第30話 差額の恋、相殺の帳簿
「対等な共同経営とは名ばかりで、実態は雇用ではないか——本日中に、その証明ができなければ、登記は却下いたします」
登記官は書類を机に置いた。乾いた音が、狭い窓口に響く。
窓口の奥では、羽根ペンの束が硯の脇で行儀よく並んでいた。リオネルの肩が、わずかに強張るのが見える。
「何をもって証明といたしますか」
エステルは帳面を抱えたまま、一歩前に出た。窓から差し込む朝の光が、帳面の表紙に薄く反射する。
「宣言だけでは足りません。ダルク氏の資本が、独立した出資であることを示す裏付けが必要です」
「口約束では、通らないということですか」
「口約束では、誰の資本かなど、後からいくらでも書き換えられますから」
「ずいぶんな言い方をなさる」
「穏やかでなくとも、事実です。数字は口約束より雄弁ですから」
「裏付け、とは具体的に」
「この一年に交わした個々の依頼と、依頼主側の控え。日付と金額が矛盾なく一致するか、本日中にすべて照合していただきます」
リオネルが横で息を呑んだ。喉の奥で、短く音が鳴る。
「一年分、全部を、今日中にですか」
「できなければ、却下です。次の機会は半年後になりますが」
「半年後、では遅すぎます」
「では、道はひとつです」
「でしたら、今すぐに始めることです」
エステルは帳面を開き、指先で頁をたどった。数字の列が、ずらりと並んでいる。
インクの色が古いものほど薄く、新しいものほど黒々としていた。積み重ねてきた時間そのものが、そこに層をなしている。
紙の縁は、めくられ続けた分だけ丸く柔らかくなっていた。指の腹に、その厚みがそのまま伝わってくる。
「やりましょう。一件ずつ」
「日暮れまでに終わりますか」
「骨が折れるくらいでなければ、証明にはならないわ」
「僕の依頼の分、控えを持ってきました!」
戸口からジョエルが駆け込んできた。息を切らし、紙束を掲げている。
「そんなに急いで、転びますよ」
「転んでる場合じゃありません、間に合わせないと!」
「みんな、よく駆けつけてくれたわね」
「エステルさんに世話になった人には、僕から声をかけて回ったんです。当然のことですから」
「マリーさんも、洗濯屋の帳面を持って表に」
「セシル様まで?」
「私にできることなら、これくらいはさせてください」
「オルタンス商会の控えも、ここに」
「昔の意地は、もう脇に置いておくわ」
「皆さん、こんなに早く」
「早く来ないと、間に合わないと聞いたので」
四人分の紙が机に並んだ。羊皮紙の縁が擦れ合い、乾いた音が窓口に満ちていく。
紙の隙間から、埃と蝋の混じった匂いが立ちのぼった。誰かの控えには、まだインクの匂いが新しく残っている。
エステルとリオネルは帳面と控えを一件ずつ突き合わせていく。
「日付も、金額も、一致しているわ」
「こちらも」
「……こちらは、金額が違います。マリーさんの控えでは十二枚、私の帳面では十枚と」
「差額の二枚は、当時の値引き分よ。洗濯屋の商いが傾いていた時期で、正規の額を頂かなかったの」
「値引きを、帳面に書き残していないと」
「値引きは経費ではなく、値引きとして別欄に記すべきでした。今、直します」
「別欄に記せば、筋は通りますね」
「筋さえ通れば、数字は動かせるわ」
「筆跡まで揃うとは、なかなか見ないものです」
「揃っているから、疑う余地がないんです」
「その言葉を、久しぶりに聞きました」
「そう? 私は毎日言っているつもりよ」
登記官は腕を組み、一件ごとに頷いた。ペン先が紙に触れるたび、乾いた音が窓口に小さく残る。
だが、最後の頁でエステルの指が止まる。数字を二度、三度と目で追い直しても、答えは動かなかった。
「……まだ、少し足りない」
「何が、です」
「対等出資の下限に、端数だけ届かないの。ずっと気にかけてはいたけれど、詰め切れていなかった」
「どういうことです」
「現金の額だけを、資本として数えていたから」
リオネルの顔が強張った。指先が、帳面の縁を強く押さえる。爪の先が、紙の上でわずかに白くなる。
「今日中に、埋まらなければ」
「却下、ですよね」
「そうです」
「あと、どれくらい足りないんです」
「わずかよ。でも、わずかが一番、厄介なの」
「わかります。一番小さな数字が、一番遠いこともある」
エステルは帳面を繰る手を止め、頁の隅に記した小さな数字に目を留めた。指先が、そこで初めて跳ねる。
「リオネル、これを見て」
「これは……半月ほど前、筆跡鑑定を頼まれた分の請求書ですか」
「まだ現金では回収していない依頼料よ。でも、請求そのものは正当に成立している」
「回収前の請求を、資本に数えるということですか」
「正当な債権は、現金と同じ価値を持つはずよ。回収の見込みが確かならね」
