タイムリミットは四半刻。偽造不可能な「紙の目」とインクの沈みで、財務卿の罪をぜんぶ暴いて差し上げます
「本日の開廷中に証拠が整わなければ、この審理は却下、後日の別廷送りとなります」
法廷書記官の声が、高い天井に反響する。傍聴席がざわめき、扇子の音が幾つも重なった。
「後日、というのはいつのことです」
傍聴席の誰かが小声で尋ねる声が漏れた。書記官は表情を変えずに応じる。
「先例に従えば、数年先です。五年、十年ということも珍しくありません」
その一言に、傍聴席の空気がさらに張り詰める。エステルは息を止め、ゆっくりと吐き出した。
「大丈夫ですか」
隣に立つリオネルが、小さく囁いた。エステルは前を見たまま、短く頷く。
「大丈夫。時間が足りるかどうかは、これから証明する」
エステルは抱えてきた紙束を、証拠台の上にそっと置く。表紙の端はまだ焦げ跡を残していた。
「異議があります」
ロシュ側弁護人が立ち上がった。声には余裕があるようで、指先はわずかに紙を叩いている。
「この原本、入手の経緯が不明瞭ではありませんか。昨夜、何者かが子爵邸に侵入した疑いすらある」
「侵入ではありません。監査対象規定に基づく閲覧の延長です」
「延長で済む話でしょうか。深夜に、しかも焼却現場から持ち出されたと聞いています」
「焼却現場から持ち出した、とおっしゃいましたね」
「ええ、そう聞いています。それこそが不自然だと申し上げているのです」
「では伺います。誰が、何のために焼いていたとお考えですか」
弁護人の指先が止まった。傍聴席の視線が、一斉にロシュへ向く。
「経緯は後刻いくらでも問うてください。今は、これが本物かどうかが問題のはずです」
裁判長が木槌を軽く鳴らす。場が一瞬、静まった。
「弁護人の異議はもっともだ。真正性が示されなければ、証拠として採用できない」
「時間は」
「あと一刻。それまでに示せなければ、却下する」
一刻。エステルは掌の中で、その言葉を繰り返した。喉の奥が、ひどく渇いている。
「行けますか」
リオネルが背に軽く手を添えた。指先はまだ煤の匂いを残していた。
「行くしかない。ここで示せなければ、三十年がまた振り出しに戻る」
エステルは息を整え、証言台に進み出た。膝が触れる木の縁が、冷たく硬い。
「では、鑑定の手順に沿って示します。まず、こちらをご覧ください」
彼女は第十四話で確定した老獄吏の証言書を、原本の隣に並べる。傍聴席から身を乗り出す音がした。
「証言書とは、何のために並べるのですか」
裁判長が身を乗り出し、初めて口を挟んだ。
「真正性が既に確定している証拠と比べることで、原本の年代を裏づけます」
「なるほど。続けなさい」
「何を比べるおつもりです」
「インクの劣化と、紙の目です。会計監査官の鑑定手順では、まず色の沈み方を見ます」
「色の沈み方、とは」
「新しいインクは黒に近い艶を持ちます。古いものは褐色に沈み、繊維に染み込む深さが違う」
「この原本は、褐色ということですか」
「ご覧の通り。証言書と同じ沈み方をしています。三十年という歳月が、同じ速さで色を変えている」
「同じ速さ、と言い切れる根拠は」
「劣化の速度は紙質とインクの成分で決まります。この二枚は、成分の配合まで一致している」
弁護人が身を乗り出し、目を細める。
「色だけで、断定できるものでしょうか。偶然の一致という可能性は」
「偶然では説明できません。紙の目も、あわせて確かめますから」
「紙の目、とは初めて聞く言葉です」
「当時の記録院御用達の紙は、漉きの向きに癖があります」
「癖、ですか」
「光にかざすと、縦の筋がわずかに波打つ。証言書も、原本も、同じ波の間隔です」
エステルは二枚を光にかざした。傍聴席が息を呑む音が、波のように広がる。
書記官が壁際の水時計にちらりと目をやった。針は、もう半分近くまで進んでいる。
「残り、四半刻です」
書記官の声が短く響いた。エステルは手元の紙から、目を離さなかった。
「間隔が、同じ職人の手によるものだと」
「同じ工房、同じ時期の紙です。偽造では、この波までは再現できません」
「再現できない、と、なぜ言い切れるのですか」
「波の間隔は漉き枠の癖です。同じ枠を持たない限り、誰にも真似できません」
