」


「七日、ですか。分割での精算は認められませんか」


「規定です。一括でなければ受け付けません」


「一括でなければ、というのは何を根拠にした規定です」


「教会区財務規則の第三条。古くからの取り決めで、例外は一度もありません」


「墓所まで含めるというのは、あまりに性急ではありませんか」


「性急も何も、これが規定です。異論があるなら、七日以内に耳を揃えてお持ちなさい」


管理人は帳面を閉じ、腕を組んだ。その視線は、値踏みするようにエステルの外套を上下に眺める。


エステルは机の端に置かれた古い記帳簿へ視線を移した。表紙の革は乾き、角が丸くすり減っている。


「その記帳簿、少し拝見してもよろしいですか」


「これは教会区の記録です。部外者に見せるものではありません」


「残債の根拠を確かめたいだけです。数字が正しければ、私は文句を言いません」


「数字は、こちらで既に確認済みです。今さら覆るものではない」


「確認済みなら、なおのこと見せていただいて構わないはずです」


管理人はしばらく黙り、それから渋々と表紙を開いた。紙の間から、埃と蝋の匂いが立ちのぼる。


エステルは指先で古い頁をたどり始めた。羊皮紙特有の、ざらついた感触が指の腹に伝わってくる。


隣でリオネルが身を乗り出した。蝋の匂いが染みついた紙は、めくるたびに乾いた音を立てる。


彼の視線は数字の列を追いながら、時折エステルの指の動きにも向けられていた。


「ここ、見てください」


エステルの指が、ある一行で止まった。数字の並びに、わずかな歪みがある。


「何がおかしいと」


「三十年前、連隊経費として計上された額が、教会区のこの項目にも重複して載っています」


「重複、ですって。何かの見間違いでは」


「見間違いではありません。日付も金額も、一致しています」


「日付まで一致するというのは、そう滅多にあることではないはずですが」


「滅多にないからこそ、見過ごされてきたのでしょう。三十年、誰も気づかなかった」


リオネルが横から帳面を覗き込み、息を呑んだ。彼の指が、震えながら同じ行をなぞる。


「これは、父の代の連隊記録と……同じ日付だ」


「あなたのお父様の記録と?」


「はい。連隊経費として一度支払われたものが、教会区にも別枠で計上されている。二重取りです」


「二重取り、と言い切れるだけの証拠が、そちらにあると?」


「証拠なら、事務所の控えにあります。父の代からの記録を、私は継いでいますから」


管理人の顔色が変わった。指先が、帳面の縁を強く押さえる。爪の先が白くなるほどの力だった。


「たとえそうだとしても、今さら三十年前の話を持ち出されても」


「今さらではありません。誤配分は誤配分です。相殺を申し立てます」


「相殺など、前例がありません」


「前例がなくとも、記録が示している以上、認めないわけにはいかないはずです」


「認めれば、教会区の帳簿そのものを訂正することになる。簡単な話ではないのですよ」


「簡単でなくとも、誤りは誤りです。訂正を先延ばしにする理由にはなりません」


「……この額を、本当に相殺できると」


「できます。連隊経費の過大計上分を差し引けば、残債の不足分はほぼ埋まります」


管理人は帳面と羊皮紙を何度も見比べた。ため息が、長く尾を引く。眉間の皺が、深くなっていく。


「……仕方ない。相殺を認めましょう。墓所への差し押さえは、取り下げます」


「ありがとうございます」


エステルは深く息を吐いた。張り詰めていた肩から、力が抜けていく。指先の震えも、少しずつ収まっていった。


事務所に戻ると、窓の外はもう夜だった。テーブルの上に、二人分の帳面が並んでいる。


蝋燭の炎が、紙面に落ちる影を小さく揺らしていた。


「ギヨーム様の件、耳にしましたか」


リオネルが静かに切り出した。エステルは頷き、蝋燭の芯を整える。指先に、蝋の熱がわずかに伝わる。


「資産没収と婚約解消、と聞いたわ。それだけよ、もう」


「それだけ、ですか」


「終わったことに、いちいち感情を割く余裕はないの。今は、こちらが先」


「感情を割く余裕がない、というのは、あなたらしい言い方です」


「らしい、というのは褒め言葉と受け取っておくわ」


エステルはリオネルの帳面を指差した。表紙の隅が、少しだけ擦り切れている。


「見せてもらえる? 第十五話から積んできた、あの副業の報酬」


「……はい。通しで数えたことは、一度もありませんでしたね」


「一度も? この一年近く、ずっと書き足していたのに」


「書き足すことと、数え上げることは、別の作業ですから」


二人は頁をめくり、数字を一つずつ声に出して確かめ合った。蝋燭の灯りが、指先を照らす。


金貨の単位が変わるたびに、リオネルの声はわずかに低くなった。


「第十五話から、これだけになります」


リオネルが最後の数字を指した。エステルはその横に、自分の帳面の総額を並べる。


「思っていたより、ずっと積み上がっているのね」


「地道に、という以外に方法がありませんでしたから」


「地道に、か。あなたらしい言葉だわ」


「あなたに教わった言葉です。帳簿は、一日でどうにかなるものではないと」


「あと少しで、追いつくわね」


エステルの声に、リオネルは首を振った。蝋燭の炎が、彼の横顔に影を落とす。


「追いつくためじゃない、並ぶためです」


「並ぶため、と言い直すの」


「はい。追いつくは、後ろにいた者の言葉です。私は、そちら側にはいたくない」


「後ろにいた者、なんて、あなたはもう思っていないでしょうに」


「思っていなくても、言葉には気をつけたいんです。並ぶ、という言葉のほうが、正確ですから」


エステルは彼の顔をしばらく見つめ、それから小さく笑った。


「……そうね。訂正するわ。並ぶため、と」


「一年契約も、期限を待たずに書き換えませんか」


「贖いの一年から、対等な共同経営へ?」


「はい。もう、贖う立場のままでいる理由がありません」


「理由がない、と言い切れるのね」


「言い切れます。あなたの隣に立つための理由は、贖い以外にもう見つけましたから」


エステルは帳面を閉じ、両手で数字の合計を確かめるように押さえた。指先に、紙の重みが残る。


「合わせても、商業組合の登記に必要な水準には、わずかに届かないわ」


「足りない分は、明日までにどうにかなるものでしょうか」


「わからない。でも、届かないからといって、待つつもりはないの」


「では」


「明日、二人で商業組合へ行きましょう。対等な出資者として」


リオネルは帳面を胸に抱え、静かに頷いた。蝋燭の灯りが、二人の影を壁に長く伸ばしていた。


窓の外では、夜風が通りの提灯を静かに揺らしている。

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