「登記官殿にそれで、通りますか」
「通すかどうかは、証拠次第だわ」
エステルは登記官へ向き直った。
「回収前の依頼料も、正当な債権として、資本に計上させてください」
「債権を資本に、ですか。前例がありませんね」
「前例がなくとも、回収の確実性を示せれば、認められないはずはありません」
「どのように示されるおつもりです」
「契約書の控えと、依頼主の署名。それに、支払期日がまだ過ぎていないことです」
リオネルが鞄から一枚の紙を取り出した。依頼主の署名が入った請求書の控えだった。
「日付は半月前、金額はここに」
登記官はそれを受け取り、帳面と照らし合わせる。指先が、数字の上を這うように動いた。
「……たしかに、金額も日付も符合しています」
「これを加えれば」
「下限に、届きますね」
エステルは合計を書き足し、登記官へ帳面を差し出した。
「これで、下限に届きます」
登記官が数字を確かめる。眉間の皺が、少しずつ緩んでいった。指先で紙面をなぞる音だけが、しばし窓口に響く。
「……確かに、届いています」
「証明は、以上です」
「数字の証明としては、これで十分です。ですが」
登記官は羽根ペンを持ったまま、二人を見比べた。
「対等な共同経営とするからには、双方の意思も証文に添えます。どちらからでも」
エステルは登記官に答えなかった。帳面を閉じ、隣に立つ男のほうへ体を向ける。
「リオネル。今日で、一年よ」
彼の手が、帳面の縁で止まった。
「……はい」
「無給の見習いという条件は、今日で切れる。それから、もう一つ解くわ」
エステルは懐から、綴じ紐の褪せた薄い一冊を取り出した。一年前、彼が机の上に置いていったものだった。
「私の許しなく一行も持ち出すな、と言ったわね。あれを解く。今日から、あなたはこれを自分の判断で使っていい」
リオネルは受け取らなかった。伸ばしかけた手が、途中で止まる。
「……なぜ、今なのです」
「道具に許しはいらないからよ。共同経営者には、いる」
エステルはそこで一度、言葉を切った。窓口の空気が、やけに静かだった。
「それから、これは登記官殿に申し上げることではないから、あなたに言うわ」
リオネルが顔を上げる。
「私はあなたを、償いの相手としてではなく、対等な伴侶として選びます」
羽根ペンの先が、紙の上で一度だけ止まった。登記官は口を挟まなかった。
「この手が、私を裁いた手と同じだということを、忘れたことはないわ」
「忘れていただこうとは、思っていません」
「そう。忘れないまま、隣に書いて」
「——償いを、終えてよいという意味ですか」
「終わりなさい、と言っているの。贖いの重さは私が決める——そう言ったでしょう」
リオネルは一度だけ、深く息を吸った。それから筆を下ろし、自分の名を記す。インクが、乾いた紙にじわりと染みた。
エステルもその隣に、自分の名を書き加えた。二つの署名が、証文の上に並ぶ。文字の高さは揃ってはいないが、確かに対だった。
登記官は羽根ペンを置き、受理印に手を伸ばす。
「お二人の意思、確かに記録いたしました」
朱色の印影が、証文の中央に残る。
「受理いたします」
その夜、二人は作業場に戻った。かつてリオネルが最初に暮らし始めた部屋には、まだ古い帳面の匂いが残っている。
蝋燭の灯りが、机の上の証文を照らしていた。証文の朱印だけが、他のどの頁よりも新しく見える。
「一年前の夜、この部屋で独り言を言いました」
リオネルは、道具袋を置いていた場所に目をやった。今はもう、そこに袋はない。
「聞こえていたわ、とは言わないでおくわ」
「聞こえていなくて、幸いでした。あのときの私には、言う資格がなかったので」
「今はあるの」
「証文に、名前を並べていただきましたから」
エステルは何も言わず、椅子を引いて彼の正面に座った。逃げ道を塞ぐような座り方だった。
「では、言いなさい」
リオネルはしばらく蝋燭の炎を見ていた。それから、まっすぐに彼女を見た。
「贖いだけでは、こんなに嬉しくなるはずがない」
蝋燭の芯が、小さく爆ぜる。
「一年、そればかり考えていました。数字は嘘をつかないのに、自分の帳尻だけが、どうしても合わない」
「合わない差額は、何だったの」
「あなたに会えることを、罰だと思えなかった分です」
エステルはすぐには答えなかった。証文を自分のほうへ引き寄せ、乾いた朱印の隣に指を置く。
「その差額なら、私の側にも同じだけ立っているわ」
「……同じ額、ですか」
「ええ。だから相殺よ。帳尻は、これで合った」
リオネルが、声を出して笑った。一年で、初めて聞く笑い方だった。
窓の外では、夜風が提灯を静かに揺らしている。机の上には、朱印の乾いた証文が一枚。差額のない帳簿が、ようやく一冊できあがっていた。