「その枠とやらが、たまたま同じだったという可能性は」
「三十年前、記録院に紙を納めていた工房は一つだけです。可能性ではなく、事実です」
「一つだけ、と言い切れますか。私の手元には、当時の納入記録がある。工房は、二つありました」
弁護人が懐から一枚の紙を取り出し、頭上に掲げた。傍聴席がどよめき、裁判長が身を乗り出す。
「二つ、ですって」
「ご覧なさい。記録院への納入業者、確かに二軒の名がある。あなたの根拠は崩れましたね」
エステルは紙を受け取り、素早く目を走らせた。指先が、品目の欄で止まる。
「……確かに、二軒。ですが、これをご覧ください」
「今さら何を。時間はもう残り僅かのはずですが」
「二軒目の工房は、商人組合向けの安紙しか納めていません。記録院の公式文書には、一度も使われていない」
「それは、あなたの推測でしょう」
「推測ではありません。品目の欄、そこに〈粗紙・商用〉と記されています」
エステルは紙を裁判長へ差し出した。指先が示す一行に、裁判長の目が細まる。
「……確かに、粗紙・商用とある。公式記録用の紙ではないな」
「原本の目は、証言書と同じ密な織りです。粗紙とは、指で触れただけでも違いが分かります」
裁判長が原本の端に指を這わせ、次いで証言書に触れた。二度、確かめるように往復させる。
「感触が、違う。……粗紙ではない」
弁護人はしばらく黙り、それから静かに腰を下ろした。反論の言葉は、もう出てこなかった。
裁判長が身を乗り出し、二枚の紙を交互に見比べた。指先が紙面をなぞる。
蝋燭の灯りが、裁判長の手元で小さく揺れる。傍聴席は、誰一人として声を出さなかった。
「証拠として採用する」
木槌が鳴った。乾いた音が、法廷の隅々まで響き渡る。
エステルは詰めていた息を、ようやく吐き出した。膝の震えが、今になって襲ってくる。
「財務卿ロシュ子爵、爵位剥奪及び資産没収を申し渡す」
ロシュは椅子の背にもたれ、うなだれた。その肩から、力という力が抜け落ちていく。
傍聴席がどよめく間もなく、エステルは静かに紙束を胸に抱えた。証言台の縁から、ようやく手を離す。
「終わりましたね」
リオネルの声が、隣から低く響いた。彼の指先はまだかすかに震えている。
「終わったわ。三十年分が、これで一枚の判決文になった」
「一枚の判決文に、三十年分が」
「そう。母の裏帳簿から、あなたのお父様の記録まで。全部、この紙一枚の中にある」
法廷を出ると、外はもう夕暮れだった。石畳が赤く染まり、人の影が長く伸びている。
「先生! お待ちしていました!」
ジョエルが息を切らして駆け寄ってきた。手には小さな包みを握っている。
「どうしたの、そんなに急いで」
「リオネル様への依頼料、預かってきました。判決を待つ間に、代わりに受け取っておいたんです」
「待っている間、ずっとそれを?」
「はい。先生たちが法廷から出てくるまで、外で握りしめてました」
「わざわざ、ありがとう。緊張の中でも、仕事はきちんと動いていたのね」
「先生たちが法廷にいる間も、街は普通に動いてますから」
「それにしても、また依頼料。この頃、随分と溜まってきたのではなくて」
「溜めているんです。使うあてが、決まっていますから」
「使うあて、とは聞かないでおくわ。まだ、そのときじゃないのでしょう」
「ええ。今はまだ」
リオネルが包みを受け取り、外套の内側にしまった。指先の震えは、まだ収まっていない。
「震えているのは、判決のせい? それとも」
「両方かもしれません。安心と、実感が追いついていないのと」
「終わった、というのが、まだ信じられません」
エステルは足を止め、彼の顔を見上げた。夕陽が頬に赤い影を落としている。
「終わってはいないわ」
「終わっていない、とは」
「私たちの証文は、まだ一枚も交わしていない」
リオネルが目を見開き、それから小さく笑った。頬の緊張が、ようやくほどけていく。
「それは、覚えておきます」
「忘れないで。判決文より先に、片づけることが残っているから」
「片づけること、と言われると、少し身構えます」
「身構えなくていいわ。ただ、覚えておいてほしいだけ」
夕陽が石畳の先まで長く伸び、三人の影を赤く染めていた。
三人は夕暮れの商人街を、ゆっくりと歩き出した。




